今日は12月16日。本当なら12月14日に、と思っていた(?)んだけど今頃になって、です。それも再掲。
何で今頃?というと、今日は朝から出ていて帰ってきたのが今だから。
とにかく一日一篇は日記を、と決めていたから、一時しのぎをそれも泥縄でやろうと決心しました!
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酒飲んでうたた寝。
目が覚めたらつけっ放しだったテレビから「金スマ」が流れていた。
石井ふく子と関わりのあった俳優、歌手のことをやっていたのけれど、
「石井ふく子、かぁ。よく見てたけど、最近全く見てないな。何か引っ掛かるところがあったんだよな」
などと思いながら、何となく最後まで見てしまった。
「女たちの忠臣蔵」のことが採り上げられて、女の立場から忠臣蔵を見る、という、これまでになかった視点が大変な評判になり、今に語り継がれる名作となっているとの紹介で、見なくなった頃のことを徐々に思い出してきた。
そうだ、あの時だ、あの時から見なくなったのだ、「これは違う」、と。
違和感、そのものだったんだと思う。
石井ふく子は戦争を描かない。
それは勤労動員の時、本来なら副班長である自分が居るべき場所に、班長が居て、身代わりのようにして米軍戦闘機による機銃掃射に遭い、死んでしまったからだ、という。
「ん?」と思った。
「戦争は、とてもドラマに描かれているようなものじゃない。本当の戦争を自分は勤労動員の時に知った」
そんな内容の話をしていた。
「だから戦争は描かない」。
それで
「ん?戦闘員でもない、それも女子『生徒』を米軍機が機銃掃射した、ということはどうなってんだ???」
と思い、
「兵器を作ってたんだから軍属?」「いや、やっぱりこれは抵抗の手段を持たない、ただの『一国民』に対して行ったことだから、ただの『虐殺』じゃないか」
、などと思う。
これを詰めなければ意味がない。
大体がいつも思うんだけれど、「今になってみると」という視点が、反戦論者には大方の場合、抜けている。
虫の目は経験で手に入れるものだけれど、鳥の目は経験を見詰めることで作る教養、「考え方」だ。
社会に在って身に着くのは虫の目だけれど、身に着けるべきは鳥の目、「考え方」だ。
幼少時の恐怖体験や食わず嫌いを大人になっても「全面肯定」することは、
「あの時、ひどく叱られたけれど、今になってみれば自分が間違っていたんだ」
「あの時、酷い親だと思ったけれど、今になってみると、その気持ちが能く分かる」
という大反省を否定することになる。
「班長が自分の身代わりのようになって、機銃掃射に遭い、死んだ。悪いのは戦争だ。罪もない者を殺すのだから」。
「安らかに眠ってください あやまちは繰り返しませぬから」
戦争を二度としない、というこの誓いの言葉には相手国のことが全く書かれてない。
「悪いのはアメリカ兵だ。でも、そう仕向けたのは日本だ。」
つまり、日本が悪い。・・・・おかしい。
「女たちの忠臣蔵」は「男たちは残された者のことをちっとも考えてない」、と「思い遣ることの大切さ」を気付かせたように言う。
が、男は何で戦いに臨むのか。何で戦わなければならないのか。それは「残された者のために」、なのだということを、何故見ようとしないのだ。
男だって死にたいわけではない。いや、男の方こそ死を恐れる。だからこそ「残された者を守るため」に代わりに死ぬのだ。
「国のために死ぬ。天皇のために死ぬ」というけれど、「残された者を守るために」となれば、国も天皇も全てその間にある。
だから、血縁に戦没者がなくとも、我々日本人は靖国神社に参るのではないか。「同じ日本人のために」「残された者を守るために」散華された先輩に対して頭を下げるために。
「吉良邸討ち入り」で守ろうとしたものは「武士の誇り」。そんなものは個々の配偶者、子供、一般の庶民には何の関係もない。
けれど、これが称賛されることにより独特な日本人の精神性が規定されたことは間違いない。そしてそれは今の日本人の精神形成にも大きく関わっている。それを否定する、認めないということは日本人の精神性を否定することになる。いきなりの肯定はせぬまでも、まずは見詰めようとしなければ、「日本人」の歴史性、発展性に未来はない。
目が覚めたらつけっ放しだったテレビから「金スマ」が流れていた。
石井ふく子と関わりのあった俳優、歌手のことをやっていたのけれど、
「石井ふく子、かぁ。よく見てたけど、最近全く見てないな。何か引っ掛かるところがあったんだよな」
などと思いながら、何となく最後まで見てしまった。
「女たちの忠臣蔵」のことが採り上げられて、女の立場から忠臣蔵を見る、という、これまでになかった視点が大変な評判になり、今に語り継がれる名作となっているとの紹介で、見なくなった頃のことを徐々に思い出してきた。
そうだ、あの時だ、あの時から見なくなったのだ、「これは違う」、と。
違和感、そのものだったんだと思う。
石井ふく子は戦争を描かない。
それは勤労動員の時、本来なら副班長である自分が居るべき場所に、班長が居て、身代わりのようにして米軍戦闘機による機銃掃射に遭い、死んでしまったからだ、という。
「ん?」と思った。
「戦争は、とてもドラマに描かれているようなものじゃない。本当の戦争を自分は勤労動員の時に知った」
そんな内容の話をしていた。
「だから戦争は描かない」。
それで
「ん?戦闘員でもない、それも女子『生徒』を米軍機が機銃掃射した、ということはどうなってんだ???」
と思い、
「兵器を作ってたんだから軍属?」「いや、やっぱりこれは抵抗の手段を持たない、ただの『一国民』に対して行ったことだから、ただの『虐殺』じゃないか」
、などと思う。
これを詰めなければ意味がない。
大体がいつも思うんだけれど、「今になってみると」という視点が、反戦論者には大方の場合、抜けている。
虫の目は経験で手に入れるものだけれど、鳥の目は経験を見詰めることで作る教養、「考え方」だ。
社会に在って身に着くのは虫の目だけれど、身に着けるべきは鳥の目、「考え方」だ。
幼少時の恐怖体験や食わず嫌いを大人になっても「全面肯定」することは、
「あの時、ひどく叱られたけれど、今になってみれば自分が間違っていたんだ」
「あの時、酷い親だと思ったけれど、今になってみると、その気持ちが能く分かる」
という大反省を否定することになる。
「班長が自分の身代わりのようになって、機銃掃射に遭い、死んだ。悪いのは戦争だ。罪もない者を殺すのだから」。
「安らかに眠ってください あやまちは繰り返しませぬから」
戦争を二度としない、というこの誓いの言葉には相手国のことが全く書かれてない。
「悪いのはアメリカ兵だ。でも、そう仕向けたのは日本だ。」
つまり、日本が悪い。・・・・おかしい。
「女たちの忠臣蔵」は「男たちは残された者のことをちっとも考えてない」、と「思い遣ることの大切さ」を気付かせたように言う。
が、男は何で戦いに臨むのか。何で戦わなければならないのか。それは「残された者のために」、なのだということを、何故見ようとしないのだ。
男だって死にたいわけではない。いや、男の方こそ死を恐れる。だからこそ「残された者を守るため」に代わりに死ぬのだ。
「国のために死ぬ。天皇のために死ぬ」というけれど、「残された者を守るために」となれば、国も天皇も全てその間にある。
だから、血縁に戦没者がなくとも、我々日本人は靖国神社に参るのではないか。「同じ日本人のために」「残された者を守るために」散華された先輩に対して頭を下げるために。
「吉良邸討ち入り」で守ろうとしたものは「武士の誇り」。そんなものは個々の配偶者、子供、一般の庶民には何の関係もない。
けれど、これが称賛されることにより独特な日本人の精神性が規定されたことは間違いない。そしてそれは今の日本人の精神形成にも大きく関わっている。それを否定する、認めないということは日本人の精神性を否定することになる。いきなりの肯定はせぬまでも、まずは見詰めようとしなければ、「日本人」の歴史性、発展性に未来はない。