CubとSRと

ただの日記

日本の場合は

2022年06月25日 | 重箱の隅

 全米108の大學にあった『孔子学院』の、104校が廃止された。
  28校でゾンビ復活。「米中姉妹校交換プログラム」などと改称していた
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 ゾンビは復活する。
共産主義は「グローバリズム」と名前を変え、二段構えで国家破壊を狙っている。日本で言えば、皇室伝統廃止を狙う共産主義者等が、当面『女性天皇』、つぎに女系天皇論を推進する長期策謀に似ている。

中国共産党のプロパガンダ機関として、中国のスパイの巣窟と認定された「孔子学院」はトランプ政権の下で、査察が行われ、米国教育省の予算管理下にあるところは徐々に廃校となった。

米国アカデミズム世界は、決断のあるリーダーが出れば劇的改編が可能だ。
日本は左翼学者の巣窟「日本学術会議」への予算を止めれば、売国奴的学者の一斉追放が可能だが、岸田じゃねぇ。
日本の十五の大學にある孔子学院は廃絶の議論さえなく、やりたい放題の中国共産党の第五列として機能し続けている。

 「米国学者アッソシエーション」が照査した、228ページの報告書に拠れば、全米108の大學にあった『孔子学院』のうち、104校が廃止された。
ところが28校でゾンビは復活していた事実が判明した。

「米中姉妹校交換プログラム」「言語研究センター」が等と組織名を改称していたことを保守系メディアの『ワシントン・タイムズ』の花形記者ビル・ガーツがすっぱ抜いた(同紙、22年6月21日)。



「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)6月23日(木曜日)
         通巻第7378号  より

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 古くはマタ・ハリなどの女スパイ、日本ではゾルゲ事件、小説、漫画に登場するジェームス・ボンドや、最近のコードネーム「黄昏」等、「世界の平和のために」大活躍(実際は暗躍)する人物はいくらでもいる。
 ただ、本来スパイというものは、「普通の生活をしながら諜報活動をする者」であって、決して格闘術や暗殺術、変装術に長けていたり特殊な能力を持っていたりというスパイ×ファミリーの「黄昏(誰そ彼)」のような人物ではない。
 早い話が、バーゲンセールですごい勢いでセール品をつかみ取っていく普通(?)の主婦にしか見えないのがスパイであり、本当の諜報活動の中心事項とも言える。セール会場ではなく、場所を替えてみれば分かる。
 新兵器や新技術の展示会場で、周囲の迷惑も考えず、安物のカメラで写真を撮りまくってい中年女性は異様には見えるけれど、誰も彼女をスパイだとは思わない。

 「孔子学院」というのはまさにそれで、語学習得のために来ている学生全てに洗脳教育を施しているわけではない。逆に単に学生から情報を収集する場、と考えた方が良いだろう。あとは金さえ使えば何とでもなる。
 勿論、教える側は楽をして情報が入手できるので安全だし、何しろ所在する大学から、「協力機関だから」と援助金だって入って来る。もう笑いが止まらないんじゃないかな。
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遼寧 山東 福建

2022年06月24日 | 日々の暮らし
 中国海軍、三隻目の空母「福建」が進水式
  電磁式カタパルト、運用は米軍でも難しいとされるのだが。。。。
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 「江蘇」と命名される予定だった。突然「福建」となった中国の第三号空母。
 そういえば二隻目の空母は「毛沢東」の筈だったのに、突然「山東」になった。遼寧、山東、そして三隻目が福建なら、たぶん次(もし、次があるとすれば)の空母は「江蘇」だろう。北から海軍基地のある地名をつけていく方針らしい。米軍の空母命名が歴代大統領か将軍(海軍提督)であるように。

 6月17日、上海の造船所で空母「福建」の進水式がおこなわれた。
 晴れ舞台というのに習近平の隣席はなく軍事委員会副主任の許基亮が祝辞を述べた。中国メディアの扱いも派手派手しさがなかった。

 「福建」は8万トン、電磁式カタパルトで原子力駆動と言われる。だが、艦載機の機種、搭載可能員数などは不明。しかし米海軍とて電磁式カタパルト空母は運用に苦労している様子で、大量の電力が必要である。

 通常、空母打撃群は早期警戒機が空を警戒し、海中には潜水艦がもぐり、駆逐艦、フリゲート艦、巡洋艦、補給船が空母のあとさきに随航する。
 米国は空母十一隻体制、ロシアは旧ソ連時代に九隻の空母を就航させたが、いずれも役に立たずお払い箱。最後の一隻はウクライナに置き去りにしていた。その鉄の塊をカジノホテルにするなどと嘯いてウクライナから購入し、遼寧省大連まで運んで電気、信号系統などの艤装工事に十年をかけて、やっとこさデビューしたのが遼寧だった。
 発着艦訓練で死亡事故が多発し、航行も五日が限界とされるが、公海にでて、訓練を繰り返してきた。


「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)6月19日(日曜日)
         通巻第7372号  より

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 空母ワリャーグは昔のスキージャンプ型で、カタパルト(射出機)がないから、推進力が強大で軽量な機体の戦闘機しか発着できないんだ、とは聞いていた。
 だからミサイル等の兵器を積載すると、重くて飛び上がれない。それに何しろ古い。加えて、セウォル号じゃないけど、相当無理な改造が施されている。
 つまり初めから実用に耐えない船だったらしく、要はそれを完全コピーして新しく空母を作るための原寸大の模型、ということか(にしては高額だけど)。
 
 で、それを基にそっくりな空母が作られた。それが「山東」。中国新幹線「和諧号」みたいなものかもしれない。
 「福建」は違う。蒸気式を飛び越えて一気に電磁式カタパルトが三基らしい。いきなりの世界一、ということになる。

 物知らずの当方にとっては不安ばかりが大きくなる。
 「攻めてくるわけないだろ」と一笑に付されるんだろうけど、「元々、日本は我が国の属国だ」と、「虐待から在日中国人を護る軍事作戦を行う。決して『侵攻』ではない」と言い出さないとも限らない。
 現に、それをやってる国があるし。
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一人なら龍だが

2022年06月23日 | 重箱の隅
「一人なら龍ほどの力を持つ」?・・・・。なるほど一理ある

             2020年03月10日 | 重箱の隅

 前回、「もう用はない。必要なことは全て手に入れた」という姿勢では、劣化版からのコピーが出発点ということだから、量質転化があっても本物を超えることはできない」というようなことを書いた。そこに「恩(教えた者に対する肯定的な見方)」がないのだから、そうなるしかない、と。
 
 彼らの唯物(ただもの)的思考(ただの物としてのみ捉えること)の結果、作り続けられることになる劣化コピーは、何も「物」だけではない。
 形に現れない「モノ」にも、それは起こる。心持、意欲、意識、気概などと言われるものも、取り組み方次第で量質転化は起こるものだし、見えないからこそその量質転化には雲泥の差があるだろう。けど、見えないものだから、最初にそれを切り捨てて学ばなければ、ついに分かることはない。
 
 「今は存在しない新しいもの」、を作り出すのは人間だけだ。そのために手足に指令を出すのは頭(=精神)だ。頭が向上しなければ更なる新しいものは作れないということだ。
 頭を育てることなくして、技術のみでコピーを繰り返す。
 教えられたことがうまくいかなくて「いい加減なこと教えやがって」と舌打ちしながら工夫を重ねるのと、「なぜうまくいかないのだろう。あんなに容易くやって見せてくれたんだけど」と苦しみながら工夫を重ねるのとでは、同じ結果は生まれない。

 たとえて言えば、「教えてみろ。習ってやるから」という傲慢な気持ち。例えば「習うのはいいけど、教授料が高過ぎる。隙を見て機密事項を盗んでやろう」という姑息な心積もり。そういう姿勢から手に入れるものと、謙虚に習おうと自らに言い聞かせ続けるのとでは到達点が全く違う。手に入れた技術自体も違うけれど、それを今後用い続けようという時の心がけに雲泥の差ができることは想像に難くない。
 
 ・・・ということで、すっかり遅くなってしまった「中国人は一人なら龍だが~」のことなんですが。

 「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
 「日本人は1人なら虫けらだが、3人集まると龍ほどの力を持つ」
             http://news.searchina.net/id/1626190?page=1

 今回のこれまでの日記に書いたことを下敷きにすると、彼の国の人は「恩」を感じて、或いは習う際、教授方を肯定視して、「学びてこれを習う」ならぬ「信じてこれを倣う」という態度が、少なくとも社会主義国家建設以降は、教育されていないらしいことが看て取れます。
 そうなると彼らの話に引用される故事や慣用句、常識とされている語句等も、意外にいい加減にしか把握されていないのではないか、という疑念が起こってきます。それ以前に、「社会主義国」、なわけですから、「中国四千年の歴史」なんて、そのうちの三千九百三十年ほどの国の在り方は否定するわけですからね。
 だから社会主義革命を起こしたわけでしょう?それとも「批判的に接取した」のだからいい、のかな?だから墓まで暴いて否定した筈の学者の名前を冠した「孔子学院」なんてのを世界中に作ることができるということかな?

 そんな彼の国の、世界に誇る存在である「龍」、です。本意を考えたことがあるのでしょうか。ただ何となく使っているだけではないのでしょうか。
 もしかしたら日本人のほうが、よっぽど龍について大事に思っていて、考え、敬して「かくありたい」などと思っているんじゃないか、なんてことを思うんだけど、どうでしょうね。

 「龍」とは何か。勿論、架空の存在です。ただし、怪し気な魔物、ということではなく最高の霊的存在であるとされています。日本では神そのものとして祀られることもあります。那智大社の大滝は飛龍(ひろう)神社というのだそうですが、いうまでもなく「瀧」の文字の通り、「龍」の姿をそこに感じた古人が祀ったことが始まりでしょう。
 雲を呼び雷を起こし、天空を自由自在に駆け回る圧倒的な力を持つ存在。「龍虎」と並び称されることが多いけれども、地上の虎と天空の龍は明らかに扱いが違います。ついでに、黄龍は皇帝の象徴でしたっけ?

 そんな想像を絶する力を持つものが「龍」。
 そうなると「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが~」?えっ?意味分からん。どこが龍だ?どこが龍に重なるんだ???
 しばらく考えました。そしてやっと見つけました。確かにありました、「龍」に重なるところが。
 「天空を自由自在に駆け回る」のが龍、です。この中の「自由自在」が彼らと見事に重なる。「中国人は1人なら龍の如く【自由自在に】駆け回る」。
 自由自在。自らの思った通り、欲望のままにやりたい放題の行動をする。「傍らに人無きが若し」。「傍若無人」、です。
 一人なら周囲が眉を顰める。二人目は自身が眉をひそめながら、でも自分も周囲に嫌な思いをさせていることに気が付かない。
 これが三人集まれば。みんな「自由自在」だから、協力とか団結なんて思いもしない。とにかく「自分の自由自在」の邪魔をするものはみんな敵だ、とばかりに叩き始める。元が「龍の自由自在」ならぬ、「小人の傍若無人」でしかないから、龍の力は持ってない。

 「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
 「一人なら(実力もないのに)龍だ(と思い込んでいる)」けど、(ただの傍若無人でしかないから、)「三人集まったら(力を合わせるどころかお互いを叩き合う)虫けらだ」
 本当はこういう意味のように思うんですけどね。さて、どうでしょう。


 日本人に関しては言わずもがな、なんで省略します。
 ただ、戦後教育を受けた我々には、ちょっと褒め過ぎかも、という気がしないでもない。

  2017.01/12 

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社会主義国は弁証法までも否定するのか?

2022年06月22日 | 重箱の隅
 「量質転化を忘れてるじゃないか・・・。いや、そこまでも至ってないか」
           2017.01/06 (Fri)

 切っ掛けはchina問題。
 ちょっとしたこぼれ話を目にして、今回も色々と考えさせられました。
 けど、さらっと書きゃ、ただの皮肉だけの文章になる。下手すりゃ愚痴って終わり、となるだろう。そんなもの書いたって神経体力を消耗するばかりで、共感する人はあっても先へは進めない。食事の時間まで狂うから、体力だって消耗する。
 隣国のわがまま勝手に付き合って、こっちが疲れ果てるなんて、まっぴらごめんだ。それだけじゃない。共感する人よりも、「シナ」と書いたのを見ただけで、「あ、この人、ネトウヨなんだ!偏った考え方してるだろうから、読むのやめとこ」、となる人の方が多い。
 シナ=差別用語、と学校で習ってるんだから、「ネトウヨ」「偏った考え」となるのは当たり前。

 ・・・・なんてことをグダグダ書いてたら、また脱線してしまいますから。
 本題に入りましょう。

 一つは、こんなことです。これからの対日姿勢について。
 「長い間、中国が日本を必要とする時代が続いた。しかし、今や日本が中国を必要とする時代に変わったのだ。これからは中国が主導権を取るのだから、今後は日本も含め、在中外国人に点数をつけて、必要な人材を選択することにしよう」「今後の中国の発展に役立つ若い優秀な人材だけ入国させる。年寄りや高学歴でない者は要らない」。
 こういう観点から、彼らは日本に対する採点基準表をつくった。

 「恩をあだで返」そうというわけではありません。しかし、それよりもっとひどい。「恩を受けた」、という発想、感謝の念、自体が、ない。「好きの反対は嫌い、ではなく無関心」というやつです。「嫌よ嫌よも 好きのうち」なんて言葉もありますからね。
 社会主義体制以外は全否定なわけですから、外側からの「恩」、なんて有り得ないし、外側に感謝するなんて無意味。否定すべき存在に感謝なんかしたら、否定したことにならない。
 で、下の引用文がchinaの本音、と言ったところでしょう。

《「1972年に中日が国交正常化して以降、長い間、両国関係は、中国が日本を必要とする時代が続いた。そのため両国関係の主導権は、常に日本側にあった。
 ところがいまや、中日関係は、日本が中国を必要とする時代に変わったのだ。たしかに日本企業が持っている最先端技術は、いまも変わらず貴重だが、それらのほとんどは欧米企業とのビジネスで代替可能だ。
 われわれがいま、日本からどうしても欲しいのは、高齢化社会に関する知見くらいのものだ。逆に日本企業にとって、14億人の中国市場は死活問題だろう。
 それなのに、日本人はいまだに、1980年代のような発想で両国関係を考えている。来年4月からの外国人の3分類も、今後は中国が主導権を取って、来てほしい外国人にのみ来てもらうということだ。われわれはもはや、パンダではなく竜になったのだ」  「週刊現代」2016年12月24日号より 》

 天安門事件で世界中の国から総スカンを食わされて、すっかり孤立してしまっていたchinaに、珍しく日本は世界の空気を読まずに援助の手を差し伸べた。
 同じ社会主義国ながら、ソ連とは疾うに袂を分かっていた。その時はいきなりソ連の技術者が全て引き上げてしまって、随分長い間、地面に這いつくばっていたのが、やっと何とか飢えることはなくなった、これからは民主化の風を受け入れようという気風が生まれ始めた時だった。
 それを「共産党に反旗を翻す重大問題」であるとして、1989年6月4日、学生運動を弾圧、人民解放軍はデモを蹂躙し、学生を戦車で引き潰した。
 まるでマンガみたいに、シャツとズボンが血の海の中に人の形でプレスされて、肝腎の人影は全く見当たらなかった写真を見たことがある。
 しかし、china共産党は「天安門でそんな事件は起こってない」と言い張って、世界が呆れて、総スカン、だったのに。

 日本が手を差し伸べたからこそ、回復のきっかけができた。
 だからと言ってそれに「恩を感じろ。もっと大事に扱え」、なんてことは、日本は口が裂けても言わないのが美徳、と思っている。
 そんな日本人の人の好さに付け込んでこういうことを言うのだろうか。半島国ならそれも有り得るだろう。しかし、chinaは違う(筈)。

 いやいや、社会主義国になる前は、恩を感じる人もいた。「井戸を掘った人のことを忘れない」という金言は、そういう人のいたことを証明している。「愚公、山を移す」だって人の心が確かに見える。
 しかし、社会体制が変わって、それも社会主義一党独裁体制になってしまえば
 「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」
 「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」
 では、本当にそうなのか、というと、当然、この考え方は全くの間違いなのだ。

 けれど、社会体制は違っても戦後の日本、同じような方向に進んでいる、と言ったら果たして肯かれるだろうか。
 70年安保闘争の頃の若者を親に持つ現代の親は、間違いなく、感謝知らず、恩知らず、そして傲慢に生き、次世代の子を育てているのだが・・・・。



 次回は
 「中国人は一人なら龍。日本人は一人なら虫けら」
 、と言われていることについて、です。



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「孔子学院」と「羊頭狗肉」は同義だったのか!

2022年06月21日 | 重箱の隅
 「孔子学院」ってのがどうにも納得できなかった。
 だってそうだろう、やってることは孔子や儒学には全く関係がない。
 それどころかそういうものとは正反対の、「中国文化研究」の体裁をとった世界覇権を目指す機関じゃないのか。
 よくもまあよりによって「孔子」の名前なんか持ってきたもんだ。

 ところで、この「孔子学院」という名前の付け方、何かどこかで聞いたようなやり方だよな、「看板に偽りあり」?いや、もっとなんかうまい言い方が・・・・。あ!そうか「羊頭狗肉」だ。
 と思っていたんだけど、どうもそういうことじゃないみたいだ。

 大昔のシナ人や、今に至るまでの日本人には「羊頭狗肉」は「看板に偽りあり」、と同義語だけど、少なくとも三国時代以降はそうではないらしい。
 「羊頭狗肉。羊の頭は掲げているだけで、何も羊の肉を売ってるとは言ってない。羊の頭は肉屋の印だ」。つまり、絵看板ということだ。
羊肉と特定しているわけじゃない。だから値段が安けりゃ犬の肉に決まってる。却って嘘がない!(?)

 十年余り前に日記を書き始めた。そのきっかけは「中韓を知り過ぎた男」というブログだった。
 【シナの路上の屋台で食事をすることがある、と言ったら、多くの日本人駐在員は衛生面で抵抗があるから自分はしないと答える。私に言わせると「彼らは根っこのところでシナ人を信用している」ということになる。 
 言い方を換えれば、まだ日本人のものさしでシナ人を見ているのである。店がきれいなレストランなら厨房も清潔だと信用するのか?】

 屋台なら目の前で材料も調理も自分の目で見ることができるのに、
 「店がきれいなレストランなら厨房も清潔だ(ろう)」
 、と全く疑うこともせず入店する。
 これ、
 「羊頭を掲げているんなら羊肉を売っているんだろう」
 、と同じ。人の好過ぎる価値基準。いかにも日本人。
 しかし、シナ人に別に悪意があるわけではない、としたら・・・・?

 冷静に考えたら、共産主義の国が儒学を奨励する、と考える方がおかしい。
 逆に(儒学の祖云々は別にして)孔子なら、世界中の人々が知っている。このアイドル性を利用しない手はない。
 「孔子」の名は客寄せパンダ以上の実力を発揮する!
 ・・・・だよね。まずは「見た目」。第一印象が良くなけりゃ。

 だから、見た目に胡麻化されないよう、まずは「足元を見る」(正しい対応のための大原則)。これが世界の常識。
 対して日本は「見た目だけで人を判断するな。要は中身だ(足元を見てはいけない)」。これは世界の非常識。(森羅万象に神を見出し、全ての人に仏性がある、と教えられてきた日本では常識だけど。)
 世界のレベルから見るに、日本の考える理想の社会実現は限りなく遠いと言わざるを得ない。

 「虚構国家中国の真実」(宮崎正弘 宮脇淳子)という対談本から転載します。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 宮崎 
 学問の神様は孔子様なんだけれど、やっぱり全国に孔子廟がありますね。ところが誰もお参りに来ない。
 でね、受験生なんだかが困ったときの神頼みで、中国でも合格祈願をしに来るのはだいたい孔子廟なんです。
 宮脇
 岡田英弘によると、それは科挙の試験問題が、全部「四書五経」から出たからです。
 科挙を受けるために「四書五経」を読む人だけが、「読書人」で、彼らは孔子に弟子入りすることになるわけです。
 それで、科挙受験者が孔子を祀った。
 孔子廟に行くのは、読書人のエクスクルーシブ・クラブ(排他的特権集団)の人たちです。
 だから科挙がなくなったので孔子廟が廃れた。
 宮崎
 ああ、なるほど。儒教の精神に学ばなくなったのではなくて必要がなくなっただけ。
 北京の孔子廟も、高い入場料をとるようになったら外国人観光客しか来なくなった。
 儒教はなやかなりしときだって、庶民の行儀の悪さはいまとぜんぜん変わらないんだから、「論語」をまともに読んでいたのはやっぱり知識人だけだったんでしょうね。 
 宮脇
 そうなんです。だから「四書五経」を読めないと儒教徒じゃないわけです。そうじゃない人は道教だったり仏教だったりで、儒教とは無関係だった。
 中央の役人になりたい人、その予備軍や地方の小役人、科挙試験の途中までしか受かってないような郷試合格者が孔子廟に行き孔子様を祀っているという、それだけの話なんです。

 (2019年06月20日の日記)
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