チタンの素晴らしさと、使い方や感想、
そして、「よくある質問とその回答」などを書き綴って行きたいと思います。
ミラクルチタン(チタンオンラインショップ 店長日記)
2012.09.02 NHK「世界ふれあい街歩き 上海四川北路編」スクリーンショットと今昔の思い(その5)
街歩きのスクリーンショットが、どんどん遅れておりまして済みません。
では、続けます。今回は相当長くなっておりますので、そのお積もりでお願いします。
(5-1)
<昔の写真を見せましょうか>
ここは、以前板張りの広いベランダでした。
今は、息子さんの部屋となっております。
(5-2)
<実は 昔ここに済んでいた日本人が>
息子さんの机の引き出しから、アルバムを取り出しました。
昨年(2011年7月)に、兄妹3名でこの生家を訪ねました。
その時、歓迎して頂いたお礼と記念にアルバムを作り、お届けしたものです。
(5−3)
<この場所を見付けて 訪ねて来たことがあるんです。>
私と妹は、この家で生まれましたが、兄は中国の漢口(ハンカオ)で生まれました。
私と妹が生まれる前に一家は上海へ移り、兄が2~3歳頃もう一度転居してここへ来ました。
上海での以前の家ではすぐ近くに魯迅が住んでいて、親しくしていたと父母に聞いたことが
あります。魯迅の家のアマが、料理(粥)を持って来てくれたことがあったそうです。
(5-4)
<これは その人が(帰国してから)届けてくれた写真集です>
(5-5)
私が作ったアルバムです。
このファイルは、このアルバムの為に痛む足を引きずってさんざん探し廻って、ようやく
見付けた自慢の品です。(※その後、奇跡的に私の足は治りました。)
アルバムを入れているファイルボックスは、私が持っていた物でこれも大の気に入りです。
材料費が大変高く付きました。
そして、何よりも初めての挑戦でしたので、毎日が格闘で、体力を使い気力を使ったので、
酷い湿疹に悩まされました。
しかし、始めはその原因が分からず、余りにもひどい湿疹にあらゆる対策を講じましたが
治らず、プロに頼んで寝具などを高熱処理してもらったのですが、全く効果無く、最後に、
絨毯のダニかと思い器具を購入し設置しましたが、何も見付けられませんでした。
アルバムの手法を身につけたことで喜んだ私は、他にも廻りの何かの会などのアルバムを
作って上げたりと多忙を極めましたので、湿疹は酷くなるばかりで治らず、 新年にホッと
した折に突然湿疹が消えたのを発見した時は驚きました.
このアルバムを見たパソコンメンテナンス業者が、「これは40万貰えますよ。」と言って
くれましたが、私は「50万貰っても、もう作りません。」と 言ってしまいました。
そのぐらい大変な作業だったと思っています。
(5-6)
この旗も、私が描きました。
中国の旗がどんな旗か調べて描きました。
旗をクロスさせる時は、敬意を表して相手方の旗を手前にするそうで、ということは
相手方の旗が、裏返しになるのですね。始めて知りました。
その双方の旗が風にはためいている様を表現するのに、結構苦労しました。
又、戦前の麦拿里(マグノリ)として載せている上の2枚の古い写真は、実は同じマグノリ内
でも、我が家が住んでいた家の裏側に建っていた家の写真で、ネットで見付けて使わせて貰い
ました。
実は私達の住んでいた方は、前庭が付いていましたが、その当時の全体像の写真はネットでも
今のところ見当たりません。
我が家は引き揚げて来ているので、昔の写真は殆どありませんが、何と言う幸運でしょうか、
つい先日、父の写したらしい貴重な写真が1枚見つかりました。
大切な思い出の青銅の唐草模様の門扉と塀が写されていました。姉と二人の兄の幼姿と共に。
私は驚き感動しました。いずれお目に掛けたいと思います。
(5-7)
<彼らは2011年ここを66年ぶりに訪ねて来て>
66年振りに訪ねた生家の玄関で、Oさん一家と、私達一同で写真を撮りました。
(5-8)
<また写真を撮ったんですよ>
これは、私と妹が生まれる前(多分この家に我が家が転居して来た時)の写真です。
父、母、姉、長兄が故人となりました。
手前の次兄(おそらく3才頃)だけが生存しており、この兄は、何回も上海を訪れていて、
昨年私と妹を上海へ連れて行ってくれたのでした。
今回生家をどうしても訪問したかった理由は、この家が取り壊し間際と聞いたからです。
兄は、この家に何度も訪れていましたが、昨年初めてこの家の主の王さんと会いました。
その時、この家の取り壊しが近いと聞き、それ迄に妹達を連れて来たいと伝えていました。
以前から、私と妹をここへ連れて来たいと兄は思っていたのです。更に妹がどうしても行き
たいと言ったので、旅行は本決まりとなり、私達兄妹3名は上海を訪れたのです。
でも、その後取り壊しはなくなり、家は文化財として残されることになったそうです。
嬉しく思いました。
でも、もし、家が残されることを先に知っていたら、この旅行は無かったかもしれないし、
王さん一家に記念のアルバムをお作りしようとは思わなかった筈ですので(王さんにとって
も思い出になるのだからと思い作成した)、このアルバムは出来ていなかったことでしょう。
後で知ったことは本当に良かったと思っています。)
(5-9)
<私は できるだけのことをしてあげたいと思いました>
その3歳の兄が、すでに80歳となりました。
私は、父母の写真と同じ場所で写真を撮りたいと思い、それをこの旅行の目的にしていました
ので、私達兄妹で、この同じ階段で写真を撮ることができて本望です。
本当に、昨年Oさん一家は最高の歓迎を下さいました。温かい心遣いに深く感謝しております。
※ なお、今回このOさんの奥さんにテレビカメラが行き着いた経緯をお知らせします。
このアルバムを、Oさんのお宅へ届けてくれた女性(上海在住日本人)からのメールをコピー
します。
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撮影のいきさつをお伺いしたところ、中央電視台がNHKに協力取材したもので、中国人4人の
撮影隊が四川北路を撮影、取材していたそうです。
その道中、Oさんの近所の方が最初取材を受けたそうですが、やはりOさん奥さんが適任という
ことで取材班が王さん宅に行ったそうです。
たぶんOさん宅はもと日本人住宅であり、その中でも大きな改装もなくきれいに保存されており、
また日本のOshimaさんと交流があるということ、Oさん奥さんが元教師できちんとした標準語
を話されること(この近辺であの年代では上海語しか話さないことが多く、大変めずらしいこと
です)
私が考えてみても、Oさん奥さん以外に適任者はないと思います。
テレビ局にもいろいろあって商業目的のものや娯楽番組などが多いですが、奥さんは彼ら取材班
が国営放送の人であることをちゃんと確認されたそうです。
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…と言うことらしいです。
NHK街歩きでは、自然さを大切にしているため、ほとんど作為的なことはしないのだそうで、
Oさん宅へ行き着いたことも、やはり自然の流れと言えると思います。
なお、アルバムを届けてくれた女性(日本人上海在住)のお母さんとそのご友人が今年の6月に
上海を旅行されて、その折彼女と一緒にOさん宅を訪ね、大変歓迎していただいたそうです。
本当に、Oさんご一家は素晴らしい方々ですね。
Oさんの父上(故人、大学教授)は、戦後すぐあの家を買われ、最初は建物全体をOさん一家で
使っていたそうですが、今は各部屋を貸しておられて、現在8軒で住んでおられます。
それで、残念ながら、私達は見たかったお部屋の全部は見ることが出来ませんでした。