CubとSRと

ただの日記

ゆく川の流れは絶えずして その3

2022年12月14日 | 日々の暮らし
 年が明けたら店を閉める「神戸堂帽子店」のことを書いた日記を再掲。 
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 「経営者が変わっても」
                 2012.11/06 (Tue)

 月初めから五日間ほど神戸に帰っていた。
 せっかくの機会だからと、帽子を買いに行くことにした。
 例の「神戸堂」だ。店主が代わり、新装開店の準備期間が過ぎてから、行くのは初めてだ。

 店は大きく内装が変えられた・・・・というわけでもない。
 反対に、こうやってたまに行くだけの者からすると何も変わっていないような気もする。
 けど、反対に随分変わったような気もする。
 所狭しと並べられていた帽子が少なくなって、店が明るくなったような気もする。

 「ツイードのジャケットに合うようなハンティングが欲しいんですが」
 から始まったのだが、ジャケットの織り柄、色目、色糸の塩梅等、色々考えて並べてくれたのが六つか七つあっただろうか。
 話の合間に、帽子が好きで当然のことだけれどとても詳しいのが言葉の端々に見える。
 やっぱりジャケットを着て来なきゃいけなかったなぁと思う。
 とは言ってもバイクだから、まさかそんなことはできないのだけれど。

 それを見比べ、被り比べていると、八十前後に見える老夫婦がやって来た。夫の帽子を、と言うことだったらしい。
 感じの良い笑顔で帽子のサイズなどを店主に尋ねる様子は、とても我が田舎には居ないだろうなと思わされる風情だ。
 「う~ん。やっぱり神戸だなぁ」
 なんて、思うべきところかもしれない。

 「へえ~。あの年齢であんな変わった織りの帽子か。なかなかカッコいいなあ。色が渋いからちっとも嫌味がないなあ。似合うもんだなあ」
 と、ちょっと感心して見ていた。
 店主との話で、ちらっと聞こえたのはフランスの「ミストラル」のものだということ。納得。確かにあそこのは何だかちょっと変わっている。
 なんて言って、フィッシャーマンズハットの潰れたような変な形のを一つしか持ってないのだけれど。
 それが奇妙なくらいにしょっちゅうかぶっている。

 老婦人が並んだ帽子を前に悩んでいるこちらに声を掛ける。
 「いい色の帽子がありますね。それ、お似合いですね」
 そう言えば以前にもこの店でそんなことを言われたことがあった。
 何だかバイク乗り同士のピースサインに一脈通じるものがある。

 帽子なんかなくったって死にゃあしない。
 帽子がなかったから凍えて立ち往生、なんてことは、まずない。
 それを、日除け、禿げ隠し云々の効用はさて置き、ちょっとお洒落をしてみたい、ちょっと冒険してみたい、となると、帽子はカツラなんか足元にも及ばない力を発揮する。バイクでツーリングに出るみたいに。

 なくたって死にゃあしない帽子を買おうと店を訪れる。だから「無駄」を買いに来ている。帽子しか置いてない店だったら、本当に無用の長物の応援団みたいなのが帽子専門店だ。
 でも、気に入った帽子を見つけて被ってみる。見ず知らずの客同士なのに自然に声を掛け合う。間違いなくお互い笑顔になっている。
 同じ、無駄なものに向かう者同士、何か共鳴しているのかもしれないな、と思う。

 「迷いますよね。二つ買う金はないし」
 と老婦人に言ったら、店主、 
 「本当は言うべきじゃないんですが」
 と前置きして
 「迷ったからとか、滅多に来れないから、といくつも買うのはやめた方がいいです。不思議とその中の一つばかり被るようになるんです。いくつも買うとどうしてもそうなりますから、一回に一つだけにして、また次の機会に買っていただく方が良いかと思います」
 確かに商売人の言うべきことではないだろう。けど、そう言われて納得する自分がいる。

 店の雰囲気というものは人で変わるけど、帽子店というところは、この感じや客同士のやり取りは基本的に変わらないのかもしれない。

 「TVタックル」で「大学が独立法人みたいになってから、自分で研究資金を稼がなきゃならなくなった、そのため、企業などから資金を集めるのだが、そうすると、研究成果を四半期(四つに分けた、と言う意味で三か月)毎に発表しなけりゃならなくなって、自然、長期間かかる研究はできなくなってしまった」、みたいなことを言っていた。
 金にならない研究や学問は誰もやらなくなり、それが巡り巡って、結局は短期の研究も駄目になっていく。

 被らなくとも大勢に影響のない帽子。
 実際、日本人の多くが帽子を被らなかった時代は長い。ここ数十年、日本人は本当に帽子を被らなかった。
 それがここ十年ほどで急に様子が変わってきた。無駄だ、と思われていたものに目が向けられるようになってきた。
 無駄に見えて、実は無駄ではないもの。成果主義の正反対をいくもの。「虔十公園林」のようなもの。


 この老夫婦は古くからの客らしい。店主は代わったけれど、きっと以前と変わらず店を訪れることだろう。
コメント
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