みどりの野原

野原の便り

5月25日 人麿神社 入鹿神社・大日堂 おふさ観音藤原京 八木札の辻

2013年05月25日 | Weblog
橿原市内の史跡を巡る。

人麿神社(地黄町) 
宮廷歌人柿本人麿を祀る。新庄町の柿本神社から分祀されたと伝わる。
 
本殿は重要文化財 棟木に康永4年(1345)の墨書。 ご神木のケヤキ
 
見上げると色づいたムクロジの実がすずなりだ。 フジの古木も貫禄

入鹿神社(小綱町 )
廃寺となって今はなき普賢寺の鎮守社であったらしい。祭神は蘇我入鹿と素戔嗚尊

乙巳の変で討たれた入鹿の首が飛んできたのを祀ったといわれる。 
首の伝説はあちこちにある。
一般に逆臣とされる蘇我入鹿を祀る全国でも唯一の神社だとか。
そして「鶏の声を合図に首をはねられたので昔は小綱町では鶏を飼わなかった」
「入鹿を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峰へ参ると腹痛が起こる」
「中臣鎌足の母の出生地の明日香村小原とは縁組をしない」など多くの伝説が残るそうだ。「○○憎けりゃ○○まで憎い」の類か。出処ゆえの肩入れ?

 
入鹿神社拝殿の屋根の上には龍が。 本殿(重文)は3月に塗り替えられたばかり

同じ敷地に建つ正連寺大日堂
元は普賢寺(今は廃寺となっている)の本堂。
兵火に焼かれ、再建し、他勢力により衰退し宗派も変わり、明治の廃仏毀釈により廃絶。
仏体は隣接する正連寺に合祀。大日堂は明治初期に13円なにがしで売却され村の管理になるが大正8年正連寺の管理に戻した。・・と波乱にとんだ歴史を持つ。


珍しいネコの描かれた涅槃図。

正連寺大日堂も本尊の大日如来坐像も重要文化財

入鹿神社・大日堂は今は地元の保存会によって管理されている。
今日は私の同級生のT君の説明。

 
今井町を通り抜け・・蘇武橋のたもとのエノキ推定樹齢420年
多くの旅人を見守り日陰を提供したことだろう。

飛鳥川に沿っておふさ観音に向かう。

 
木陰の涼しい緑の小道  全く水の見えない飛鳥川。
「飛鳥川に万葉の清流を」の看板がむなしい。   熟したクワの実 手が届かない。


   バラが満開のおふさ観音

藤原京資料室

藤原京の千分の一の模型を見、説明を聞く。
飛鳥の25倍もあったという藤原京の広さ、整然と広がる条坊制 
横大路(長谷街道・伊勢街道)・下ツ道・・縦横に延びる道路網に当時の人々のバイタリティを感じる。
わずか16年で平城京へと都は移るが、藤原京の条坊制が後の都づくりの元になる。

大極殿跡の木陰で弁当を食べた後、八木札の辻交流館へ。
旧旅籠であった東の平田家の内部を見学

 
階段を上がった後、入り口を閉じてしまう。  海の様子をかたどった欄間

八木札の辻は、古代の幹線道路「下ツ道」と「横大路(長谷街道・伊勢街道)」の2つの街道の交差点で、交差点の中央は高札場になっていて、伊勢参りや大峰山参詣の人で賑わっていた様子が西国名所図会に残る。

交流館の2階から見下ろす。
 
       西側に 下津道           南側に 横大路 
元高札場の横にあったという6角井戸が半分に削られている。

横大路を含む伊勢街道は河内から伊勢に通じる道で、奈良時代ごろには幅は39m(横の水路も含む?道路の北端・南端が判明している)ある年の1年間には459万人がお伊勢参りをしたという。
下ツ道は山城から吉野紀伊方面への街道。幅22.7mほどもあったといい、今の狭い道からは想像できない。昔のままの広い道だったらよかったのになあ。

八木駅で解散となる。
コメント
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