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ただの日記

儒学

2022年03月14日 | 重箱の隅
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022) 3月12日(土曜日)
       通巻第7257号  
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書評 BOOKREVIEW 

 江戸幕府の御用学問となった「朱子学」の正体
   儒学の精髄をねじ曲げた無神論が如何に中国と韓国をダメにしたか

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井沢元彦 v 石平『朱子学に毒された中国 毒されなかった日本』(ワック)
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 徳川幕府がイデオロギーとした朱子学の悪弊に正面から挑んだテツガク書である。
 なるほど、なるほどト膝を叩きながら一気に読める。しかも内容が濃い。習近平のゴーマンは朱子学を源流とする華夷秩序と中華思想にあり、そのうえ朱子学と共産主義は、極めて相性が良いという特徴を二人は指摘する。
 だから中国はおかしくなった。その附録の韓国はもっとおかしくなった。
 儒学とは基本的に無神論であり、来世信仰がない。即物的でもあり、通俗的でもあり、この世の中が一番という考え方。従って公より私が大切になる。メッコウホウシ(滅公奉私)の精神が横溢することになる。
 仏教伝来と同時期(六世紀)に一度儒学は日本に渡来していた。仏教を大和朝廷は統治を権威つける国家のイデオロギーに副えたが、儒学は無視した。
 その儒学を忠君愛国、恋闕(れんけつ。天皇を恋い慕うこと)の心情という天皇親政に応用することを、かすかに考えたのが鎌倉幕府と足利幕府だった。

 ところが、信長はキリスト教を梃子に仏教の影響力相対化をはかる。
 秀吉は、国家統治のイデオロギーにはそれほどの関心がなかった。愛妾たちには貴種をもとめ、富の独占に興味があったという意味で秀吉はシナの商人的な政治家だった。
 じつは室町時代に禅僧が中心となって儒学は静かに読まれていた。五山仏教の高僧たちである。
 この宗教的状況を「無神論の哲学を有神論の仏者が講じる、というとても歪な構図が生まれた」と井沢元彦氏が鋭く指摘する。

 ▼家康は儒学をいかように理解したか

 徳川家康は一向一揆に懲りて、仏教の影響力を相対化しようと考えた。そこで崇伝や天海ら高僧をブレーンとしつつも、仏教を離れた学者の藤原星窩と林羅山を起用する。
 家康は長期安定を法と秩序にもとめ健全な国家運営を志向した。血を血であらう惨い戦争がない、安定的な世の中にしなければならないと家康は歴史的な使命感を自覚した。
 そのために仏教(キリスト教は問題外)を超えた、しかも、神道を復活強化しても超越できない政治イデオロギーは何か、学問好きだった家康は万巻の書を読んだ。なにしろ駿河城には図書館を創設し、図書館長が林羅山だったほど熱を入れた。
 家康が座右の銘としたのは孫子ではなく、『貞観政要』であり、孔子、孟子であり、儒学の類書も藤原星窩を呼んで講義させた。
 「朱子学とは新儒教」だとする井沢は「孔孟以来の牧歌的で人道的な儒教をねじ曲げた張本人が朱子である」とする。
 この井沢発言をうけて石平は「こんな朱子学に中国と李氏朝鮮は四百年以上も毒され、人間性の欠片も見あたらないほど残酷な世界を構築し」たのだが、それは「論語の世界とはあまりにかけ離れて」いるとする。

 朱子学はエリート官僚制の理論化(科挙)と「金儲け、商売行為を目の仇」として資本主義の萌芽を摘んだ。
 日本に輸入された朱子学を高僧や知識人等は日本的に咀嚼した。
 すなわちシナでは皇帝が天子の替わりであり、天子なら何をしでかしても良く、飽きられると易姓革命が起きて九類(九族?)に到るまで殲滅される。日本の朱子学者らは、この易姓革命の発想を排除した。あまりにも日本の天皇伝統とは異なる点で最初から批判的だった。

 儒教と孔子はまるで異なり、儒教は孔子の教えの中からもっとも悪い要素を引っ張り出して、つくりあげた」(中略)「その毒を見抜き、解体し『論語』の原点に回帰させた」のが日本の儒学者、とくに伊藤仁齋、荻生租来らだったと石平が指摘する。
 そして家康自身もまわりを囲んだブレーンたちも、究極的には朱子学を政治の統治手段に応用することを考えてはいたものの、家康の神格化にあたっては仏教と神道を止揚させるかのように「東照大権現」としたのである。

 ▼儒学から陽明学へ 朱子学は日本の儒者によって造り替えられたのだ

 以下、評者(宮崎)の総括である。
 儒教は六世紀に一度、日本に持ち込まれたが、この面妖きわまりない擬似的な宗教のうけいれを拒否した。仏教を受け入れたのは最初の伝播から百年後だった。ただし儒学は受け入れ、日本は独自の学問的研究を続けた。
 儒学の流れは日本的な朱子学となって、徳川の統治の正統性のために転用された。
 中国における朱子学とは喜んで皇帝の奴隷になります、という学問である。日本はその秩序を重んじるところだけを選択した。ただし江戸時代の儒者は「儒学は官学」だったので、表看板とはしたものの、内心では気に入らず「昼は儒者、夜は陽明学徒」だった。これが日本の特徴だった。

 典型となったのが忠臣蔵始末だった。忠義を評価するか、「法と秩序」による社会を重視するか。社会の安寧を揺るがしたゆえに朱子学からすれば赤穂浪士たちは厳罰の対象となる。
 世界の常識に従えば、忠臣蔵という「美談」は、一人の老人を計画的組織的に暗殺する復讐劇であり、個人主義の塊であるアメリカ人にも中国人にも理解しにくい。
 しかし日本は格別に異なった解釈が主流で、赤穂浪士らの忠君、忠誠の熱情の感激するのである。
 このような武士道精神が特攻隊の突撃精神に結びついたとして日本に復活させないためにGHQは歴史教科書を改竄したが、ついでに忠臣蔵の映画化も、演劇の上演も禁止した。
 主権回復後、日本の映画各社が最初に製作したのは忠臣蔵であり、大河ドラマも忠臣蔵だった。日本人はこの心情を共有した時代があった。
 法治を重視した徳川幕府は、安寧を乱し、規則を犯したとして厳罰に処した。多くのインテリや町の声は赤穂浪士の義挙に深い理解と同情、そして武士の精神の復活を称えた。このような判官贔屓の世論に抗しきれず、幕府の判断は遅れたが、優先されたのは法治だったのである。
 根幹をなすのは儒学、それも徳川幕府が率先して取り入れたが朱子学という、儒学を曲げた、支配者にはたいそう都合のよいイデオロギーだった。 
 本書はそうした矛盾を徹底的に討論している。

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 で、「儒学」と「儒教」は違います、と。
 隣の大国は儒教の精神が体質の一部だし、同じく隣の半島国は儒教が「考え方」、つまり国民性になっている。日本は?教養、ですかね。

 これまで何回か日記に書いてきたんだけど、またまた再掲を。
 次回ですけど。
コメント
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