Miaou:猫と一緒にフランス語

長い道のりを猫と共に行きつ戻りつ

”ちょいしゃべ”で終わらないために

2006-01-05 21:54:39 | フランス語
世の中では「ちょいわるオヤジ」が人気だそうで、某デパートでは「ちょいわるオヤジにモテるためのコーディネイト福袋」も売り出したそうです。
なんか、行き過ぎではないですか?
そこそこマッチョな体に第3ボタンぐらいまで開けた仕立てのいいシャツ。ロロ・ピアーナのカシミアのジャケットにアルマーニのジーンズ、足元はヴェルルッティの靴ですか?
「ちょわるオヤジ」になれると錯覚して、買いに走るおじさまたち、景気回復に貢献されて本当に結構です。

さて、ある語学学校のテレビCMの中に「ちょいしゃべ」っていうのがありました。
ちょっとした一言を使えるようになりましょう。そうすれば「生きた外国語(英語)」を使えた気になります・・・ってことでしょうね。

以前、フランス語を始めて2年目ぐらいのときに、知り合いの知り合いで、フランス語を公用語とするアフリカの方と話す機会がありました。
私が言葉に詰まって「Comment dirais-je...(何ていったらいいのか・・・)」とふと口に出したら、「”コマン ディレージュ”だって」と、先方は「そんな言い方も知ってるの?」ムードの反応でした。
でも、わたしにとっては、そこでいっぱいいっぱいの状況だったのです。

本当に「ちょいしゃべ」でいいんですか?
ちょいしゃべだけでは、自分の言いたいことなんて、言えないでしょ?
自慢じゃないですけど、わたくし、フランス語で相槌うつの得意です。
「へぇ」とか「ほんとに?」とか「それで?」とか、話す相手がますます話せるように相槌うてます。
でも、自分の言い表したいことは30%も言えてないんです。
毎回ジレンマストレスフラストレーションのトリプルアクセルです。

生きた英語(語学)を操るために、まずはネイティブ相手にとにかく喋る機会を多く持つことをよしとする傾向がありますよね。
日本の英語教育は文法から入るからダメなのだ、ってよく言われています。

でもでも、ある程度文法をきっちり叩き込んだ頭でないと、ちゃんとした外国語は話せないのではないかと思います。

今読んでいる本「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」の中に次のようなくだりがありました。「本で読めるものはある程度聞き取れる、聞き取れた部分のいくらかは話せる」
文字で読んで、分からない部分を自力で調べてある程度納得して頭に入れる。そして、別の機会に自力で調べた表現を偶然耳にして意味が取れる。するとそれを今度は自発的に運用してみようと思い、してみる。そして自分の中に本当に根付くのだと思うのです。
たくさんの文章に当たって、たくさんの表現を仕入れることがまずは必要なのですよね。

でも、ただ黙々とフランス語の文章と辞書とノートの世界に埋没してはダメなのですよね。話すということは、舌と口の口の周りの筋肉を動かすことなのです。
スポーツ選手が筋トレをするように、フランス語を喋る、口の周りの筋トレも必要なのです。野球の選手が黙々と素振りをするように、簡単な文章を口を使って声に出すことも不可欠だと思います。


つまりは万遍なく努力せい!ということですね。
まずは頭で仕入れて頭で理解、そして頭と筋肉で運用運用、ですね。



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4 コメント

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私の感想ですが (貴香子)
2006-01-05 22:24:22
これはここ10年くらいさかんに言われている語学学習の永遠のテーマとも言えますね。



私もあとせめて10年遅く生まれていればと、思う語学の義務教育を受けました。文法と作文、精読です。しかし自分でお金をだして習った語学はこれらの基礎学力と聞く・話す力の両方を勉強しました。これが語(を)学(ぶ)ではと思います。



スクールに通って思うのは「いかに話すか」を習っているはずなのですが、やはり最後は「何を話すか」「何のために習っているのか」という本質的なところに行き着くと思います。自分の意見を持って話すことがなければダメなように思います。



ちょいしゃべ、は私は賛成です。まずは恐怖心を払拭するのにはガイジンとしゃべってみる、いいことです。でもこれだけで自分を「国際人」と取り違えてはいけないと思いますね。(…と自分を戒めています)



このテーマは私も日記に書きたいくらいネタがありますね。



*うちのニャンは家族がそれぞれ勝手に名前をつけてるんですよ~(苦笑)。
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目的ではなく手段 (miauleuse)
2006-01-06 22:15:34
貴香子さん、こんばんは。



おっしゃるとおり、「何をフランス語でしゃべるか」というのが、突き詰めれば問題になってくるのですよね。

これはフランス語以前、日本語の問題ですね。

一つの出来事や事柄に対して、自分がどう考えるのかを、一番繊細に言語表現できるのは、やはり母国語である日本語です。

それと同じレベルの繊細さをフランス語に求めるのは私には一生無理でしょう。

でも、日本語で考えていることの半分でも言えたら・・・どんなにいいか。

フランス語で話しながらも心の中で「本当はもっと、これもあれも言いたいのよ」って叫んでる(ちょっと大げさ・・)のが今の私のレベルなんですよぉ~~~(涙)



”ちょいしゃべ”は最初の垣根を取り払うには大変重要だと思います。

そして「通じた」という成功経験が次への動機付けになりますよね。



語学ってやり始めると、語学だけではすまなくなるのが怖いですね。

な~~んて書いちゃってますが、他にこれもあれもやってます、なんて言えないわたしです。(きっぱり!)



話題はポ~~ンと飛びますが、スカイプいいですよ。



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読解重視賛成 (ドラム小僧)
2006-01-10 21:33:14
「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」は私のブログでも扱いました(拙稿『語学上級向けの本』参照)。彼らの外国語に対する伝統的な習得方法に賛成です。かつて英語学者渡部昇一が「英語教育大論争」でも展開したように伝統的な読解習得方法が日本にあり、例えば漢文の読み下し等、他国文化をローカライズ(日本流に理解)する下地がができていたのでは、と思います。



当時漢文を理解した武士は全くと言っていいほどシナ語が話せませんでした。でも該博な知識があったわけです。福沢諭吉はシナ語を学びその後蘭学へと移り、英米が台頭しだすと英語にすぐ切り替えます。英語を上手に話せたとは思えませんが、英語から得られた知識は人一倍あったのだと思います。



当り前のようですが、日本は明治以降大学の授業を日本語で受けることができました。勿論外国人教師の母国語による授業はあったとは言え、外国文化の多くが翻訳され、学問用語も整備され、知識が学生のみならず一般の人にまで浸透、学がない人まで新聞が読めるという、欧米以外ではありえなかった文化水準が既にありました。寺子屋の存在も大きかったのでしょうね。



あと翻訳家の印税が日本で6%以上に対して、欧米は3%ぐらいと大きく隔たりがあります。英⇔仏などに比べ日⇔欧米語の方が評価が高いわけです。だから我々日本人が外国人に混じったとき、あまり話せないからといって自分を責める必要はないと思います。むしろ会話は少なめに、でも凝縮した言葉を選ぶことの方が我々日本人にはいいのかもしれません(拙稿『仏検二次対策はコメント力ですぞ』参照)。そして上記の外国文化摂取の下地があるのだから「会話ぐらいできなくても何てことないぜ」と割り切った方がいいのではと、私個人は思います。



最後に会話学校はもう行く気がしません。ホステスさんに相手をしてもらっているようで。ホステスさんはお金がもらえるから相手にしてくれるのですものね。



まあこんなことを言うのが私です。今後とも宜しくお願いします。
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コメント力 (miauleuse)
2006-01-11 20:08:14
ドラム小僧さま

全般にわたって「なるほど、なるほど」と思いながら読ませていただきました。ドラム小僧さまの過去ログも併せて。



会話学校のくだりも同感です。

自分の喋っているフランス語、もっと言えば、相手の協力もあって成り立つ私のフランス語で表現できるだけの私の考え(→コメント)が魅力あるものではなくても、相手は付き合ってくれます。こちらはお金を払っているわけですから。話しながら「もっと気の利いたこと言えよ!」と自分に言ってます。

コメント力なんですね。これはフランス語以前の問題ですね。

ま、ぐだぐだ言ってないで、勉強します。ちょっとずつかもしれないけど(汗)

またそちらにお邪魔させて頂きますので宜しくお願いいたします。



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