2015.11/19 (Thu)
「何だか随分懐かしい言葉だな」、なんて思われるのは五十代の人でしょうか?六十代?
「知らないよ?何、それ」、と言われる方が多いんでしょうね。昔のグループサウンズ「ザ・スパイダース」の歌です。
そんなことはどうでもいいんですけどね。要は、この七十年代頃、「何となく社会主義萌え」(学生運動にシンパシーを感じていた、運動そのものはしていないけれど、親近感を抱いていた人々。主に若者)が、日本の主流になっていました。
でも、七十年の安保条約の自動継続(60年の更改から十年後の70年に自動継続か否かを決める。以降は毎年。黙っていれば継続。)後、学生運動は急激に下火になる。そして若者は自身が世の中に対して無力なことを感じ、無気力になり、しらけ世代と言われる時期が数年続いて、世の中は急激に経済成長の道をひた走るようになる。
学生運動をやっていたものは地下に潜ります。
それと対照的に、学生運動にシンパシーを感じていた者は世の中に出て、学生運動の熱など忘れたかのごとくに今度は企業戦士となって経済成長の主力となります。
元々学生運動などやってないわけですから、官憲から目をつけられているわけではないし、これからの生活もある。「もう若くはないさ」とばかりに髪を切って、です。
気の毒なのはしらけ世代の若者で、「オレ一人の力なんて・・」、と無気力になっている。
それを周囲の大人から
「使い物にならねえな、こいつらは」
といった目で見られている。私がその年代なんですけどね、まんざら自己弁護でもないんですよ、これ。
その目の前を企業戦士・猛烈社員となった、「何となく社会主義萌え」が大手を振って走り回っている。
でも、本当にあれは流行り病だったのか。運動こそしていないけれど、物の考え方(というより「感じ方」)は身に染みついてはいなかったのか。
「考え方」、があれば、それは論破されることによって方向が変わることがある。「転向」というやつです。
「考え方」、がなければ、論破はされない。議論が成立しませんから。この場合は強引にやる「洗脳」しかない。これは人間の尊厳を否定するやり方ですから、受け入れるわけにはいかない。
「何となく社会主義が良いような気がする」、というだけの社会主義シンパは全く減っていない、今や日本の主流は彼らによって占められている。
法曹界はご存知の通り、首をかしげるような判決が目立ちます。言うまでもなく教育界は社会主義シンパが席捲しています。官僚もそうですし、医療の世界も、いやいや与党自民党だって半数以上は、そうです。経済界だってそうでしょう?
街頭インタビューで、最近、社会主義シンパではないと確信できる人がちらほら見えるようになりましたが、大方の発言には、この「社会主義シンパ」のにおいがします。
では、何故、当時、社会主義シンパになったのか。それが「何となく、何となく」、です。周りの雰囲気で自然に「成って」いる。
努力してマルクスの資本論なんかを読んだわけではない。仮に読んだとしても、日本語に訳されたものです。哲学と同様、原典に当たらず得たものには必ずフィルターがかかっている。そのフィルターには何となく色がついている。「説明」は、なし、で、効能だけを繰り返し唱える。
オルグは極めて巧妙に行われます。
敢えて「革命」とか「マルクス主義」などという言葉を口にせず、とにかく
「聞く気のない者を聞くようにさせ、考えさせるようにする」
ために、まずは気を許すようにさせることを目標とする。日蓮宗の折伏(しゃくぶく)のような激しいやり方をするのではなく、60年安保の頃からの歌声喫茶の延長で、フォークダンスやピクニックで親睦を図る。民青のやり方です。
これが「何となく社会主義っていいな」作戦。
そんな中でいつの間にか身に染みついてしまっている「感じ」方があります。
「そうじゃない。本当はこうなんだよ」
と正しいことを言われたって、いい歳になってたって「何となく」抵抗を感じて素直に受け入れられないということ。
以前に書いた「島国根性」という言葉に「周囲を気にする。意見を言わない」と言ったネガティブなものばかり感じる、ということなんかがそうです。
「帰化人、と言わず、渡来人と言おう」、なんかもそうです。
「シナ人」と書かれたものを見ると、「わざわざ差別的な言葉を使わなくたって」と感じてしまう。世界中が「チャイナ(シナ)」と言っているのに、何故、日本だけが「中国(中華の国)」と言うのか。「感じ」だけで、気遣っている。
日本の把握は「大東亜戦争」なのに、「右翼っぽいな。第二次大戦じゃないか。太平洋戦争でもいいじゃないか」と思ってしまう。 例えば、誰だって「戦争はいけない。したくない」と思っていることを分かっているのに、「何となく」「為政者は戦争をしたがっている」と思ってしまう。だから「戦争法案だ!」とアジられたら簡単に乗ってしまっている。アジっている人々に裏がないか、なんて「考え」もしない。「考え方」がないから。「何となく社会主義、いいな」、って?
いやいや、「平和主義?」
でも「戦争主義」、なんて誰が受け入れますか?第一、そんな政権、日本人の過半数が支持する、と思いますか?
十日ほど前に転載した西村眞悟氏のブログにあった、「分断」という表現は正しくないという話、「あれは表現が間違っていた」と訂正したマスメディアはあったでしょうか。
日本は日清戦争の勝利で台湾を割譲された。大東亜戦争で敗れ、台湾を放棄させられた。
国共内戦で敗れた国民党軍が、真空地帯になっていた台湾に侵入し占領して、中華民国政府を臨時に置いた。
そのまま現在に至る。
これ、「分断」ですか?台湾は占領されたまま、ということでしょう?
それぞれの政府が「我々が正統」と主張しているだけです。
「何となく」、で新しい情報をそのまま受け入れてしまっている・・・・・かも。
この日記は、実は前回の「台湾は日本の生命線!」ブログ全文転載を考えて、先に書いたものなんです。
けど、いざ書き終えてみると、中途半端に長い。
で、散々悩んだ挙句、やっぱり「台湾は~」ブログを先に転載しなければ何を書いてるか分からないいよな、と。
「何だか随分懐かしい言葉だな」、なんて思われるのは五十代の人でしょうか?六十代?
「知らないよ?何、それ」、と言われる方が多いんでしょうね。昔のグループサウンズ「ザ・スパイダース」の歌です。
そんなことはどうでもいいんですけどね。要は、この七十年代頃、「何となく社会主義萌え」(学生運動にシンパシーを感じていた、運動そのものはしていないけれど、親近感を抱いていた人々。主に若者)が、日本の主流になっていました。
でも、七十年の安保条約の自動継続(60年の更改から十年後の70年に自動継続か否かを決める。以降は毎年。黙っていれば継続。)後、学生運動は急激に下火になる。そして若者は自身が世の中に対して無力なことを感じ、無気力になり、しらけ世代と言われる時期が数年続いて、世の中は急激に経済成長の道をひた走るようになる。
学生運動をやっていたものは地下に潜ります。
それと対照的に、学生運動にシンパシーを感じていた者は世の中に出て、学生運動の熱など忘れたかのごとくに今度は企業戦士となって経済成長の主力となります。
元々学生運動などやってないわけですから、官憲から目をつけられているわけではないし、これからの生活もある。「もう若くはないさ」とばかりに髪を切って、です。
気の毒なのはしらけ世代の若者で、「オレ一人の力なんて・・」、と無気力になっている。
それを周囲の大人から
「使い物にならねえな、こいつらは」
といった目で見られている。私がその年代なんですけどね、まんざら自己弁護でもないんですよ、これ。
その目の前を企業戦士・猛烈社員となった、「何となく社会主義萌え」が大手を振って走り回っている。
でも、本当にあれは流行り病だったのか。運動こそしていないけれど、物の考え方(というより「感じ方」)は身に染みついてはいなかったのか。
「考え方」、があれば、それは論破されることによって方向が変わることがある。「転向」というやつです。
「考え方」、がなければ、論破はされない。議論が成立しませんから。この場合は強引にやる「洗脳」しかない。これは人間の尊厳を否定するやり方ですから、受け入れるわけにはいかない。
「何となく社会主義が良いような気がする」、というだけの社会主義シンパは全く減っていない、今や日本の主流は彼らによって占められている。
法曹界はご存知の通り、首をかしげるような判決が目立ちます。言うまでもなく教育界は社会主義シンパが席捲しています。官僚もそうですし、医療の世界も、いやいや与党自民党だって半数以上は、そうです。経済界だってそうでしょう?
街頭インタビューで、最近、社会主義シンパではないと確信できる人がちらほら見えるようになりましたが、大方の発言には、この「社会主義シンパ」のにおいがします。
では、何故、当時、社会主義シンパになったのか。それが「何となく、何となく」、です。周りの雰囲気で自然に「成って」いる。
努力してマルクスの資本論なんかを読んだわけではない。仮に読んだとしても、日本語に訳されたものです。哲学と同様、原典に当たらず得たものには必ずフィルターがかかっている。そのフィルターには何となく色がついている。「説明」は、なし、で、効能だけを繰り返し唱える。
オルグは極めて巧妙に行われます。
敢えて「革命」とか「マルクス主義」などという言葉を口にせず、とにかく
「聞く気のない者を聞くようにさせ、考えさせるようにする」
ために、まずは気を許すようにさせることを目標とする。日蓮宗の折伏(しゃくぶく)のような激しいやり方をするのではなく、60年安保の頃からの歌声喫茶の延長で、フォークダンスやピクニックで親睦を図る。民青のやり方です。
これが「何となく社会主義っていいな」作戦。
そんな中でいつの間にか身に染みついてしまっている「感じ」方があります。
「そうじゃない。本当はこうなんだよ」
と正しいことを言われたって、いい歳になってたって「何となく」抵抗を感じて素直に受け入れられないということ。
以前に書いた「島国根性」という言葉に「周囲を気にする。意見を言わない」と言ったネガティブなものばかり感じる、ということなんかがそうです。
「帰化人、と言わず、渡来人と言おう」、なんかもそうです。
「シナ人」と書かれたものを見ると、「わざわざ差別的な言葉を使わなくたって」と感じてしまう。世界中が「チャイナ(シナ)」と言っているのに、何故、日本だけが「中国(中華の国)」と言うのか。「感じ」だけで、気遣っている。
日本の把握は「大東亜戦争」なのに、「右翼っぽいな。第二次大戦じゃないか。太平洋戦争でもいいじゃないか」と思ってしまう。 例えば、誰だって「戦争はいけない。したくない」と思っていることを分かっているのに、「何となく」「為政者は戦争をしたがっている」と思ってしまう。だから「戦争法案だ!」とアジられたら簡単に乗ってしまっている。アジっている人々に裏がないか、なんて「考え」もしない。「考え方」がないから。「何となく社会主義、いいな」、って?
いやいや、「平和主義?」
でも「戦争主義」、なんて誰が受け入れますか?第一、そんな政権、日本人の過半数が支持する、と思いますか?
十日ほど前に転載した西村眞悟氏のブログにあった、「分断」という表現は正しくないという話、「あれは表現が間違っていた」と訂正したマスメディアはあったでしょうか。
日本は日清戦争の勝利で台湾を割譲された。大東亜戦争で敗れ、台湾を放棄させられた。
国共内戦で敗れた国民党軍が、真空地帯になっていた台湾に侵入し占領して、中華民国政府を臨時に置いた。
そのまま現在に至る。
これ、「分断」ですか?台湾は占領されたまま、ということでしょう?
それぞれの政府が「我々が正統」と主張しているだけです。
「何となく」、で新しい情報をそのまま受け入れてしまっている・・・・・かも。
この日記は、実は前回の「台湾は日本の生命線!」ブログ全文転載を考えて、先に書いたものなんです。
けど、いざ書き終えてみると、中途半端に長い。
で、散々悩んだ挙句、やっぱり「台湾は~」ブログを先に転載しなければ何を書いてるか分からないいよな、と。
是非、二つ通して読んでいただければと思います。