2010.11/27 (Sat)
柄にもない、音楽の話を一つ。
学生の頃、初めて、本物のオーケストラが街にやって来ることになりました。
事情がありますので、名前は伏せますが、とにかくプロのオーケストラがやって来る。N響や、新日本フィルほどではないけれど、名の知れたオーケストラです。
聞きに行きたいけど、先立つ物がない。
同級生が行くと言うもんだから、
「いいなあ、見たいけどなあ」
と言ったら、
「内緒で録って来るから、聞かしたるわ」
期待して待ってましたよ。と言っても、クラシックなんてちっとも知らない。
中学校の時に音楽鑑賞ということで、いつも、何でもフォルティシモでしか歌わない、鍵盤が割れるかと思うほどの勢いでしか弾かない、ゴリラみたいな音楽の先生が、ステレオも最大限の音でよく聞かせてくれたんですが、全く覚えてない。
ステレオの、あまりの大音量に寝ることもできなかった筈なんですが。
(ベートーヴェンの五番。これは知っていましたけどね)
だから、本物のオーケストラの音ってどんなだろうという好奇心だけ、の期待です。
数日後、約束どおり、こっそりと録音したという、くぐもった音のテープを聞かせてくれました。
確か、最後にやったのがブラームスの何番だったか、いや、チャイコフスキーだったかな?とにかく、名前を覚えている程度で、やっぱり、中学校と一緒。あとは、真っ白。
さて、数曲の演奏の中で、一番目にやった曲が軽快な曲で、初めて聞いたんだけれども、どうも景気付けによく組まれるみたいで一遍に気に入りました。
歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲(作曲 グリンカ)、です。
くぐもった音でも、テンポ、曲調は分かりますから、、何しろ第一印象は「ええ~っ、あんな速さで弾くのか!すごい!プロってのはすごいもんだな~っ」、だけです。
もう、それからしばらくの間は、何かの拍子に、しょっちゅう頭の中で「ルスランとリュドミーラ」が鳴り響いている。
まず、グリンカという名前も知らないくらいだから、「ルスランとリュドミーラ」なんて歌劇が、どんな内容なのかも知らない。ただ、序曲だけを聞いて気に入った。何かというと、頭の中で鳴り響く。CDなんて勿論、ない。高価なLPレコードは貧乏学生にはとても買えない時代です。ステレオなんて、当然、ないし。
とにかく、もう、本当に、そのオーケストラのおかげです。
私の、クラシック第一歩。
それから数ヶ月。FMで偶然これが流れた。
「おっ」と思った瞬間、「ん?」となった。あの大好きな「ルスランとリュドミーラ」じゃない!?
いや、あの曲だけれど、ちっとも軽快じゃない。何だか印象が違い過ぎる。
あの大好きな序曲はまるで「よっしゃ!行っけ~っ!」みたいな感じで、早い者勝ち、「我こそは一番乗り~っ!」みたいな勢いだったのに、今聞こえて来るのは、メトロノームにあわせてカッチ・カッチ・カッチ・チーン、みたいで、これじゃまるで北朝鮮軍の行進じゃないか!!
「ええ~っ?!」と思いながらも、しかし、すぐに、このきちっとした演奏のテンポが、実は、あの初めて聞いた演奏よりも速いことに気がついた。
これは一体どういうことだ。
柄にもない、音楽の話を一つ。
学生の頃、初めて、本物のオーケストラが街にやって来ることになりました。
事情がありますので、名前は伏せますが、とにかくプロのオーケストラがやって来る。N響や、新日本フィルほどではないけれど、名の知れたオーケストラです。
聞きに行きたいけど、先立つ物がない。
同級生が行くと言うもんだから、
「いいなあ、見たいけどなあ」
と言ったら、
「内緒で録って来るから、聞かしたるわ」
期待して待ってましたよ。と言っても、クラシックなんてちっとも知らない。
中学校の時に音楽鑑賞ということで、いつも、何でもフォルティシモでしか歌わない、鍵盤が割れるかと思うほどの勢いでしか弾かない、ゴリラみたいな音楽の先生が、ステレオも最大限の音でよく聞かせてくれたんですが、全く覚えてない。
ステレオの、あまりの大音量に寝ることもできなかった筈なんですが。
(ベートーヴェンの五番。これは知っていましたけどね)
だから、本物のオーケストラの音ってどんなだろうという好奇心だけ、の期待です。
数日後、約束どおり、こっそりと録音したという、くぐもった音のテープを聞かせてくれました。
確か、最後にやったのがブラームスの何番だったか、いや、チャイコフスキーだったかな?とにかく、名前を覚えている程度で、やっぱり、中学校と一緒。あとは、真っ白。
さて、数曲の演奏の中で、一番目にやった曲が軽快な曲で、初めて聞いたんだけれども、どうも景気付けによく組まれるみたいで一遍に気に入りました。
歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲(作曲 グリンカ)、です。
くぐもった音でも、テンポ、曲調は分かりますから、、何しろ第一印象は「ええ~っ、あんな速さで弾くのか!すごい!プロってのはすごいもんだな~っ」、だけです。
もう、それからしばらくの間は、何かの拍子に、しょっちゅう頭の中で「ルスランとリュドミーラ」が鳴り響いている。
まず、グリンカという名前も知らないくらいだから、「ルスランとリュドミーラ」なんて歌劇が、どんな内容なのかも知らない。ただ、序曲だけを聞いて気に入った。何かというと、頭の中で鳴り響く。CDなんて勿論、ない。高価なLPレコードは貧乏学生にはとても買えない時代です。ステレオなんて、当然、ないし。
とにかく、もう、本当に、そのオーケストラのおかげです。
私の、クラシック第一歩。
それから数ヶ月。FMで偶然これが流れた。
「おっ」と思った瞬間、「ん?」となった。あの大好きな「ルスランとリュドミーラ」じゃない!?
いや、あの曲だけれど、ちっとも軽快じゃない。何だか印象が違い過ぎる。
あの大好きな序曲はまるで「よっしゃ!行っけ~っ!」みたいな感じで、早い者勝ち、「我こそは一番乗り~っ!」みたいな勢いだったのに、今聞こえて来るのは、メトロノームにあわせてカッチ・カッチ・カッチ・チーン、みたいで、これじゃまるで北朝鮮軍の行進じゃないか!!
「ええ~っ?!」と思いながらも、しかし、すぐに、このきちっとした演奏のテンポが、実は、あの初めて聞いた演奏よりも速いことに気がついた。
これは一体どういうことだ。
このオーケストラは、アムステルダム・コンセルトヘボウ。
「コンセルトヘボウ」ってのはおそらく「コンサートホール」という意味なんでしょう。知らんけど。
とにかく、オランダで一番と言われていた楽団です。下手なわけはない。
第一、テンポは間違いなく、こっちが速い。なのに遅く感じるし面白くない。
音楽やってる人なら、疾くにわかっていることでしょうが、あえて書きます。
前出のオーケストラは、演奏者の技術が低く、早い話、弾くだけで精一杯だったんです。だから、フレーズ毎に何とか合わせてはいるけれど、(旋律として辻褄はあわせているものの)、それぞれの音符の長さが奏者毎に、微妙にずれていたわけです。
言ってみれば、声明(しょうみょう)、或いは読経、祝詞を(指揮がないので)集団でやっているようなものになっていた。
マスツーリングで、しょっちゅうスロットル開けてないと追いつけない、みたいに。
でも、弾く方はそれどころじゃなかった。
というわけで、オーケストラの名前は出せません。
でも、私は今でもこのオーケストラの、序曲「ルスランとリュドミーラ」を思い出すんです。しっちゃかめっちゃかの、この演奏を。40年近い昔のことです。
今になってみるとアムステルダム・コンセルトヘボウの方が「上手く」て「飽きない」だろうことも、十分に分かります。それに比べたら、今、あの演奏を仮に聞いたら・・・・。
でも、頭の中で鳴り響くのは、これなんです。
心情(感情)的なものと、理性的なもの、というと、当然世の中は「理性的であれ!」と言う。「感情的であれ!」とは言わない。
だから、我々は理性的であるべく、日夜努力している
で、努力しているから、辛くなった時は休憩しようとする。
だから、と言って「感情的になる」わけにはいかないから、音楽を聴いたり、酒をのんだりして、抑圧していた感情を解放しようとする。
「ほどほど」でないと、社会に悪影響を及ぼすから、「ほどほど」の安全弁が、酒だったり、音楽だったりします。
酒は、感情抑圧を開放する装置、なのではなく、「ほどほど」に、の安全装置です。
こうやって、上手に心情(感情)までもコントロールするようになる。
これが大人というものです。
この話、70年安保の話と交錯しています。
酒を飲んだりしなければ、まず、心情的なものは、日常生活で出て来ない。それが、飲んでもいないのに、何かの拍子でポロッと出た、としたら、その人は、心情的なものを理性でコントロールする力をまだ、持って居ないということになる。それが政治家だったとしたら・・・・・。
しっちゃかめっちゃかの「ルスランとリュドミーラ」は、過去の良い思い出で、自分にとっては大事な物であるけれど、これは私だけの宝物。他の人にとっては粗大ゴミの可能性大。だから勧められません。
「振り」、だけなら言うまでもないけれど、本当に「一所懸命」に取り組んだとしても、これができなかったら、やっぱり、人の上に立つべきではない。
音楽の話の筈だったんですが・・・・・・・。
「コンセルトヘボウ」ってのはおそらく「コンサートホール」という意味なんでしょう。知らんけど。
とにかく、オランダで一番と言われていた楽団です。下手なわけはない。
第一、テンポは間違いなく、こっちが速い。なのに遅く感じるし面白くない。
音楽やってる人なら、疾くにわかっていることでしょうが、あえて書きます。
前出のオーケストラは、演奏者の技術が低く、早い話、弾くだけで精一杯だったんです。だから、フレーズ毎に何とか合わせてはいるけれど、(旋律として辻褄はあわせているものの)、それぞれの音符の長さが奏者毎に、微妙にずれていたわけです。
言ってみれば、声明(しょうみょう)、或いは読経、祝詞を(指揮がないので)集団でやっているようなものになっていた。
マスツーリングで、しょっちゅうスロットル開けてないと追いつけない、みたいに。
でも、弾く方はそれどころじゃなかった。
というわけで、オーケストラの名前は出せません。
でも、私は今でもこのオーケストラの、序曲「ルスランとリュドミーラ」を思い出すんです。しっちゃかめっちゃかの、この演奏を。40年近い昔のことです。
今になってみるとアムステルダム・コンセルトヘボウの方が「上手く」て「飽きない」だろうことも、十分に分かります。それに比べたら、今、あの演奏を仮に聞いたら・・・・。
でも、頭の中で鳴り響くのは、これなんです。
心情(感情)的なものと、理性的なもの、というと、当然世の中は「理性的であれ!」と言う。「感情的であれ!」とは言わない。
だから、我々は理性的であるべく、日夜努力している
で、努力しているから、辛くなった時は休憩しようとする。
だから、と言って「感情的になる」わけにはいかないから、音楽を聴いたり、酒をのんだりして、抑圧していた感情を解放しようとする。
「ほどほど」でないと、社会に悪影響を及ぼすから、「ほどほど」の安全弁が、酒だったり、音楽だったりします。
酒は、感情抑圧を開放する装置、なのではなく、「ほどほど」に、の安全装置です。
こうやって、上手に心情(感情)までもコントロールするようになる。
これが大人というものです。
この話、70年安保の話と交錯しています。
酒を飲んだりしなければ、まず、心情的なものは、日常生活で出て来ない。それが、飲んでもいないのに、何かの拍子でポロッと出た、としたら、その人は、心情的なものを理性でコントロールする力をまだ、持って居ないということになる。それが政治家だったとしたら・・・・・。
しっちゃかめっちゃかの「ルスランとリュドミーラ」は、過去の良い思い出で、自分にとっては大事な物であるけれど、これは私だけの宝物。他の人にとっては粗大ゴミの可能性大。だから勧められません。
「振り」、だけなら言うまでもないけれど、本当に「一所懸命」に取り組んだとしても、これができなかったら、やっぱり、人の上に立つべきではない。
音楽の話の筈だったんですが・・・・・・・。