CubとSRと

ただの日記

戦争 2

2022年03月06日 | 心の持ち様
              2020年06月21日再掲
 2014.12/31 (Wed)

 12月の初旬にNHKで「撃墜」という番組がありました。前後二回。
 PCを修理に出して、それから一週間、何となくテレビばかり見てました。
 でも、見事なくらい「面白い!」と思った番組は一つもなかった。

 そんな中で記憶に残っているのが、この「撃墜」です。良い意味ではない。
 ただ、「結局何を言いたかったんだ」と思うばかり。

 三人の戦闘機乗りの話で、シナの裕福な家庭に育った戦闘機乗りが乗った国民党軍機が、零戦乗りに撃墜される。
 その零戦乗りが今度は紫電改乗りとなって、二十数機で二百を超すグラマン機の集団と戦い、撃墜される。支那の戦闘機パイロット、零戦(後、紫電改)のパイロット、グラマンのパイロット。

 実話を基に構成されたドラマだということだったけれど、結局
 「三人の戦闘機乗りのやったことは、悲しみの記憶しか残していないのではないか、戦争などはするものではない」
 と言いたかったんだろうか。だとしたら、三人が命を懸けて守ろうとしたことを、その何かを、全く見ようともしないことにならないか。それを見なければ三人のパイロットの話をする意味は??
 事実は一つだけれど、真実は三者三様。「三人が命を懸けて守ろうとしたこと」を見詰めず「戦争などはするものではない」で締めくくることが「命の尊厳」を考えることにつながるのだろうか。

 戦争を喜んでする者はいないんじゃないでしょうか。
 相手を倒すことだけ考えるなんてのは、現実問題としてあり得ない。自身も倒されることを、その可能性を、想定して掛からなければならないのは言うまでもないことでしょう。
 「やられるかもしれないけれど、やらねばならぬ」
 というのが戦争でしょう。
 「そうしなければ、このままでは国も家族も死ぬしかない」
 そういった絶体絶命の場が、戦争に踏み切る瞬間と思います。
 決して
 「やられる前にやれ」
 みたいな軽いものではない。一国の存亡が掛かっているんですから。
 だから
 「日本は軍国主義だった。だから世界を敵に回して戦争をしたのだ」
 なんて決めつけは噴飯ものです。

 みんなそれぞれの立場で必死だった。問題はそこなのだと思います。
 必死になっていれば、一所懸命ならば、それでいいのか。そんなことはない。

 つまり「正しいことは正しい」、「駄目なものはダメ」、それだけでいいのか、ということです。是々非々を決めるその物差しは自分自身でしかない。自分自身の習練、努力、修練、研究の結果でしかない。
 じゃあ、それぞれの、個々人の、物差しは個々の物にならざるを得ない。雑な目盛り、大雑把な目盛り、精緻な目盛り等々、人それぞれです。
 そうなると「正しいものは正しい」「駄目なものはダメ」なんてのは傲慢な決めつけにしかならないのではないか。


コメント
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