年が明けたら店を閉める「神戸堂帽子店」のことを書いた日記を再掲。
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「日本は日本人だけのものではない(神戸堂から)」
帽子は似合わないものと決めつけて、ついぞかぶることがなかった。
そんな風になった理由の一つは、姉に
「お前は帽子が似合わない」
と言われたからだった。
実際、鏡に映った帽子を被った姿は、何とも珍妙に思えて仕方がなかった。
恥ずかしくて仕方がない。妙なものが頭の上に載っている。
たとえば、ゆでだことかワカメとか昔ラッキー池田が頭に括り付けていたゾウさん型の如雨露とかを、頭に載せているのと同じ感じがした。
それが出石尚三という人の本を読み、幅広のブリム(つば)を持ったスペイン風の帽子がトレードマークになっているピアニスト(加古隆)の話を雑誌の記事(?)で知って、
「似合う似合わないは、本人の認識力の問題なんだ」
と、そして自他共に
「見慣れているか否かだけのことを、いつの間にか絶対基準であるかの如く思い込んでいたのだ」
と、分かりはじめ、やっとかぶるようになった。
考えてみれば中学生の間、ずっと学生帽をかぶっていたのだ。似合うかどうかなんて、頭っから否定されていたというか、そんなもの考えること自体が埒外のことだった。
確かに「頭が大きいから似合わない」「顔が大きいから似合わない」なんて言うけれど、「大きな頭を人目に触れさせない」或いは「大きな顔を隠す」方法は、というと帽子以上のものはない。
そういえば禿げてる人が帽子を被ってると理知的に見える。室内でその帽子を取ると落ち着いて見える。場所柄を弁えての行動の手本みたいに見えるからだろう。
逆に帽子を被ってるから禿げてると思われて、取ってみたらふさふさというのも意外性があっていい。
カツラと違って周囲も何の気も使わないでいい(当たり前か)ってのも利点だ。
何より帽子を被っていると動作がゆったりとして落ち着いて見える。
少なくとも頭よりは大きいのが帽子だから帽子によって動作が増幅されて見えるわけで、被ってない時と同様に頭を動かしているといつもより落ち着きがないように見える。自然、頭はまっすぐに保たれ、無駄に動かなくなる。
ついでに言えば髪の毛はカメレオンじゃないんだからそうそうコロコロと変色させられない。
けど、帽子だったら服装に合わせて気軽に交換できる。こんなに便利な小道具はない。バロック時代のカツラだってこうはいかない。かしこまった場、気軽な場、それぞれ帽子ひとつで対応の幅が広がる。
いいことづくめと言っても良いのに、「似合わない」という根拠のない自信(?)故に長らく帽子を被らなかった。
で、バイクに乗るようになり、ヘルメットを「似合う似合わない」なんて関係なし、否が応でも被らなきゃならなくなって、厚さ3センチはある帽体のヘルメットのせいで異様に大きく見える自分の頭のシルエットにやっと慣れる。
そんな風になった理由の一つは、姉に
「お前は帽子が似合わない」
と言われたからだった。
実際、鏡に映った帽子を被った姿は、何とも珍妙に思えて仕方がなかった。
恥ずかしくて仕方がない。妙なものが頭の上に載っている。
たとえば、ゆでだことかワカメとか昔ラッキー池田が頭に括り付けていたゾウさん型の如雨露とかを、頭に載せているのと同じ感じがした。
それが出石尚三という人の本を読み、幅広のブリム(つば)を持ったスペイン風の帽子がトレードマークになっているピアニスト(加古隆)の話を雑誌の記事(?)で知って、
「似合う似合わないは、本人の認識力の問題なんだ」
と、そして自他共に
「見慣れているか否かだけのことを、いつの間にか絶対基準であるかの如く思い込んでいたのだ」
と、分かりはじめ、やっとかぶるようになった。
考えてみれば中学生の間、ずっと学生帽をかぶっていたのだ。似合うかどうかなんて、頭っから否定されていたというか、そんなもの考えること自体が埒外のことだった。
確かに「頭が大きいから似合わない」「顔が大きいから似合わない」なんて言うけれど、「大きな頭を人目に触れさせない」或いは「大きな顔を隠す」方法は、というと帽子以上のものはない。
そういえば禿げてる人が帽子を被ってると理知的に見える。室内でその帽子を取ると落ち着いて見える。場所柄を弁えての行動の手本みたいに見えるからだろう。
逆に帽子を被ってるから禿げてると思われて、取ってみたらふさふさというのも意外性があっていい。
カツラと違って周囲も何の気も使わないでいい(当たり前か)ってのも利点だ。
何より帽子を被っていると動作がゆったりとして落ち着いて見える。
少なくとも頭よりは大きいのが帽子だから帽子によって動作が増幅されて見えるわけで、被ってない時と同様に頭を動かしているといつもより落ち着きがないように見える。自然、頭はまっすぐに保たれ、無駄に動かなくなる。
ついでに言えば髪の毛はカメレオンじゃないんだからそうそうコロコロと変色させられない。
けど、帽子だったら服装に合わせて気軽に交換できる。こんなに便利な小道具はない。バロック時代のカツラだってこうはいかない。かしこまった場、気軽な場、それぞれ帽子ひとつで対応の幅が広がる。
いいことづくめと言っても良いのに、「似合わない」という根拠のない自信(?)故に長らく帽子を被らなかった。
で、バイクに乗るようになり、ヘルメットを「似合う似合わない」なんて関係なし、否が応でも被らなきゃならなくなって、厚さ3センチはある帽体のヘルメットのせいで異様に大きく見える自分の頭のシルエットにやっと慣れる。
ヘルメットでくしゃくしゃになった髪を押さえつけるためにキャップを被るようになる。バイク乗りはみんなキャップだから、それも何だかなあ、とハンティングに移り、最近やっとバイクから離れてパナマ帽なんぞというものも被るようになった。
キャップからハンティングに、となり始めた頃、「神戸堂帽子店」のことを知った。当時は50年以上にもなる古い店だということを知らなかった。そして時々行くようになり、気が付いたら10年ほどが過ぎていた。
昨秋、店主と店員それぞれが、高齢になったが故に店を閉めることにした、と言われた。
「今年の夏には閉店のつもりです」
そう言われて、何とか店が閉まる前にもう一度、とは思ったものの、事情あっての田舎暮らし、そう簡単に自由には動けない。やっとのことで今になって神戸に出る機会ができた。
「もう店はないかもしれない。」
そう思いながらも、とにかく行ってみることにした。
店はあった。閉店した様子はない。しかし何となく雰囲気が変わっている。
キャップからハンティングに、となり始めた頃、「神戸堂帽子店」のことを知った。当時は50年以上にもなる古い店だということを知らなかった。そして時々行くようになり、気が付いたら10年ほどが過ぎていた。
昨秋、店主と店員それぞれが、高齢になったが故に店を閉めることにした、と言われた。
「今年の夏には閉店のつもりです」
そう言われて、何とか店が閉まる前にもう一度、とは思ったものの、事情あっての田舎暮らし、そう簡単に自由には動けない。やっとのことで今になって神戸に出る機会ができた。
「もう店はないかもしれない。」
そう思いながらも、とにかく行ってみることにした。
店はあった。閉店した様子はない。しかし何となく雰囲気が変わっている。
店内に入ると二人揃って白髪の、店主も店員の姿もなかった。代わりに若い男女が店にいた。
聞くとこれまでの歴史を受け継いで、店は同じ方針でやっていこうということになったらしい。
古くからの客が閉店となることを惜しんだのだろう。それと同時にやはり、ネットで話題になって「存続させてくれ」という声も多く寄せられたようだ。
とは言え、それだけで何とかなるようなものではない。店主もそれを知ってできれば存続をさせたい、という気持ちから何らかの行動を起こしたと見える。
誰も知らない田舎の食材がネットで全国に知られ、飛ぶように売れ始めたという話はよく聞くけれど、こんな老舗が多くの客の声に応えて閉店を思い留まり、これまでを大事にして存続させようと決意する。こんなこともあるんだなと思う。
「日本の人口はどんどん減っていって、このままでは日本がなくなる」
と断じかねない勢いの昨今の風潮だけれど、だからと言って外国人を何百万人も日本に住まわせ、
「日本は日本人だけのものじゃない」
と言う。門戸開放だ、と。
そりゃおかしい。それ、日本じゃないだろう。
そんなのを「共存共栄だ」と言うのは、文化の何たるかを全く分かっていない人と言っていい。日本の文化を受け継ぎ、発展させてこそ日本。それは人口の多い少ないではない。
「店を続けるか、それとも閉めるか。」
小さなことと認識されているだろうこんなことの集積が、日本を(いや、どこの国だってそうやって)形作って来ている。
そうやって各国の文化があって、それぞれの社会(町、地域、国、そして世界)が、それぞれの場で鎬(しのぎ)を削って、世界は成り立っている。努力あってこその共存共栄。「減ってるならよそから持ってきてバランスを取ればOK」、なんてものじゃあない。
聞くとこれまでの歴史を受け継いで、店は同じ方針でやっていこうということになったらしい。
古くからの客が閉店となることを惜しんだのだろう。それと同時にやはり、ネットで話題になって「存続させてくれ」という声も多く寄せられたようだ。
とは言え、それだけで何とかなるようなものではない。店主もそれを知ってできれば存続をさせたい、という気持ちから何らかの行動を起こしたと見える。
誰も知らない田舎の食材がネットで全国に知られ、飛ぶように売れ始めたという話はよく聞くけれど、こんな老舗が多くの客の声に応えて閉店を思い留まり、これまでを大事にして存続させようと決意する。こんなこともあるんだなと思う。
「日本の人口はどんどん減っていって、このままでは日本がなくなる」
と断じかねない勢いの昨今の風潮だけれど、だからと言って外国人を何百万人も日本に住まわせ、
「日本は日本人だけのものじゃない」
と言う。門戸開放だ、と。
そりゃおかしい。それ、日本じゃないだろう。
そんなのを「共存共栄だ」と言うのは、文化の何たるかを全く分かっていない人と言っていい。日本の文化を受け継ぎ、発展させてこそ日本。それは人口の多い少ないではない。
「店を続けるか、それとも閉めるか。」
小さなことと認識されているだろうこんなことの集積が、日本を(いや、どこの国だってそうやって)形作って来ている。
そうやって各国の文化があって、それぞれの社会(町、地域、国、そして世界)が、それぞれの場で鎬(しのぎ)を削って、世界は成り立っている。努力あってこその共存共栄。「減ってるならよそから持ってきてバランスを取ればOK」、なんてものじゃあない。