CubとSRと

ただの日記

【吉田松陰と河合栄治郎】 田久保忠衛氏 講演

2022年03月18日 | 重箱の隅
 もう一つ。

 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
メルマガ「週刊正論」令和4年3月16日号
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

【吉田松陰と河合栄治郎】

 月曜日配信の週刊正論で、月刊「正論」巻頭コラム「激流世界を読む」の筆者である田久保忠衛氏の長州「正論」懇話会での講演の一部をお送りしました。

 本日のメルマガは、東京帝国大学教授河合栄治郎について田久保氏が語った部分を送ります。
 田久保氏は河合栄治郎と、幕末長州藩が生んだ吉田松陰との
類似点を挙げました。
        
         ◇

 (長州「正論」懇話会代表幹事の)清原(生郎)さんが、河合栄治郎について何か話したまえと仰ってくださっていると耳にしました。
 河合と私の青春時代は切り離せないですから、何があってもと参上したわけです。河合からどのような影響を受けたかを申し上げたい。

 河合先生に直接接したことはないが、直弟子の何人かの方に大変お世話になって御指導を受けたという稀に見るチャンスに恵まれた人間でございます。
 河合先生は明治24(1891)年生まれ、昭和19年(1944)年、戦争が終わる直前に53歳で亡くなられた。惜しかったなと思う。
 (評論家の)竹山道雄さんは河合さんが生きていれば必ず内閣総理大臣になったのにと仰ったそうであります。

 河合さんは吉田松陰に通じる所がある。研究者としては自由主義思想を勉強し、最後にイギリスの思想家、トーマス・ヒル・グリーンの思想体系に行き着いた。教育者としては弟子に東大の木村健康教授、京大の猪木正道教授、東京都立大の関嘉彦教授ら綺羅星の如く学者がいる。
 財界も例えば日銀総裁の山際正道さん。直接のゼミ生じゃないが、講義を聞いて大変感銘を受けたと言われた。東京電力社長の木川田(一隆)さんもそうだ。
 人材の山脈は古今稀ではないか。吉田松陰を除くと稀でしょう。

 河合さんは直弟子の皆さんから聞くところによると、左右両翼の全体主義に猛烈に反対した。河合さんは35歳で教授になったが、同じような思想を持った人たちが、時の流れにおもねるんです。マルクス主義全盛期ですから次から次へと左になっていく。少数で多数を批判するというのは、日本のようなムードで動く国民の中では大変難しい。

 河合先生は左翼を叩いた後、右翼批判に向かわれた。ドイツでヒトラーの台頭があったのに対してファシズム批判をお書きになった。
 ※『ファシズム批判』は昭和9(1934)年刊行。
 昭和11(1936)年に起きた2・26事件が起こった時、国民の間に青年将校は正しかったとの感情が多少あった。昭和維新の歌「財閥富を誇れども」ではないが青年将校への同情は存在した。青年将校はむしろいいことやったんじゃないかとの気もするから新聞は何も言えなかった。
 この時、河合さんは「帝大新聞」に「二・二六事件の批判」を発表しふざけてはいけないと書いた。これを読むと体が熱くなりますよ。

 河合さんが怒ったのは、言論を貫くのは良い。但し、その人間が凶器をバックにするのはとんでもない大間違いだ。極論して、2・26が正しいというのなら、国民全体に凶器を分配しろ。凶器と凶器で勝負してやるという具合に激しい論調で論説を書いた。河合さんは体を張っていました。日記を見ると死ぬつもりで書いたと。

 河合さんの著作が発禁処分になり、裁判となる。この裁判で精力を費やして河合さんはお亡くなりになってしまった。
 戦後、日本に「河合イズム」を普及させようとしたのが、社会思想研究会です。その代表の一人が土屋清さん。朝日新聞の論説委員(後に産経新聞に移り常務、専務を歴任)。もう一人が、私の事実上の恩師、関嘉彦先生、3番
目が私をぼろくそにけなして、怒られた思い出がありますが何となく今でも懐かしい猪木正道先生。

 この3人が河合さんが最も可愛がったお弟子さんなんです。
 社会思想研究会の人たちの付き合いから、私は国際情勢を分析する場合に3つの重要な原則があると学んだ。
 1つ。これは簡単なこと。視野が広ければ広いほどいい。
 2番目、何が何だといって問題は事実、ファクトです。
 3番目、個人と国家は別。この3つの原則なんです。
 社会思想研究会から学んだ、河合さんから間接的に学んだと申し上げていいだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする