古道・道標・地形・廃線跡などが好きな息子と一日歩いた。
さすが立春。暖かく上着不要のいい天気だった。
行ったことがないところばかりで、私の中ですっぽりと抜け落ちているようだ。
主なところ
石田家・中家住宅
八王子神社・推古神社・額安寺・額田部窯跡・額安寺五輪塔・筒井順慶墓所・菅田神社・杵築神社(安堵町下窪田と)・馬場塚五輪塔
良福寺・油掛地蔵
布留街道・下街道・中街道
天理軽便鉄道廃線跡
道標 太神宮灯籠
佐保川・大和川と蛇行跡 他・・
安堵町(生駒郡)からスタート、さっそく出てきた太神宮灯篭などを見ながら環濠を持つ「中家住宅」へと歩いていたら、
なんだか怪しげな崩れかけた屋根が見えた。 近寄ってみると「多聞城門 石田家 筒井順慶」の石碑があった。後で行く中家住宅と共に環濠(写真右 水なし)の中にある。
多聞城は松永久秀が奈良市多門町に築いた城。(詳細省略) 廃城になって筒井順慶によって壊されたが、石垣は郡山城の石垣に使われ、門は順慶の親族にあたる石田氏に譲られ移築したらしい。奥に居宅があり新しい持ち主?借主?さんが使っておられるらしい。
中家住宅(生駒郡安堵町)
家の前には大きい駐車場。屋敷の中には高い避雷針が2本 大和棟造りの立派なお屋敷だ。
見学もできるそうだが、申し込みしてないので、外観のみ見学
足利尊氏に従って大和に入り・・・後、中氏と改め・・・帰農して大地主となったらしい。
武士様式と農家造りを併せ持つ造りで、表門・米蔵・牛小屋・持仏堂や庫裏など・・重文に指定されているという。
敷地3500坪、屋敷の周りには2重の堀が囲む。 左)内堀 右)外堀
次の機会にはぜひ内部見学したい。
今日歩いたコースには布留街道・下街道・中街道 それに太子道などが通っていたところ。
布留街道は道路改修があまりなされてなくて自然な曲線が見られるのだそう。
西は法隆寺からこの辺りを通り、東は二階堂・天理方面につづいていたとか。
「木造文殊菩薩騎獅像」があるとの道標が気になって立ち寄った良福寺(大和郡山市西町)
町で管理しているという小さなお堂(文殊堂とも) 右)覗いてみたが文殊様はお厨子の中
恵比寿神社の境内に建つとのことだが、恵比寿神社は目に入らなかった・・
大和中央道の南行き線の下をくぐって東へ。
北行き道は平面なのに南行きは高い所を走っているのは古墳?を避けたとか・・?
額安寺(かくあんじ)(大和郡山市額田町)
この辺りは古代水運の要所で栄えたところ。額安寺は金堂講堂三重塔などが立ち並んでいたらしいが、兵乱と再興を繰り返し、今は講堂(写真 今の本堂)を残すのみ。
日本最古の虚空蔵菩薩半跏像(重文)は国立博物館に寄託しているとのこと。
推古天皇を祀った推古神社 この辺りは推古天皇の出身地だとか。
本殿は古墳の上に立っているらしい。
右)推古神社の前は下街道。布留街道と接している辻 太神宮灯籠が建つ。
細い道を山手に登る。
額田部窯跡 額安寺の瓦を焼くための窯だったらしく、3基見つかっているとか。
右)板の隙間からのぞいてみた。四角い掘り込みと深い掘り込みが見えた。
さらに登ると、額安寺五輪塔
大小たくさんの五輪塔が並ぶ。大きい五輪塔から向こうの8基は全部 重文
今まで見たことがないぐらい大きい五輪塔は西大寺の僧・刃性の墓 高さ2,81mもある。
解体修理の際に出てきた骨臓器や遺物も重文指定されているらしい。
窯跡や五輪塔・・額安寺の繁栄ぶりがしのばれる。
ずっと歩いて・・
「このまっすぐな道路何と思う?」っていわれても・・
これは「天理軽便鉄道」の廃線跡だとか。ここから右は平端駅から天理へ。左は法隆寺駅へ。・・そう言ってたら、向こうから法隆寺駅行のバスが通った。
天理軽便鉄道は「大阪電気軌道」後の近鉄法隆寺線で、平端駅から西が廃線になった。
平端駅(大和郡山市昭和町)の近くに来た。
開業当時、平群郡平端村に駅があったという。
古代豪族の平群氏の本拠地はこの辺りまであったとも聞いた。
平端の名の由来は、平群郡の端になることから。というのは聞いたことがある。
またこの辺りは北の山地が徐々に低くなり、平らな盆地中央部に続く所で、起伏の残る地形らしい。先ほどの上り下りもそんな地形だったからか。
今日歩いてきた墓や住宅地も少し高いところにあった。
そしてこの小高いあたりの道路は条里制に基づかない規則性のない道が多いというのも途中で見て納得。はっきりと東西南北に向いた道はないらしい。
平端の踏切を東へ越え・・
筒井順慶の墓所(大和郡山市筒井町)
覆い屋の中に五輪塔が納まった「五輪塔覆い堂」重文
墓地のあるあたりを抜けて一面田んぼの風景が広がる。
佐保川に架かる三郷橋を渡り・・森に囲まれた菅田神社(大和郡山市八条町)に立ち寄り・・近鉄線をくぐってまほろば健康パーク(元、ファミリー公園)をぐるっと一回りして、大和川の堤防を歩き・・
田んぼの真ん中に小さいお堂 癒される雰囲気
「油掛地蔵尊」がおわします。全身油でギトギト。願をかける時には油をかける習わしがあるらしい。(磯城郡川西町)
大和川夕景 だいぶ日が傾いてきた。
杵築神社(安堵町下窪田)から馬場尻橋を渡る。
今はまっすぐ直線的に流れる大和川。昔は蛇行の激しい川だったようで、洪水もたびたび起こったそうだ。
そんな蛇行跡が見られる場所があるという。
堤防下の倉庫の前の(敷地内の)道は、蛇行した川に見える。
見せてくれた地図を見ると一目瞭然。蛇行跡は生駒郡安堵町と磯城郡川西町の境界になっている。
馬場塚五輪塔(生駒郡安堵町)
クロガネモチの木の根元に五輪塔が1つ。でもしっかり説明版があってありがたい。
馬場氏の祖先の墓とのこと。石は丘にばらばらにあったものをつみあげたらしい。
四角い地輪の部分には細かい字が彫ってある。馬場美濃守氏勝を顕彰する文が彫られているらしい。
道標もたくさん残っていた。見えにくい文字をたどる。
大きい立派なものもあれば、押しやられて一面がまったく見えないもの、
お地蔵さんの前掛けに隠れている道標。
丹波市・三輪・長谷・伊勢・高野・高田・龍田・法隆寺・・・
万葉仮名や独特の崩し字を交え判読はなかなかむつかしい。
施主や世話人や建造年月も読めると面白い。今日のコースで6個所ぐらいあった。
今まで見つけていなかった道標を今日1つ発見したらしい。
6時間半ぐらい歩き、帰りは夕暮れになった。
さすが立春。暖かく上着不要のいい天気だった。
行ったことがないところばかりで、私の中ですっぽりと抜け落ちているようだ。
主なところ
石田家・中家住宅
八王子神社・推古神社・額安寺・額田部窯跡・額安寺五輪塔・筒井順慶墓所・菅田神社・杵築神社(安堵町下窪田と)・馬場塚五輪塔
良福寺・油掛地蔵
布留街道・下街道・中街道
天理軽便鉄道廃線跡
道標 太神宮灯籠
佐保川・大和川と蛇行跡 他・・
安堵町(生駒郡)からスタート、さっそく出てきた太神宮灯篭などを見ながら環濠を持つ「中家住宅」へと歩いていたら、
なんだか怪しげな崩れかけた屋根が見えた。 近寄ってみると「多聞城門 石田家 筒井順慶」の石碑があった。後で行く中家住宅と共に環濠(写真右 水なし)の中にある。
多聞城は松永久秀が奈良市多門町に築いた城。(詳細省略) 廃城になって筒井順慶によって壊されたが、石垣は郡山城の石垣に使われ、門は順慶の親族にあたる石田氏に譲られ移築したらしい。奥に居宅があり新しい持ち主?借主?さんが使っておられるらしい。
中家住宅(生駒郡安堵町)
家の前には大きい駐車場。屋敷の中には高い避雷針が2本 大和棟造りの立派なお屋敷だ。
見学もできるそうだが、申し込みしてないので、外観のみ見学
足利尊氏に従って大和に入り・・・後、中氏と改め・・・帰農して大地主となったらしい。
武士様式と農家造りを併せ持つ造りで、表門・米蔵・牛小屋・持仏堂や庫裏など・・重文に指定されているという。
敷地3500坪、屋敷の周りには2重の堀が囲む。 左)内堀 右)外堀
次の機会にはぜひ内部見学したい。
今日歩いたコースには布留街道・下街道・中街道 それに太子道などが通っていたところ。
布留街道は道路改修があまりなされてなくて自然な曲線が見られるのだそう。
西は法隆寺からこの辺りを通り、東は二階堂・天理方面につづいていたとか。
「木造文殊菩薩騎獅像」があるとの道標が気になって立ち寄った良福寺(大和郡山市西町)
町で管理しているという小さなお堂(文殊堂とも) 右)覗いてみたが文殊様はお厨子の中
恵比寿神社の境内に建つとのことだが、恵比寿神社は目に入らなかった・・
大和中央道の南行き線の下をくぐって東へ。
北行き道は平面なのに南行きは高い所を走っているのは古墳?を避けたとか・・?
額安寺(かくあんじ)(大和郡山市額田町)
この辺りは古代水運の要所で栄えたところ。額安寺は金堂講堂三重塔などが立ち並んでいたらしいが、兵乱と再興を繰り返し、今は講堂(写真 今の本堂)を残すのみ。
日本最古の虚空蔵菩薩半跏像(重文)は国立博物館に寄託しているとのこと。
推古天皇を祀った推古神社 この辺りは推古天皇の出身地だとか。
本殿は古墳の上に立っているらしい。
右)推古神社の前は下街道。布留街道と接している辻 太神宮灯籠が建つ。
細い道を山手に登る。
額田部窯跡 額安寺の瓦を焼くための窯だったらしく、3基見つかっているとか。
右)板の隙間からのぞいてみた。四角い掘り込みと深い掘り込みが見えた。
さらに登ると、額安寺五輪塔
大小たくさんの五輪塔が並ぶ。大きい五輪塔から向こうの8基は全部 重文
今まで見たことがないぐらい大きい五輪塔は西大寺の僧・刃性の墓 高さ2,81mもある。
解体修理の際に出てきた骨臓器や遺物も重文指定されているらしい。
窯跡や五輪塔・・額安寺の繁栄ぶりがしのばれる。
ずっと歩いて・・
「このまっすぐな道路何と思う?」っていわれても・・
これは「天理軽便鉄道」の廃線跡だとか。ここから右は平端駅から天理へ。左は法隆寺駅へ。・・そう言ってたら、向こうから法隆寺駅行のバスが通った。
天理軽便鉄道は「大阪電気軌道」後の近鉄法隆寺線で、平端駅から西が廃線になった。
平端駅(大和郡山市昭和町)の近くに来た。
開業当時、平群郡平端村に駅があったという。
古代豪族の平群氏の本拠地はこの辺りまであったとも聞いた。
平端の名の由来は、平群郡の端になることから。というのは聞いたことがある。
またこの辺りは北の山地が徐々に低くなり、平らな盆地中央部に続く所で、起伏の残る地形らしい。先ほどの上り下りもそんな地形だったからか。
今日歩いてきた墓や住宅地も少し高いところにあった。
そしてこの小高いあたりの道路は条里制に基づかない規則性のない道が多いというのも途中で見て納得。はっきりと東西南北に向いた道はないらしい。
平端の踏切を東へ越え・・
筒井順慶の墓所(大和郡山市筒井町)
覆い屋の中に五輪塔が納まった「五輪塔覆い堂」重文
墓地のあるあたりを抜けて一面田んぼの風景が広がる。
佐保川に架かる三郷橋を渡り・・森に囲まれた菅田神社(大和郡山市八条町)に立ち寄り・・近鉄線をくぐってまほろば健康パーク(元、ファミリー公園)をぐるっと一回りして、大和川の堤防を歩き・・
田んぼの真ん中に小さいお堂 癒される雰囲気
「油掛地蔵尊」がおわします。全身油でギトギト。願をかける時には油をかける習わしがあるらしい。(磯城郡川西町)
大和川夕景 だいぶ日が傾いてきた。
杵築神社(安堵町下窪田)から馬場尻橋を渡る。
今はまっすぐ直線的に流れる大和川。昔は蛇行の激しい川だったようで、洪水もたびたび起こったそうだ。
そんな蛇行跡が見られる場所があるという。
堤防下の倉庫の前の(敷地内の)道は、蛇行した川に見える。
見せてくれた地図を見ると一目瞭然。蛇行跡は生駒郡安堵町と磯城郡川西町の境界になっている。
馬場塚五輪塔(生駒郡安堵町)
クロガネモチの木の根元に五輪塔が1つ。でもしっかり説明版があってありがたい。
馬場氏の祖先の墓とのこと。石は丘にばらばらにあったものをつみあげたらしい。
四角い地輪の部分には細かい字が彫ってある。馬場美濃守氏勝を顕彰する文が彫られているらしい。
道標もたくさん残っていた。見えにくい文字をたどる。
大きい立派なものもあれば、押しやられて一面がまったく見えないもの、
お地蔵さんの前掛けに隠れている道標。
丹波市・三輪・長谷・伊勢・高野・高田・龍田・法隆寺・・・
万葉仮名や独特の崩し字を交え判読はなかなかむつかしい。
施主や世話人や建造年月も読めると面白い。今日のコースで6個所ぐらいあった。
今まで見つけていなかった道標を今日1つ発見したらしい。
6時間半ぐらい歩き、帰りは夕暮れになった。