CubとSRと

ただの日記

「鈍機翁のため息」より

2020年03月30日 | 心の持ち様
2015.05/04 (Mon)

 標題「鈍機翁のため息」、というのは産経新聞に連載されているコラムです。

 何でもドン・キホーテについていろいろ思うことを、心に浮かぶままに書きつけてみたいということで始まったものだそうで。
 予告の段階から読み始めたんですが、初めはあまり熱心に読むこともなく、読み飛ばしてきました。

 それが時たま脱線して時事問題を直接語る、みたいな感じで話が大きく広がっていき、なかなか元に戻らない、なんてことが起こり出す。これが妙に面白い。ドン・キホーテの話から離れてるんだけど、物の考え方、見方はそのままだから、時事問題がきちんと筋の通った、それでいて軽妙な解説で見事に解(ほぐ)される。


 言ってみれば「針の穴から天、覗く」、です。
 ん?ことわざでは「針の穴から広大な天は見ることができない」っていう意味ですよね。
 ほんとですかね、やってみたんでしょうか。ちょっと考えれば「そんな筈はない、頭を巡らせば見えるじゃないか」となりませんか。
 私が馬鹿の一つ覚えみたいにして言う、「一事が万事」「木を見て森を忘れず(森を見ず、ではなく)」と同じで、いきなり正当な知識として受け入れるのではなく、まずは見詰めよう、と。

 実際見詰めてみたら、筋道が見えることもあるということを、筆者は「間奏」という形で時々書かれます。
 ということで、今回初めて転載を、と思いつきました。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 【鈍機翁のため息】

 (278)間奏 I ある人生相談

 【相談】
 30年前に運転する車で同じ町内の人をはね、けがをさせてしまいました。
 その事故は100%が私の責任ではありませんでしたが、私は被害者に心から謝罪し、自分の財産を処分して慰謝料などもきちんとお支払いしました。

 しばらくは平穏な日々が続き、私は懸命に働いて生きてきました。
 ところが、10年ほど前から被害者は私の言動に目を光らせるようになり、ことあるごとに私に対して文句を言い、近隣にも根も葉もない私の悪口を触れて回るようになりました。
 さらに、顔を合わせれば執拗(しつよう)に謝罪を求めてきます。
 その裏には「もっとカネを払え」という無言の圧力を感じます。本当は引っ越したいのですが、それはある事情で絶対にできません。
 私はどうしたらよいのでしょう。    (70歳男性)

 【回答1】
 その事故の細かい事情はわかりませんが、あなたがけがをさせてしまったことは事実なのですから、被害者が「もういいよ」と言うまで謝り続けるしかないと思います。(有名作家)

 【回答2】
 戦いなさい。それは殴りかかれということではありません。
 あなたを信用してくれる人たちに、事実をふまえて被害者の言動がいかに常識から外れているかを訴え続けるのです。
 絶対に要求に屈してはいけません。屈すればあなたは死ぬまで、さらにあなたの子供までつけ込まれます。
 長期戦を覚悟してください。人生に戦いはつきものです。

                            (桑原聡)

 http://www.sankei.com/life/news/150504/lif1505040012-n1.html

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私は、(有名作家)というのは、ノーベル賞をもらった世間に相当程度以上の影響力のある、あの丸メガネの小説家かな?と思ったり、同じく世間に相当程度以上の影響力のある、あの大手マスメディアの事かな?と思ったりしながら読んでみましたが、どんなもんでしょう。
 (それに「同じ町内」というのが、つい「近所の国」に見えてしまって。事情あって、引っ越しはできませんから、ね。)

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正論「中国の金融野心と参加国の策略」転載

2020年03月29日 | 重箱の隅
2015.04/18 (Sat)

 一連に、とも思ったのですが、国を愛するがゆえに苦言を呈する、といった人が書いたものと、学者の書き方とでは自ずと違いがあります。

 今回転載する西尾氏の文は、「国民」ではなく、「人間」として物事を「考え」、理性で以て社会を構築していくことの大事さを書かれている。「感」ではなく、「観」、と言ったらいいでしょうか。
 激情で動かすことも、時には必要だけれど、国家をつぶしてしまっては本末転倒です。社会をつくり、運営していくというのは、それこそ「粛々と」でなければならない。
 早い話、今、我が国のメディアのやっていることは、浅薄な知識だけで国民を煽動しようとしているだけ、それも「愛国」「憂国」の情からではなく、「世界市民」としての情からではないか。
 でなければ何故、今回の論評に挙げられている三点が論じられなかったのか。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「AIIBにみる中国の金融野心と参加国の策略」
 評論家・西尾幹二

 中国主導によるアジアインフラ投資銀行(AIIB)に、英国を先頭に仏独伊など西欧各国の参加意思が表明され、世界50カ国以上にその輪が広がったことが、わが国に少なからぬ衝撃を与えたように見える。
 中国による先進7カ国(G7)の分断は表向き功を奏し、米国の力の衰退と日本の自動的な「従米」が情けないと騒ぎ立てる向きもある。

 《なぜ帝国主義台頭を許すのか》

 もとより中央アジアからヨーロッパへ鉄道を敷き、東南アジアからインド洋を経てアフリカ大陸に至る海上ルートを開く中国の壮大な「一帯一路」計画は夢をかき立てるが、しかしそれが中国共産党に今必要な政治的経済的戦略構想であり、中華冊封体制の金融版にほかならぬことは、だれの目にもすぐに分かるような話ではある。
 中国は鉄鋼、セメント、建材、石油製品などの生産過剰で、巷(ちまた)に失業者が溢(あふ)れ、国内だけでは経済はもう回らない。粗鋼1トンが卵1個の値段にしかならないという。
 外へ膨張する欲求は習近平国家主席の「中華民族の偉大なる復興」のスローガンにも合致し、ドル基軸通貨体制を揺さぶろうとする年来の野心に直結している。
 それはまた南シナ海、中東、中央アジアという軍事的要衝を押さえようとする露骨な拡張への動機をまる見えにしてもいる。

 それならなぜ、遅れてきたこのファシズム的帝国主義の台頭を世界は許し、手を貸すのだろうか。今まで論じられてきた論点に欠けている次の3点を指摘したい。

 計画の壮大さに目がくらみ、浮足立つ勢力に、実行可能なのかどうかを問うリアリズムが欠けている。中国の外貨準備高は2014年に4兆ドル近くに達しているが、以降急速に減少しているとみられている。中国の規律委員会が1兆ドル余は腐敗幹部により海外に持ち出されているとしているが、3兆7800億ドルが消えているとする報道もある。

 《策略にたけた欧州の狙い》
 持ち出しだけではもちろんない。米国はカネのすべての移動を知っているだろう。日本の外貨準備高は中国の3分の1だが、カネを貸している側で対外純資産はプラスである。
 最近知られるところでは、中国政府は海外から猛烈に外貨を借りまくっている。どうやら底をつきかけているのである。
 AIIBは中国が他国のカネを当てにし、自国の欲望を満たそうとする謀略である。日米が参加すれば巨額を出す側になる。
 日本の場合、ばかばかしい程の額を供出する羽目になる可能性がある。安倍晋三政権が不参加を表明したのは理の当然である。

 第2に問われるべきは欧州諸国の参加の謎である。
 欧州はロシアには脅威を感じるが中国には感じない。強すぎるドルを抑制したいというのが欧州連合(EU)の一貫した政策だが、ユーロがドルへの対抗力となり得ないことが判明し、他に頼るべき術(すべ)もなく、人民元を利用しようとなったのだ。
 中国の力を味方につけて中露分断を図り、ロシアを少しでも抑制したいのが今の欧州の政治的欲求でもある。それは安倍政権がロシア接近を企て、それによって中国を牽制(けんせい)したいと考える政治的方向と相通じるであろう。
 欧州は経済的に日米から、政治的にロシアから圧力を受けていて、そこから絶えず自由になろうとしているのがすべての前提である。

 《日本の本当の隣国は米国だ》
 それなら英国が率先したのはなぜか。英国が外交と情報力以外にない弱い国になったからである。
 英米はつねに利害の一致する兄弟国ではなく、1939年まで日本人も「英米可分」と考えていた。 第二次大戦もそれ以降も、英国は米国を利用してドイツとロシアを抑止する戦略国家だった。今また何か企(たくら)んでいる。
 中国はばか力があるように見えるが直接英国に危害を及ぼしそうにない。
 その中国を取り込み、操って政治的にロシアを牽制し、日本と米国の経済的パワーをそぐ。これは独仏も同じである。日本が大陸の大国と事を構えて手傷を負うのはむしろ望むところである。
 AIIBは仮にうまくいかなくても巨額は動く。欧州諸国の巧妙な策略である。

 第3に中国と韓国は果たして日本の隣国か、という疑問を述べておく。
 地理的には隣国でも歴史はそうはいえない。隣国と上手に和解したドイツを引き合いに日本を非難する向きに言っておくが、ドイツが戦後一貫して気にかけ、頭が上がらなかった相手はフランスだった。それが「マルクの忍耐」を生んでEU成立にこぎ着けた。

 それなら同様に戦後一貫して日本が気兼ねし、頭が上がらなかったのはどの国だったろうか。中国・韓国ではない。アメリカである。
 ドイツにとってのフランスは日本にとっては戦勝国アメリカである。
 日本にとっての中国・韓国はドイツにとってはロシアとポーランドである。その位置づけが至当である。
 こう考えれば、日米の隣国関係は独仏関係以上に成功を収めているので、日本にとって隣国との和解問題はもはや存在しないといってよいのである。

                     (転載了)

 http://www.sankei.com/column/news/150416/clm1504160001-n1...

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 大国は当然のことながら、小国だって、そう簡単には滅亡なんかしません。
 小国と雖も誇りがあるから、でしょう。でも、もう一つ、理由がある。
 周囲の国が困るからです。「借金踏み倒しができるじゃないか」とか「領地が手に入る」なんて言ったって。国が滅びても、人は住んでいますから。
 殲滅しなければ安心して住めません。その費用たるや、筆先ひとつで「30万人虐殺した」なんてやるのとは訳が違います。
 だから「欧州諸国は策略に長けている」。生かさず殺さず、で賠償金を取り続ける。

 歴史的に見て、英米は基本が敵国でしょう?米国は戦争で英国から独立したんですから。
 だのに、英米は同じ、みたいに思っている。おかしいじゃないか。
 だからと言って、お互い、相手が滅びてしまうと困る。
 「利害」ということを我々はもっと知っておかねばならないのかもしれません。

 そして、「隣国の定義」です。何だか我々は地理的な見方で見る、或いは地政学的な見方で見ることばかり頭に置いていたようです。
 歴史的に見て、そして、それによる様々な動向を見てみることも重要なんだということを、ともすれば忘れてしまいます。

 ・・・・・なんてことを言っても、我々にはそう簡単にはマネできない。
 何しろ「世界は腹黒い」。
 「正心誠意」の一念のみで国政を見詰めるしか、我々は普段には何もできない。
 そうすれば政治家も腹黒さに徹することができる、というものでしょう。
 
 補記
 「歴史的に見て、そして、それによる様々な動向を見てみることも重要」、というのは、国の成り立ちというものは地政学的、地理的に大きく影響されているということを、単一平面(空間の広がり)だけで見るのではなく、時の流れの中で、社会(そしてその中で作られる人間性)の発達の特殊性に目を向けなければならないのではないか、ということです。
 一言で言えば、「(各国に於ける)精神の発達史」に目を向けなければならないのではないか、ということです。
 火病の発症、避諱の概念の成立などへの理解(受け入れ、ではありませんよ)は、これなしには不可能か、と思います。

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大袈裟

2020年03月29日 | 心の持ち様
2015.04/05 (Sun)

 「今年の一月半ばより、運動不足解消のために早朝散歩をしている」
 、と何度か書いてきました。

 三日坊主の割に能く続いている、なんて自画自賛したいところですが、まだ早い。私の場合は歳食ってる分、三日坊主の日数は長め、でなきゃ。その分、進歩も遅いわけですから。
 三ヶ月くらい続けたら三日坊主。そのぐらいの心積もりなら、四月の終わり頃にはそれなりの伸長が見えるかも、と妄想しています。

 さて、この早朝散歩、近くの運動公園を十周ほどしたらほぼ一万歩。それに加えて仕上げの補助運動をして予定終了です。
 まあまあの量かな、と思ってるんですが、別に体力的に辛いってわけじゃないんだけど、「十周」ってのは意外とネックになっている。

 同じところをぐるぐるぐるぐる回る。同じように歩いている人は他にもいる。十周という人はないみたいだけど、半分の五周ぐらいは毎朝同じようにやっている。
 でも同じ方向に歩いてりゃいいんですよ、反対回り、って人もありますからね、お互い一周するのに二回、顔、合わせることになります。
 一回目は良いんだけど、二回、三回となると笑顔で目礼、も段々儀礼的になってくる。どこら辺でそれをやめるかというのが意外に難しい。
 お互い、我が身のことを考えて散歩をしているのだ、ということは見りゃ分かる。だから相手に対して共感というか、仲間意識みたいなものは、持っているんだと思います。
 でも、それは同時に、旧態依然としたままの自分を良しとしない向上心の表現が散歩、という者同士なわけです。だからそれなりに集中して取り組みたい、とも思っている。
 半周近く歩いたから「あ、そろそろ顔が見えるかな」と思うと同時に集中力が僅かに乱れる。
「そんな大袈裟な」?大袈裟ですよね、確かに。

 でも「向上」って、そんな堅苦しいというか、狭量というか、大仰な取り組み方の上に成り立っているものなんじゃないでしょうか。
 何故って「合理的な向上法」なんて初心者は知らないわけです。当然、知らないくらいだからそんな能力なんて持っていないわけで、そうなると、傍目から見れば噴飯ものの取り組み方法であっても、本人からすれば至極真面目に、正心誠意取り組むしかない。

 本当に真面目くさって、一所懸命取り組んでいることって、本人が真剣であればあるだけ、周りから見れば可笑しいし、失笑ものなんだと思います。でも、やらなきゃ進展はない!

 僅か千歩ほど歩く間に、二度も集中力が乱れてしまう。
 どうすりゃいいんだ!

 いや、解決法は実に簡単なものでした。


                           (続く)
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以上でも以下でもない (後)

2020年03月29日 | 心の持ち様
2014.06/30 (Mon)

 「言葉足らず」を書き足したら長くなり、結局は三回になってしまいました。
 計画性、0です。申し訳のないことでした。
 例によって、懲りずに読んでくださっている方には御礼申し上げます。

 ①一割の世界に誇れる武士階級と、それを手本にしようとする残り九割の日本人が日本を形作っている。これは素晴らしいことです。奇蹟です。
 ②大陸の住民の方が、却って物を知らず、知ろうとせず、誤解しやすく、思い込み(決めつけ)をしやすい。

 前回は大脱線してそれだけで終わりました。今回はその実例を挙げて、終わります。

 「日本だって50年前は似たようなものだった。意識は、この50年間で確実に、飛躍的に向上した」。
 そんな風に書きました。

 で、これ以上誤解を招かないように先に言いますが、決して「だから50年後にはシナも朝鮮も今の日本のようになっている筈だ」、などと言おう、としているのではない。シナなんかこのままなら、百年経っても無理だろう。そう思ってます。
 日本だから「そう、なれた」んだ、いや「なった」んだ、と断言したって良いでしょう。
 その理由は
 「日本には連綿と続く『謙虚と思い遣り』という『国柄』があるから」。
 「謙虚と思い遣り」の有無に全てがかかっている。そう断言できます。

 その目で50年前を見ると・・・・。
 そこには列をつくって並ぶことの苦手な日本人の姿があり、反対に「とにかく並ぶことが好き」とからかわれても平然として個人主義に徹して、黙って並んでいる成熟した英国社会がある。言っておきますけど、イギリスだけですよ。他の国はちゃらんぽらん。
 日本人は、イギリス「だけ」を尊敬した。同じ島国で、本来なら貧しい筈のイギリスが「大英帝国」として輝いていたことを知っている。手本にすべき国であることは幕末から日本人の共通認識です。

 30年程前だって。
 信州のペンション村の一軒の主人が、たばこのポイ捨てをする村の人に
 「こんな美しい自然を汚さない方がいいんじゃないか」、と注意をした。
 すると、「余所者がエラそうに。俺たちはこの厳しい気候の中で、ずっとこうやって生きて来たんだ。畑仕事もしたことない者が知った風なことを言うな!」、とまるで見当違いのところで憤りを見せられ、ものが言えなくなった、という話があります。

 それが少なくとも、この2、30年で、すっかり変わってしまった。
 何だかそうなると、「江戸、明治の昔から、日本人はきちんと並んでいたし、道端にゴミを捨てたり、手洟をかんだり、痰を吐いたり、立小便したり、みたいなことは決してしなかった」みたいな雰囲気だけど、とんでもない。20年前はともかく、少なくとも50年前は、そんなの当たり前だった。街中は人目があるけれども、田舎では特定のアジアの国々と大して変わらなかったんです(勿論、電車の中で用足し云々、は流石に・・・・ですけど)

 それが急激に公衆道徳、というものを意識するようになる。
 東京オリンピック開催がきっかけです。北京オリンピック、シナもそれに期待してたんでしたね。日本みたいにできる、と。残念でした。見えない『心根』というやつは、パクリはできなかったようです。
 それは何故か。
 「島国根性」の中のネガティブな面と、「恥ずかしい」という気持ちが、日本人の特性である「謙虚と思い遣り」を刺激したからではないかと思っています。
 外国(英国ですけど)に行って、行列のつくれない日本人を思い出し、「恥ずかしい」と思う。「日本って田舎なんだなぁ、二流、いや三流かもな。それに誰も日本のこと、知らないぞ。地図見せて『日本はどこか』って聞いたら、『ここだろ?』って大陸、指したもんなぁ。」・・・・。

 中華思想じゃありませんからね、日本は。
 だから「外国では~」、「フランスでは~」、「イギリスでは~」というのが流行った。
 おそ松くんに出てくる「イヤミ」は、いつも「おフランスでは~」と言ってたし。
 「それに比べて日本は遅れてるよ」というのが決まり文句だった。
 あ、今でもテレビでは繰り返し言ってる人、いますけどね。誰とは言わないけど。
 でも、日本人はそうやって、良しにつけ悪しきにつけ、自国を見詰め、不都合を直して来たんです。その姿勢こそが「保守」です。
 「改善」は、「温故知新」、「稽古照今」があってこそ、その上に成り立ちます。

 外面の良し悪しばかり言ってもしょうがない。けど、外面の良し悪しを気にして、外面から「改善」していかなければ、内面も、変わることはない。
 「要は中身」だからこそ、外面から(列に並ぶところから)始める。
 そうやって日本は我々の先祖がつくってきました。いつもちょっとずつ背伸びをして。

 今、武士はいません。しかし、武士の代わりと目して、指導者を、或いは代議士を選び、彼らを手本として行動できる国民、行動しようとする国民、は多く存在します。
 「それ以上でもなく以下でもない」。ひたすら正しく直く生きようとする。

 繰り返しますが、この、「それ以上でもなく以下でもない」ということ、自信を持って言い切れる国が、この地球上にどのくらいあると思いますか?

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以上でも以下でもない (中)

2020年03月29日 | 心の持ち様
2014.06/29 (Sun)

 朝鮮にしてもシナにしても、いや、アメリカだって大概だけれど、50年前の日本だって、そんなに褒められたものじゃない。
 大体が日本だって急激に良くなって来たんであって、明治時代、いや江戸時代辺りの日本は、立派な人は立派だけれどそうでない人はホント、それなりでしかなかった。武士以外はそこまで自慢できるものじゃなかった。

 そんなことを書いて顰蹙を買ったところで、前回は終わりました。
 もう顰蹙買った後で、
 「家の描写なんかを見たら西欧人は誤解するに決まってる」
 と付け足したって、後の祭り。覆水盆に返らず。
 でありながらも後半を読んでやろうと思われた方には、御礼を申し上げます。
 肝腎なことが二つ、言葉足らずでした。
 
 一つ目。
 「武士以外はそこまで自慢できるものじゃなかった」。
 これを「残りの九割をバカにしてる」、と採るか、「武士というのは、そんなにすごいのか」、と採るかで、国の見方は百八十度違ってきます。
 敗戦後の日本は、事毎に「九割をバカにしている」という見方でした。つまり、それが自虐です。普通なら自虐が嫌だから、強情張って外に攻撃対象を探す。
 けど、敗戦後の日本は、バカ正直に自虐を受けとめて来た。世界中が「悪いのは自分じゃない」と喧しく言い立てる中で。
 近隣の国から「悪いのは日本だけだ」と言われ、「そうだ。悪いのは日本だけなんだ」、と。

 実はいつだって、どんな時だって、自らを肯定的に見ることをしない、ということが大半の問題原因であり、自らを見詰めようとしない(目を背けようとする)のが問題の残りの原因です。(驚いたことに、敗戦までの日本の歴史は、自らを肯定的に見て、尚且つ自らを見詰めようとしていました。島国なんだから当然、なんですけどね)

 さて、少なくとも武士の精神レベルの高さは当時、世界一だったでしょう。侍(侍らう)という誇りだけで生きている(主人のために淡々として命を投げ出す)。
 そして、そんな武士が人口の一割もいる。そんな国はどこを探したってない。
 それだけじゃない。そんな武士を手本にして生きる九割の日本人が居るのです。
 「武士は食わねど高楊枝」などと言って武士のやせ我慢をからかっていても、主人や大義のために平然として命を捨てる、というその矜持に九割の日本人は、文句なく尊敬の目を向けていた。
 そして、ここが凄い所なんですが、その九割の日本人の中から、手本であるべき武士の家計を立て直すために働き、尊敬する武士を敬服させた者や、武士から全幅の信頼を置かれる者も出現する。
 両班の国にこんなことがありますか?両班は「残りの九割に文句なく尊敬されて」いましたか?

 何故二宮尊徳の少年時代の像が、小学校に多数置かれたのか。彼は武士ではなかったからです。
 明治時代になって、国が四民平等を唱っても、現実にそんな人物(武士が認める人物)が実在しなければ、絵に描いた餅、でしょう?
 一割を尊敬する九割の国民が居て、その中から一割の武士でさえ尊敬する人物が出てくる。それが「日本」という土壌・国柄です。
 以前に書いた「石見尊徳」と呼ばれた岩谷九十老翁の話だってそうです。いくつもの藩の蔵方を引き受け実直に果たしています。そのうちの或る藩は九十老の長年の仕事ぶりに褒美の米を与えています。武士の信頼を得たからこそ、です。その米を九十老は緊急時のために、と地元に全て寄付してしまう。

 もう一つは「西欧人は誤解する」、ということ。
 彼らにはアジアに対する理解がなかった。決めつけはあったでしょうけどね。
 「アジアは全てに遅れている。そして、人種として白人より劣っている」、と。
 だから「藁葺き」と言えば、「粗末」、という印象しかなかった。「土と木でできた家」と言えば、アフリカなどの自然の丸太で支えられた、牛糞と土をこねた壁しか想像できなかった。
 しょうがないでしょう、日本の家だけが違ってたんですから。

 「誤解」の元には、いつも必ず「無知」があります。知識がないんだから誤解して当然です。それで言えば、日本のような島国は情報が容易に入って来ないんだから、誤解だらけで当然、ということになります。
 しかし、「知識がない」ということを、却って客観視する可能性のあるのが、「島国」ではありませんか?「島国だからこそ進取の気風に富み、開放的である」、と。
 ここで日本人特有の「謙虚さと思い遣り」が生まれてきます。
 「自己の主張と思い込み」に陥り易い大陸国の住民は、だから誤解する。


 「言葉足らずでした」から、と足していったら、またまた大脱線をしてしまいました。
 でも、これを書いてみて、後半に書いていることが自分でも納得できました。(実は、後半は既に書いてあるんです。)

 後半は世間話みたいなものですが、一応、結論ということで。
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