CubとSRと

ただの日記

乞食鶏とか涎鶏とか

2020年08月16日 | 日々の暮らし
 美味しいということだけど、どうも名前が何ともはや。
 で、料理名のせいじゃないんだけど、そういったものを食べる機会がないまま、歳をとってしまった。
 世の中には美味しいものがたくさんあるんだろうけど、なかなか実際に口にする機会はない。
 けれど、どうしても食べたけりゃ、金を出せば何とかなる。いい世の中になったものだ。問題は出す「金」をどう工面するか、なんだけど。

 いきなり脱線したけど、「美味しんぼ」では、そういった色々な料理や食材を教えてもらった。だからと言って(繰り返すけど)食べたことはない。
 標題の「乞食鶏」とか「涎鶏」、なんてのも、その味自体には興味がある。
 だからと言って「食べてみたい」という気持ちはあっても、「食べに行こう」とまでは思わない。
 カッコつけて言えば「渇しても『盗泉』の水を飲まず」、だ。
 いくら美味しそうでも、汚らしい名前の料理は食べたくない。
 きれいに盛り付けてあってもいざ食べるときに、これでもかとまじぇまじぇする料理なんか真っ平だ。なんでも昼ご飯の弁当を、食べる前に思いっきり上下左右に大地震みたいに振り回して、ぐしゃぐしゃにして、やっと安心して食べる、という国もあるらしいけど、信じられない。せっかくの手料理をなんてことするんだ、と思う。

 と言っても、例外は、ある。
 もう四十年以上昔のことと思うが、神戸の華僑が仲間内で美味しいものを食べられる場所を、と計画して「海皇(ハイファン)」という店を作った。
 目玉は鯛の姿づくりにアーモンド等のナッツ類をふんだんにかけた華やかな大皿料理だった。出てきたとき、参会者はその見事さに感嘆の声を上げる。
 給仕がそれに胡麻油や醤油等で作ったソースをかける。
 そこからがすごい。そんな見事な盛り付けを、大きなスプーンとフォーク(だったと思う)で、あっという間にぐしゃぐしゃに混ぜてしまう。混ぜるというより「和える」といった感じではあるけれど、それにしても、「そう来るか!ほとんど禁じ手だな」と、そのCM(サンテレビでしょっちゅうやっていた)を見るたびに思った。そうやって各自の小皿に取り分けられたのを見ると、美味しそうではあるけれど、あの華やかな盛り付けとは見事な断絶がある。
 それもまた饗応の一つの形ではあるのだろうけれど。
「そこに愛はあるんか?」
 でも、実際美味しかった。一度しか食べたことないけど。

 この店、いつの間にか神戸からなくなってしまった。
 「あんな料理だから飽きられたか」、と思ったものの、中華料理というのは料理長が全て、なんだそうで、華僑は店名ではなく現在の料理長の名前で、食べに行く店を決めるんだとか。料理長が追廻まで連れて移動するんだそうだ。
 この店も左前になったわけではなく、余りの評判の良さに、同じなら東京で店を出そうということになって、神戸の店を閉めて東京に行ってしまった、と聞いた。(今、ネットで調べたら、大阪・東京に何店舗もあるんですね)

 あ、ビビンバ、食べたくなった。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする