「仁」という文字は、人が二人ということを表している。
二人の人が向かい合って成り立つ「世界」というか「関係」と言うか。
そこで生まれるものは「傍若無人」の反対、「お互いの思いやり」じゃないか、と。そこを最初として、人の世の中は成り立っている。
ではその思いやりの中身は何か。それは「忠恕」だ。
解釈を見ると「忠恕」とは思いやりのこと、とあるけれど、これは「忠」と「恕」の二つの心として見た方が良いのではないかと思う。
「忠」は心を貫く思いやり。「恕」は心のままの思いやり。
貫く思いやりは「理」「理性」。心のままの思いやりは「情」「感性」。
人が向かい合う時、力を合わせるために「共感する感性」が必要だし、その力を正しく発揮するために、阿らず正しさを貫く理性も必要だから。
と言うわけで、もう一つ再掲を。
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2014.03/19 (Wed)
知らんかった・・・・・。
さっき、偶然なんですけどね、あの
「カムサハムニダ」。
能く聞く言葉だけど意味を知ろうという気もなく今日まで生きてきました。
ちょっと大袈裟ですか?
で、まあ、この「カムサハムニダ」が「ありがとうございます」と言う意味だと書いてあったのを見て
「ふんふん。なるほどね」
となったのは良いんですが。
読み進んでいくうちに
「カムサ(感謝)・ハム(する)・ニダ」と書かれていることに行き当たった。
「???・・・・えっ!何だってぇ~~?」
びっくりしました。皆さん知ってました?
だって「カムサ」、って「感謝」、の訛りですよ?「カンシャ、カンサ、カムサ・・・」じゃないですか。
他のところを見ると、
「感謝の概念がなかったところに日本から持ち込まれ、日常語となった」
とまで書いてある。
こりゃ面白いと思って「ニダ」を調べようとしたら、こちらは
「ニダ→~です」と書いてある。
おいおい。ちょっとちょっと。それ丁寧語でしょう?
「ニダ」は、「のだ」、じゃないのか?
「感謝するのだ」・・・・バカボンのパパか。
以前に書いた沖縄方言の「うみんちゅ」を、漢字で「海人」と書くのは間違いであって、正しくは「海(の)衆」と書くべきだし、「ちゅらうみ」を「美ら海」と書くのもおかしい、「清ら海」でなければ変だ、ということと同じです。
(御嶽を「うたき」と言うのも「おんたけ」→「うㇺたキ」、でしょう?)
「カムサハムニダ」。
いかにも昔からの朝鮮語、みたいに思っていたけど、意味を知ってみると、確かに儒教にはない「感謝」の語を日常的に使うなんてこと、どう考えてもおかしいんですよね。
ホントに、能く能く考えなけりゃならないことばかり。
実に、「歴史を直視しなきゃ」なりません。
ついでに「チョッパリ」、を「豚足野郎!」と訳すのもいい加減です。
「チョッパリ」の「チョ」って豚じゃなくて猪ですよね。
勿論、シナに倣って「豚」のことを「猪」と書くからなんでしょうけどね。
当然、「鼻緒のある履物のせいで親指が離れているから」、なんて説明は間違いですよ。
足袋を見て奇異に思ったが故の「蹄みたいだ」という揶揄表現です。
とても低度、幼稚な発想、と言って置きましょうか。
昔、イギリス人が清の役人の辮髪をからかって
「こんなもの、何の意味があるんだ」
と言ったんだそうです、勿論英語で。
シナ人が英語なんか分かるわけないだろうから、と安心してですよ。
どこの国にもヤな奴は、いるもんですね、端から相手を見下すのが。
そしたら、この役人、笑顔でイギリス人のネクタイを指し、
「そんなもの、何の意味があるのかね?」
と流暢な英語で言い返したんだそうです。
英国人、驚いて目を白黒させて何も言えなかった。
そりゃそうでしょう、散々英語で言いたいこと言ってたのを、この役人、ニコニコして聞いてただけだったんだから。
悪口言ってたのをみんな知ってて、黙ってたんですね、人が悪い。
でも、こんな役人、今のあの国には居ないんでしょうね。
(一説では英国人が辮髪を摘まみ、笑いながら言ったのに対して、清の役人はネクタイを摘まんで言い返した、とも。)
大脱線でした。
漢字で書きゃ良いものを、どうでも「訓民正音」(諺文って言うのは蔑称だそうだから)だけで書こうとするものだからややこしくなる。
この清の役人のように、全て知った上で
「カムサハムニダ」
と素知らぬ顔で生きようとしていれば、日本人は
「さすが!高麗の末裔!」
と、尊敬しますよ。少なくとも一目置きます。
今みたいに「尊敬しろ!」って無理強いされたって、金輪際しませんけどね。
知らんかった・・・・・。
さっき、偶然なんですけどね、あの
「カムサハムニダ」。
能く聞く言葉だけど意味を知ろうという気もなく今日まで生きてきました。
ちょっと大袈裟ですか?
で、まあ、この「カムサハムニダ」が「ありがとうございます」と言う意味だと書いてあったのを見て
「ふんふん。なるほどね」
となったのは良いんですが。
読み進んでいくうちに
「カムサ(感謝)・ハム(する)・ニダ」と書かれていることに行き当たった。
「???・・・・えっ!何だってぇ~~?」
びっくりしました。皆さん知ってました?
だって「カムサ」、って「感謝」、の訛りですよ?「カンシャ、カンサ、カムサ・・・」じゃないですか。
他のところを見ると、
「感謝の概念がなかったところに日本から持ち込まれ、日常語となった」
とまで書いてある。
こりゃ面白いと思って「ニダ」を調べようとしたら、こちらは
「ニダ→~です」と書いてある。
おいおい。ちょっとちょっと。それ丁寧語でしょう?
「ニダ」は、「のだ」、じゃないのか?
「感謝するのだ」・・・・バカボンのパパか。
以前に書いた沖縄方言の「うみんちゅ」を、漢字で「海人」と書くのは間違いであって、正しくは「海(の)衆」と書くべきだし、「ちゅらうみ」を「美ら海」と書くのもおかしい、「清ら海」でなければ変だ、ということと同じです。
(御嶽を「うたき」と言うのも「おんたけ」→「うㇺたキ」、でしょう?)
「カムサハムニダ」。
いかにも昔からの朝鮮語、みたいに思っていたけど、意味を知ってみると、確かに儒教にはない「感謝」の語を日常的に使うなんてこと、どう考えてもおかしいんですよね。
ホントに、能く能く考えなけりゃならないことばかり。
実に、「歴史を直視しなきゃ」なりません。
ついでに「チョッパリ」、を「豚足野郎!」と訳すのもいい加減です。
「チョッパリ」の「チョ」って豚じゃなくて猪ですよね。
勿論、シナに倣って「豚」のことを「猪」と書くからなんでしょうけどね。
当然、「鼻緒のある履物のせいで親指が離れているから」、なんて説明は間違いですよ。
足袋を見て奇異に思ったが故の「蹄みたいだ」という揶揄表現です。
とても低度、幼稚な発想、と言って置きましょうか。
昔、イギリス人が清の役人の辮髪をからかって
「こんなもの、何の意味があるんだ」
と言ったんだそうです、勿論英語で。
シナ人が英語なんか分かるわけないだろうから、と安心してですよ。
どこの国にもヤな奴は、いるもんですね、端から相手を見下すのが。
そしたら、この役人、笑顔でイギリス人のネクタイを指し、
「そんなもの、何の意味があるのかね?」
と流暢な英語で言い返したんだそうです。
英国人、驚いて目を白黒させて何も言えなかった。
そりゃそうでしょう、散々英語で言いたいこと言ってたのを、この役人、ニコニコして聞いてただけだったんだから。
悪口言ってたのをみんな知ってて、黙ってたんですね、人が悪い。
でも、こんな役人、今のあの国には居ないんでしょうね。
(一説では英国人が辮髪を摘まみ、笑いながら言ったのに対して、清の役人はネクタイを摘まんで言い返した、とも。)
大脱線でした。
漢字で書きゃ良いものを、どうでも「訓民正音」(諺文って言うのは蔑称だそうだから)だけで書こうとするものだからややこしくなる。
この清の役人のように、全て知った上で
「カムサハムニダ」
と素知らぬ顔で生きようとしていれば、日本人は
「さすが!高麗の末裔!」
と、尊敬しますよ。少なくとも一目置きます。
今みたいに「尊敬しろ!」って無理強いされたって、金輪際しませんけどね。