2011.12/09 (Fri)
「市井の明師」なんて、変な言葉で前回は終わりましたが、今回はまた変なことを書きそうな予感。
先日「もっと断捨離アンになろう!」という本を手に入れました。「断捨離アンになろう!」の続編です。
好評につき、続編を、となったらしいのですが、当然二冊目というのは「柳の下にドジョウを探す」、の二回目。二匹目のドジョウ探し、みたいなもの。全てにつけて評価は厳しくなる。
いきなり、「わっ!」と言えばみんな驚く。
まさかそんなことをするとは思いもしないような人がやると効果は絶大。
けれど、二回目はさほど驚かない。
「あっ」と思うような新しい考え方を提示されると、その新鮮さにみんな驚く。
「断捨離」なんて、一見「勿体無い」の対極の考え方に見えるから、大概の人は驚く。その驚きは「わっ」と驚かされたのとは全く違う驚きです。
「わっ」と驚かされた時は瞬間の吃驚だけれど、「新しい考え方」を見せられた時の驚きは、「感じ」ではなく「考え方」を揺さぶられた時のものだから、驚きの継続は本人の努力如何にかかっている。
「考え方」に関して言えば、だから二度目の「あっ」、は、ない。
しかし、「考え方」を揺さぶられた者は、次もまた、受動的に驚かされることを期待する。
新しい考え方を提示する。それを読んだ人はその新鮮さに感動する。
提示した方は、賛同者が現れた!と喜び、次の行動に出ようとする。
「賛同してくれたのだから、もっと詳しく説明しよう!もっと詳しく説明したらきっと深く理解してくれる!」
良心的な、素直な人なら、こう思うのが、普通でしょう。
「いやいや。そう簡単にこの考え方が分かる筈はない。賛同している振りをしているだけかもしれない。騙されちゃいけない!」
なんてひねくれた人はそうそう居るもんじゃない。
けれど、では読者はどうか。
「なるほどなあ!」と感動した後、大半が「もっと深く理解したい」となるのか。大量の関連の書物を買い込んで、猛勉強、すっかり「断捨離ワールド」の住人になるだろうか。
そうやって、相当な知識を得、考え方を知って実践にかかり、二冊目の本を「うんうん!そうだよね!!」と力強く頷きながら読む・・・だろうか。
そういう人にとっては、二冊目は一冊目に負けず劣らずのできばえと見える(筈です)でしょうね。
けれど大半の人は、一冊目を読み終わってから二冊目を手にするまで、ほとんど何もしない。
で、読んでみたら相変わらずのことが書いてある(と見える)。
「一冊目の方が面白かった!」になる。
一体、何が悪いのか。
作者の良心的な、読者に対する姿勢が悪いのでしょうか。
それとも二冊目を手にするまで出版を心待ちにするだけで、早い話、何もしなかった読者が悪いのでしょうか。
これはマンガ「美味しんぼ」にあった天麩羅屋の二代目の話とは設定が違います。あれは切れ味の違いから来るどうしようもない差を、とりあえず漬け物に目を向けさせて、熟練するまで待ってやろうと客に思わせる作戦を立てたものでした。考え方ではない。純粋に技術の問題、そして思い入れの問題、です。
けれど、この本は同じ作者の一作目と二作目。
だから、「熟練」は関係ないし、読者の方も「先代の味をよく知っている客」、ではない。何よりもこれは「考え方」、です。
「犯人は誰だ!」ではない。「犯人は・・・私だ?!」かも知れない。
いや、誰も悪くなんかない、ですよね。
思わず深みにはまってしまいましたが、実際のところ、手当たり次第に関係の本を買って来て猛勉強するのと、二作目だけを見て「一作目の方が面白かった」というのと、良い悪いでなく日本人はどっちを採るでしょうか。
言うまでもなく、島国日本。来るものは拒まず。良かろうが悪かろうが何でもかんでも受け入れる。受け入れて、真剣に対峙する。対峙して否定するのではなく、そこから何かしら意味や意義をを読み取ろうとする。
読み取った結果を、日常に合わせて改変し、自分のものにしていく。
インド人が日本でカレーを食べて「美味しい!これは何と言う料理か?」と聞いたという笑い話がありますが。
以前に書いた軽衫袴だってそうだし、鉄剣を刀に発展させたり、筒袖の上衣を作る代わりに襷がけを工夫したりもした。
琵琶などに至っては調律をすっかり変えてしまっただけでなく、指板上のフレットまで最小限に減らしてしまった。
隣国が強引にオーケストラの中に民族楽器を捻じ込んだのとは対極のやり方です。
「それなりの取り組みは、言われずとも自らなすべきだ」
そう思うのが日本人の特性です。できる、できないじゃない。
やってみよう、習おう、とする。教えてくれる人、伝えようとしてくれる人に対して、完璧にそれを倣わなければ、失礼だ、申し訳ない、と思う。
これは「謙虚」というものであって、決して「卑屈」、ではありません。
それが、何だか「個性尊重」と声高に叫ばれるようになってから、一途に倣おうとする「謙虚から来るひたむきさ」を、「猿まね」だとか「物まねは得意だが独創性はない」と言われ始め、「そんなものかなあ」「劣等国民なんだ」と思うようになってきた。
結果、「それなりの取り組み」はさておき、「分かりやすく教える努力」を要求する声ばかりが高くなって来た。
虚勢を張ったり、空威張りしたり、は論外だけれど、そろそろ、日本人の特性とも、正面から向き合わなければ、と思います。
・・・・・・ん?何だか脱線したような・・・・。
「市井の明師」なんて、変な言葉で前回は終わりましたが、今回はまた変なことを書きそうな予感。
先日「もっと断捨離アンになろう!」という本を手に入れました。「断捨離アンになろう!」の続編です。
好評につき、続編を、となったらしいのですが、当然二冊目というのは「柳の下にドジョウを探す」、の二回目。二匹目のドジョウ探し、みたいなもの。全てにつけて評価は厳しくなる。
いきなり、「わっ!」と言えばみんな驚く。
まさかそんなことをするとは思いもしないような人がやると効果は絶大。
けれど、二回目はさほど驚かない。
「あっ」と思うような新しい考え方を提示されると、その新鮮さにみんな驚く。
「断捨離」なんて、一見「勿体無い」の対極の考え方に見えるから、大概の人は驚く。その驚きは「わっ」と驚かされたのとは全く違う驚きです。
「わっ」と驚かされた時は瞬間の吃驚だけれど、「新しい考え方」を見せられた時の驚きは、「感じ」ではなく「考え方」を揺さぶられた時のものだから、驚きの継続は本人の努力如何にかかっている。
「考え方」に関して言えば、だから二度目の「あっ」、は、ない。
しかし、「考え方」を揺さぶられた者は、次もまた、受動的に驚かされることを期待する。
新しい考え方を提示する。それを読んだ人はその新鮮さに感動する。
提示した方は、賛同者が現れた!と喜び、次の行動に出ようとする。
「賛同してくれたのだから、もっと詳しく説明しよう!もっと詳しく説明したらきっと深く理解してくれる!」
良心的な、素直な人なら、こう思うのが、普通でしょう。
「いやいや。そう簡単にこの考え方が分かる筈はない。賛同している振りをしているだけかもしれない。騙されちゃいけない!」
なんてひねくれた人はそうそう居るもんじゃない。
けれど、では読者はどうか。
「なるほどなあ!」と感動した後、大半が「もっと深く理解したい」となるのか。大量の関連の書物を買い込んで、猛勉強、すっかり「断捨離ワールド」の住人になるだろうか。
そうやって、相当な知識を得、考え方を知って実践にかかり、二冊目の本を「うんうん!そうだよね!!」と力強く頷きながら読む・・・だろうか。
そういう人にとっては、二冊目は一冊目に負けず劣らずのできばえと見える(筈です)でしょうね。
けれど大半の人は、一冊目を読み終わってから二冊目を手にするまで、ほとんど何もしない。
で、読んでみたら相変わらずのことが書いてある(と見える)。
「一冊目の方が面白かった!」になる。
一体、何が悪いのか。
作者の良心的な、読者に対する姿勢が悪いのでしょうか。
それとも二冊目を手にするまで出版を心待ちにするだけで、早い話、何もしなかった読者が悪いのでしょうか。
これはマンガ「美味しんぼ」にあった天麩羅屋の二代目の話とは設定が違います。あれは切れ味の違いから来るどうしようもない差を、とりあえず漬け物に目を向けさせて、熟練するまで待ってやろうと客に思わせる作戦を立てたものでした。考え方ではない。純粋に技術の問題、そして思い入れの問題、です。
けれど、この本は同じ作者の一作目と二作目。
だから、「熟練」は関係ないし、読者の方も「先代の味をよく知っている客」、ではない。何よりもこれは「考え方」、です。
「犯人は誰だ!」ではない。「犯人は・・・私だ?!」かも知れない。
いや、誰も悪くなんかない、ですよね。
思わず深みにはまってしまいましたが、実際のところ、手当たり次第に関係の本を買って来て猛勉強するのと、二作目だけを見て「一作目の方が面白かった」というのと、良い悪いでなく日本人はどっちを採るでしょうか。
言うまでもなく、島国日本。来るものは拒まず。良かろうが悪かろうが何でもかんでも受け入れる。受け入れて、真剣に対峙する。対峙して否定するのではなく、そこから何かしら意味や意義をを読み取ろうとする。
読み取った結果を、日常に合わせて改変し、自分のものにしていく。
インド人が日本でカレーを食べて「美味しい!これは何と言う料理か?」と聞いたという笑い話がありますが。
以前に書いた軽衫袴だってそうだし、鉄剣を刀に発展させたり、筒袖の上衣を作る代わりに襷がけを工夫したりもした。
琵琶などに至っては調律をすっかり変えてしまっただけでなく、指板上のフレットまで最小限に減らしてしまった。
隣国が強引にオーケストラの中に民族楽器を捻じ込んだのとは対極のやり方です。
「それなりの取り組みは、言われずとも自らなすべきだ」
そう思うのが日本人の特性です。できる、できないじゃない。
やってみよう、習おう、とする。教えてくれる人、伝えようとしてくれる人に対して、完璧にそれを倣わなければ、失礼だ、申し訳ない、と思う。
これは「謙虚」というものであって、決して「卑屈」、ではありません。
それが、何だか「個性尊重」と声高に叫ばれるようになってから、一途に倣おうとする「謙虚から来るひたむきさ」を、「猿まね」だとか「物まねは得意だが独創性はない」と言われ始め、「そんなものかなあ」「劣等国民なんだ」と思うようになってきた。
結果、「それなりの取り組み」はさておき、「分かりやすく教える努力」を要求する声ばかりが高くなって来た。
虚勢を張ったり、空威張りしたり、は論外だけれど、そろそろ、日本人の特性とも、正面から向き合わなければ、と思います。
・・・・・・ん?何だか脱線したような・・・・。