CubとSRと

ただの日記

宗教の入り口(宗教は科学の如く)

2022年08月26日 | 日々の暮らし
 科学はその専科(学)に取り組むための①「専門的な知識」と②「論理的思考能力」と、が必要だけど、最初からそれを持っているわけはないのだから、まずはその①②を手に入れなければならない。それらは併行して入手に努めることになるけれど、②の「論理的思考能力」というのは①と同様に、「論理的思考の定型を覚える」と同時に、使う練習もしなければならない。
 つまり、ひたすら、示された①「専門的な知識」と、②の「論理的思考の定型の暗記」②´「論理的思考の定型の練習・試用」をしなければならない。
 というわけで、宗教よりよっぽど「ひたすら修行・信仰」の生活を送らねばならない。
 それで、「科学は宗教の如く(に、始まる)」、と。 

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 で、やっと、「宗教は科学の如く(に、始まる)」、です。
 これは以前にも書きましたが、「宗教」というのは、文字の意味を読む通り、「宗(もと)の教え」です。科学が「物事の本質を、論理的思考で以って解明していこうとする」のに対して、宗教は「初めから考え方を提示」します。
 その考え方で、全てを解明、というより、「整理する」。
 「何故?」という問いかけをし、それを論理的思考を用いて解いていくことを繰り返すのが、科学の在り方ですが、宗教は初めに答えを出してあり、「考え方」は必ずその答えに到達するための手段とされます。「考え方」というより、「感じ方」という方が、より近いのかもしれません。

 もう一度、繰り返します。
 科学は一つ一つの「問いかけ、解明」の繰り返しの果てに世界(森羅万象)の本質を捉えようとするのですが、宗教は、逆です。
 宗教ではまず、「世界の本質はこうである」といきなり、示される。そして、そこから現在の個々人の捉えているのはここまで、と明らかにしてくれる。
 到達すべきところははっきりしていて、今、自分はどこにいるか、も、事細かに、教えてくれるわけです。これは安心できるでしょう。何をすれば良いか、初めから分かっている。(答えのわかっている問題集に取り組む、みたいなもんです。ご丁寧なことに解答に到達する過程のヒントまでいくつも提示してくれる)
 「あなたは、今、こういう悩みを持って苦しんでいる。悩みのない、幸福な世界に行くには、こうすればいい」
 、と、まあ、こう言って、具体的な取り組み方法を教えてくれる。
 科学が、「世界」を知りたい、と努力して、懸命に目を凝らして霧の彼方を見ようとするのに、宗教はいきなり、「こうですよ」、と教えてくれる。

 でも、冷静になってみれば、実はまだ問題は解決してないわけです。霧の彼方が本当に見えたわけではない。言い聞かされただけです。
 けれども、その具体的な、提示された取り組みを実行すれば、解決する、と断言される。そこに疑いの入り込む余地はない。ひたすら信じ、行ずれば、必ず悩みのない世界に行ける。解決しないのは、まだ疑念があるからだ。そう教えます。

 聖書に「神は押し退けつつ抱きしめる」、という言葉があるそうです。
 (先述の【宗教は「初めから考え方を提示」します。その考え方で、~解明、というより、「整理する」。】がそれです)
 宗教の真相を、実に見事に、しかも簡潔にあらわした言葉です。

 一見矛盾する内容を持つこの文を見れば、宗教とは「宗の教え」というのが納得できるのではないでしょうか。
 「押し退ける」、のは、個々人の中にある、整理されていない色々な物事や、その捉え方、です。
 「抱きしめる」のは、その宗教の説く「本当の世界」の通りに、これまで整理されずにあった、色々な物事、捉え方、を整理し直す、ということです。
 これまで自分なりに悩み、考えてつくってきた「世界」観を、全て、(この場合はキリスト教の世界観によって)つくり直す、ということです。
 別な言い方をすれば、これまでの考え方や感じ方を、全て「宗の教え」の通りに変更しなさい、ということです。その、変更のための努力を「信仰・修行」、とします。

 科学は、最初からその論理を理解する能力を持っている者はいないので、考えるための能力(論理能力)を、まずは、つくらなければならないけれど、ないところにつくるのです、ということは、とにかく、まずは、定型のものをひたすら覚えるしかない。だから、初めは大変です。
 けれど、宗教は全く逆です。提示された「本当の世界」は分かりやすい。到達点が分かっている上に、道程までも明らかにしてくれる。
 方法も簡単です。その気になれば、誰でも取り組めるものです。名号を唱える、或いは、題目を唱える。

 答えは分かっている。方法も提示されていて、言われるままに実行さえすれば、到達は容易だ、と確信が持てるから取っ掛かりやすい。
 答えが分かっていて、道程がはっきりしている。つまり「筋道」が見えている。問題は、既に解けている。
 疑う余地の全くないこの形は「科学的態度と、その結果」そのものに見える。
 つまり、宗教は科学の如く(に始まる)。
 取っ掛かり、宗教は科学然とした顔をしている。筋道がはっきりしていて、(論理能力を手に入れずとも)誰にだって理解できる。一見、様々な問題を快刀乱麻を断つが如き勢いで鮮やかに解いていく。

 皮肉なものです。「科学」という、実に合理的な道具を自在に使いこなすためには、最初、まるで、信仰をしているかと思うくらいの忍従の時期が必要です。「道具が人を選ぶ」というのと同じ。
 逆に、「易しい科学」的な説明で、宗教は簡単に「わかった」気にさせる。

 科学と宗教の入口について、堂々巡りをしてきました。
 論理的思考で以って取り組むのが当たり前の科学は、その論理的思考を手に入れるまでは、とにかく、ひたすら、信仰者のような姿勢が求められる。
 いきなり答え(真理)を提示してみせる宗教は、その答えの、あまりの次元の高さを、初心者に実感させることができず(当たり前、ですね)、ごく初歩的な論理で以って現実の解明をしてみせ、理屈で納得させる。
 「今、現在の整理ができた。それをしてくれた宗教は真理も説いてくれている。筋道が通っている。」そう、思わせます。

 「科学は信用できる。客観視できるから。それに較べ、どうも宗教は胡散臭い。」
 そう思っている人が、何故、宗教、それもカルトと言われるそれにはしるのか。また、オウム真理教のように、東大等の、優秀、と言われる大学の学生や卒業生が多いのは何故か。

 「科学は宗教の如く、宗教は科学の如く」
 私の実力不足でこれより易しく書くことはできません。
 けれど、負け惜しみではありませんが、このことを
 「誰にでもわかるように、易しく説く」ことは、
あまり意味がない、どころか、論理能力を身につける上で、大きな障害にしかならないことを、書き足して、この稿を終わります。



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科学の入り口 

2022年08月25日 | 日々の暮らし
 2年半ほど前に「『科学は宗教の如く』、『宗教は科学の如く』」と題した日記を転載しました。元々はその時よりもさらに十年ほど前に書いた日記です。
 (何たる手抜き!)
 そして、今回またそれを再掲しようとしている。それも前回は二回分を一まとめにしたので長すぎた。今回は半分ずつ、・・・と。(もっと手抜き!)

 ・・・手抜きみたいですが、これ、当時も能く言われたオウム真理教などの信者のことで「なぜ、あんなに頭のいい人がカルト宗教に・・・」とか「あれだけの高学歴の人が何で?」「宗教になんか全く興味を示さなかったあいつが?」等の不思議がられたことと直接関係があると思うので、やっぱりゆっくり読んでもらった方がいいかな、と。

 ところでいきなり脱線しますが、同じカルト宗教と言っても「オウム真理教」と「統一教会」は随分レベルが違います。方や仏教(?)、もう一方はキリスト教(?)ながら、どちらも教祖は朝鮮人。一方は在日二世、一方は宗教団体のリーダーの姿をした政治活動家。けれど心境のレベルが違う。オウム真理教の方が全く上です。何故って、「空中浮遊」をするのですよ?事実(奇蹟)を見せつけて一瞬で信者を虜にする方が上に決まってるでしょう?

 新しい宗教活動には必ず「法難」が訪れます。法難が訪れなかったとしたら、それは「本質が宗教活動ではなかったから」、です。
 「宗の教え」を貫くには全てを否定しなければなりません。全てを否定しようというのは現実社会を否定するということですから、「法難」という形で現実社会から反撃され、一旦は敗退しなければなりません。「魔法のリノベ」を目指したって駄目です。現実社会を安心させ、「少しなら受け入れてやっても」、という余裕を持たせてからが、布教の始まりです。


 さて、「何故あんなに頭のいい人が・・・」等の不思議の、理由の大半だと思われるのが「宗教とは何か」「科学とは何か」をじっくりと考えることがないままに大人になる日本人が大半であるというところにあります。
 「一度考えてみようか」と中高辺りで提案でもされていれば、少しは変わったのでしょうが。

 では、今回は「科学は宗教の如く」だけ、再掲します。

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 2010.09/20 (Mon)
 偶然見つけた一冊の本を読むうち、それが論文の態を成していないのに、相当に高度な論文で、気付かず、小説のように引き込まれ、にも拘らず推理小説の正反対で、読み進むうちにどんどん分からなくなる、という体験をしたことがあります。
 徹底的に打ちのめされた。
 読み終わりはしたものの、読了感が全くなく、二十歳前にして初めて、その後三十数年にわたって、折に触れて読み直すことになった本との出会い、と成りました。ああ、ややこしい。

 簡単に書きます。
 二十歳前、偶然手に取った一冊の、それも、新書のことです。
 随分くだけた文の調子で、とても読みやすい。調子に乗ってしばらく立ち読みし、ざっと最後まで目を通して、ちゃんと読もう、と買って帰った。
 早速「ベッドに寝転がって」読み始めた。


 ところが、読んでいくうちに「?」が点りだす。最初のうちは、「?」を無視して読んでいるんですが、段々に「?」の点灯の間隔が短くなる。三分の二を過ぎた辺りになると、点滅状態。そして、終わりの頃は点きっぱなし。つまり、全く分からない。
 あとで分かったのですが、これが「論理的思考」との最初の出会いでした。
 そして、これが弁証法との出会いでもあったのです。
 
 まあ、そんなことは、今はこの程度の話で良いでしょう。
 ここでは、「科学は宗教の如く」について、です。

 「科学」は、「論理的思考を用いて行う学問の形」、です。
 「科」、つまり、あらゆることを分類して、その、分類された一つのことを「学」として成立させ、解明に取り組む。そして、最終的に、そこから学問全体の説明をできるまでに、なる。科学は、哲学と同じく、本質の解明を「めざす」学問なのですから。
 (蛇足ですが、科学の成立により、哲学は科学の一分野としての位置づけしかできない学問になってしまい、存在そのものが危うくなってしまいました。それで、一時期、「(科学の出現により、)哲学は死んだ」とのセンセーショナルな表現が流行しました。)

 科学で用いるのは論理的思考ですから、まず、「論理」ということについて、納得(得心)しなければなりません。
 でも、最初っから、というのは無理、です。それまでに、論理なんて持ってない、「自分の現在の能力の範囲内でしか理解できない」のですから、なかったものを納得、なんてできません。


 それでは、初めに、何をするか。
 「論理的思考を以って、特定した分野の本質の解明をめざす」のですから、まずは、二つ、しなければならない。
 一つ目は、「特定した分野」、なのですから、その分野について、知らなければならない。単純に言えば、知識の収集、です。
 その中で、当然「専門用語」を、学び、覚えなければならない。これは、みなさん御存知のことです。専門家を目指すのです。よく知っていて「業界用語」も駆使できるようになること。当然ですよね。

 二つ目。問題は、こちらです。
 いくら専門用語を覚えて、その科「学」に取り組もうとしたって、知識を並べ立てるだけでは、「本質の解明」に近付くことはできない。
 知識を並べ立てるのでなく、知識を用いて、その「科学の仕組み」を明らかにする。そのために論理的思考を駆使することができるようになるのが、科「学者」なのですから、二つ目、というのは当然、論理的思考能力を手に入れる、ということになります。
 けれど、この、「論理的思考能力を手に入れる」ったって一体、どうやればいいのか。第一、「論理」ということ自体、分かっているようで、分からない。単純に「論理能力」と言っていますが、「論理的思考能力」、というのは、何かを真剣に考えれば、自然と手に入る、身につく、といったものではありません。
 仮に、身についたとしても、それが有効である、とは限らない。
 「外れることのない物の考え方に限る論理」、を手に入れる。法則、公式は、論理の一つの形です。

 「そんなもの、知識として覚えているじゃないか」、と思われるでしょう。
 そうなんです。一つ目のところで、「知識」として覚えている。けれど、だから、「知識のまま」、なんです。
 論理的思考能力を手に入れるには、その、「知識としての法則、公式」を、どのようにして組み上げて(本質に接近する何らかの)結論が出されたか、を見詰め、その行程を、まずは丸暗記することです。
 たとえば、一つ目は英単語を覚えることであり、二つ目は、それを用いた例文を覚えること、と言えるでしょうか。
 単語を覚えたら、適当に並べるうちに、会話はできるようになるでしょう?
 しかし、それは片言の英会話、在日十年、日本語ペラペラ、という外国人のレベルどまりです。
 二つ目の「例文を覚えること」を徹底すれば、場合によっては(発音は別にして)日本人以上に、見事な日本語を話せます。

 科学として、これを捉えれば、どの分野であろうとも、典型的な論理展開の形を、まずは、「丸暗記する」こと。これが何よりも大事です。
 一つ目と二つ目は、本来、同時に行われるべきものですが、一つ目だけ、取り組む方が、急激な上達を見せます。「そういえば」、と頷かれることはありませんか?だから、それは英会話どまりです。頭打ちになってしまう。

 「科学は宗教の如く」、取っ掛かりは、丸暗記。
 分かろうがわかるまいが、いや、全く分からないことを、とにかく、まるで「信仰する」かのように、全面的に絶対肯定の態度で、その論理展開を覚える、しかない。
 その姿勢(全面、絶対肯定)は、まるで熱心な信仰者の態度です。


 「科学は宗教の如く(に、始まる)」
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 まるで宗教に於ける信者(信仰者)の在り方のようだ、ということで、
 「科学は宗教の如く(に始まる)」ということを、書いてみたのですが、まあ、早い話、一言で言えば、
 「科学的~、というのは、実は、随分と取っ付きにくいもので、とりあえずは、『信じる』しかない」
 、ということです。 

 私もこうやってこねくりまわして、えらそうに書いてはいますが、個々の科学に関して、何か言えるのか、となると、まず、第一の「知識」の時点でお手上げです。もう、手も足も出ない。それが専門というものです。
 けれど、「本質に向う」ということに関して、また、「学問」ということに関しては、誰だって同じ立場をとるべきです。
 とにかく、「科学的であるためには、初めはまず、信じる(信仰する)こと」
、とだけ、言っておきます。

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「鬼の首でも取ったように!」と思ってるんだろうな~。

2022年08月24日 | 日々の暮らし
 国会前での「安倍元総理国葬反対デモ」で、参加者の一人が「国葬止めろ」と書いたつもりが「国葬上めろ」と書いてしまった。

 「きっと急いで書いて間違えてしまったんだろうに。いつまでも鬼の首でも取ったようにしつこく言い間違い(書き間違い)を囃し立てて。ネトウヨはガキか!」って思っている人、多いんだと思う。
 さらに「あんな簡単な字、慌ててなきゃ間違えるはずないじゃない。それを『日本人じゃないんだろ』って言い過ぎだよ!」とか何とか。

 テレビではほとんど見られなかったから知らない人が多いかもしれない。
 逆に「知ってる」という人は、又聞きで「ね、酷いよね。うっかり字も間違えられない」なんて。

 でも、ネット見てると面白いものが見えることがあるんですよね。
 あのプラカード、裏側が映った写真があって、裏側にも驚くじゃありませんか、「国葬上めろ」って・・・・。

 つまり、あれ、慌てて書き間違えたんじゃない。気が付かずに書いている。
 勿論日本人じゃない。曲がりなりにも漢字を使っている大陸の人でもない。
 その先は書きませんけど。

 とにかく「鬼の首でも取ったように!」というのは間違い。
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共産党とカルト宗教

2022年08月24日 | 日々の暮らし
 とても能く似ている・・・ように思う。
 トップである委員長と、トップである教祖。どちらも一度就任すると、まず辞める(やめさせられる)ことはない。
 共産主義社会を実現させるために、或いは心の中に幸福な世界を建設させるために委員長は、教祖は、命を投げ出しているのだから、それ以上の指導者は存在しない。・・・・と考える。
 
 何しろ、どちらも現在は「まだ、ない」のだ。
 それを造るために委員長は、教祖は身命を賭して我々(構成分子、信者)のために日夜働いている。文句の言えよう筈がない。かくして志位委員長は・・・・。


 基本はこの辺りだが、それに加えて、信者に原罪意識を持たせる場合もある。
「日本は我々の地を植民地にした。その原罪を考えれば献金は我々の倍以上はして当然である」というのが統一教会らしい。たっての希望で併合したにもかかわらず「植民地化された」と捏造、それによって「原罪がある」と誤認させる。キリスト教の「原罪」を太平天国の神札以上に曲解する。

 でも、これは決して特殊な例ではない。宗の教えが低次ならば旧来のものであろうと新興のものであろうと似たり寄ったりの愚劣なものになる。

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2016.02/28 (Sun)

 前回の、共産党に関する文の転載で思ったことなんですが。
 日本共産党、シナ共産党の文章に何だか共通するようなものがあるような気がする・・・・。

 ・・・・なんてことを書くと「そりゃ、共産党だもの」と言われて、はい、終わり、となりそうなんですが。
 ロシアの共産党はロシア語で書く。日本共産党は日本語、シナ共産党はシナ語。共産党の考えを書いたり喋ったりするのに自国語を使うのは当たり前。ましてや漢字を使う国なんだから、日本とシナ、共通するものがあって当たり前・・・?
 いやいや、全く同じってことはないでしょう。
 日本で「自動車」はシナでは「汽車」、「蒸気機関車」は「火車」、「路線バス」は「公共汽車」。なるほど、車はエンジン内の爆発的燃焼で走るんだから「汽」の字を使うんだし、「蒸気機関車」は「火」を焚いて走るから「火車」。正しい。日本なんかより、よっぽど筋が通ってる。 


 「けど、この共産党の使っている言葉は何だ!日本語と全く同じじゃないか!」
 ・・・・なんてことを言うまでもなく、これは「日本がマネした」んじゃなくって、あちらがそのまま訳語を用いただけです。パクった、という言い方はしませんよ、優れたものを認め、学ぶのは当然の事ですから。日本だって語彙の半分は漢語なんですからね。和語は4割弱。後は外来語。

 シナは西欧の概念や学術用語は全て日本が訳したものを使うしかなかった。自分らで訳語をつくる時間的な余裕なんて全くなかったし、勿論、そのための基礎的な知識もなかったから、これはしょうがない。少なくとも、この件に関しては「自分の力だ。自分で翻訳したんだ」、なんて大嘘を言って顰蹙を買うようなことはしていない。
 「人民」、「共和国」、「民主主義」、「共産主義思想」、「労働」etc・・・。日本で作られた翻訳語を用いて共産主義思想を説こうとすれば、両国の共産党の文章が何となく似てたって、それはしょうがない。


 ・・・・そうか、そういうことか。全く、と言っていいほど同じ語句を使っているんだから似ているのは当たり前ですよね、考えてみれば。
 でも、まだ引っ掛かる。まだ似通っているものがある。それももっと重要なことで。
 そうです、文調、語調です、テレビでよく見るシナ共産党の報道官の物言いです。あの男女の報道官の語調と、日本共産党のこの文調が基本的にそっくりなんです。
(だから、共産党なんだから、当たり前だろ!?)
 で、「何故『共産党だから当たり前』、なんだろう?」、と思ったわけです。
 共産党はどこの国でもあんな「激烈」な物言いをするのだろうか。

 余談ですが前回掲げた日本共産党の文章、或いは野坂参三氏の文章と、これまでに目にしてきたシナ共産党の文章、現在の報道官の文章等を見るとシナの方が明らかに荒々しく、ぎすぎすしています。厚み、深みはない上に虚仮脅しと言いたくなるくらい、(流石に漢字の国だからか)語句の選択は大仰だけれど、芯が感じられない。
 対する日本共産党の方は国民に説明しようという姿勢が見える分、荒々しさや威丈高に徹することができずにいる(ここまで余談です)。

 さて、荒々しさとか深み、は置いといて。
 「共産党だから似ている」ということの理由はこういうことじゃないか。
 共産党の文には共産党の「考え方」が示されているわけで、「共産党の考え方」自体は全く同じである筈です。それも実に分かり易い、言ってみれば「考え方」とも言えないくらい初歩的で単純な、公式のようなものでしかないんじゃないか。だから同じようになるしかないのではないか。

 マルクス主義では、今ある社会は「少数の搾取する側」と「大多数の搾取される側」とで成り立っていると考えます。
 だから、「大多数の搾取される側」が、「少数の搾取する側」を打倒することによって社会を破壊し、新しい社会をつくらねばならない。そして、「打倒する側から生まれた指導者」が新しい社会をつくる指導、運営するための指導をし続けなければならない。
 近代弁証法の「対立物の相対的独立」という法則を「批判的に」学び、「対立」の形を「憎しみの面(打倒すべきもの)」だけ、拡大して捉えた結果、対立する相手(=少数の搾取する側)は叩き潰すのみ、とした。
 本来なら対立物は相互に浸透して然るべきところを、相互に浸透することを拒否し、抹殺しようとする。対立物=悪、とした。

 ということになると、口を極めて罵倒し、全力で叩き潰そうとするのが正しい、ということになります。今ある社会を否定せねばならないのに、対立物として存在する「少数の搾取する側」はそれを邪魔する。
 そんな全否定するしかない相手とは、議論なんか成立しない。一方的に否定するしかない。

 そう思ってもう一度あの文章を見ると、長い文章ではあっても相手の立場を思いやって、
 「~と思っているのかもしれないが」というような部分は一切なく、
 「~は ~だから、打倒しなければならない」という定型の形になっていて、「~だから」の部分はただの修飾に過ぎない、なくてもいいようなものである、ということが見えてきます。初めに結論ありきというやつで、社会主義革命達成のために、とにかく何でもかんでも「打倒しなければならない」だけなのですから。

 結論は決まってるんだから、論理の展開などしなくても良い、ということですね、つまるところは。
 どうせ打倒すべき相手なんだから、説明したって意味はない。「易しく説き聞かせて理解させなければ」なんて、使命感も義務感もない、相手は「革命の成就を邪魔する存在」でしかないんだから。
 とにかく全否定です。「邪魔する奴は打倒する」のみ。単純明快、論理なんかない。そんな小難しいこと、「大多数の搾取される側」の者が分かる筈もない、だから指導者が常に「指導」する。「指導」し続ける。
 難解な翻訳語を多用するから聞いている方は何だか圧倒されて、でも、論理はなくいつも最後は「打倒!」、と結論は決まっているから分かりやすい(?)。自信に満ちたその物言いに若者は一発で心酔してしまう。

 これ、以前に書いた「『科学は宗教の如く』、『宗教は科学の如く』」と重なりそうです。そうか、共産主義は、やっぱり宗教だったんだ!!
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テレビは教えて(伝えて?)くれない

2022年08月23日 | 日々の暮らし
 ★ウクライナ戦争の現状と大局
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            北野幸伯

 ロシアがウクライナに侵攻して、もうすぐ半年になります。現状はどうなっているのでしょうか。

 ▼戦局

 まず戦局を見てみましょう。
 約半年が経過し、現状ロシア軍は、ルガンスク州、ドネツク州、ザポリージャ州、ヘルソン州を支配しています。ただ、ドネツク州、ザポリージャ州は、州全域を支配できているわけではありません。

 ウクライナ軍は現在、クリミアのすぐ北にあるヘルソン州を奪還しようとしています。そして、最近クリミアで、爆発が相次いでいます。これは、クリミア→ヘルソンの補給を断つためのウクライナ軍の攻撃と見られています。

 プーチンは当初、FSB第5局からの情報を基に、「3日で首都キーウを落とせる」と考えていたそうです。しかし、現実は、かなり厳しいことがわかってきました。

 ▼停戦へのウクライナとロシアの立場

 停戦について、ウクライナとロシアは、現状どのような立場なのでしょうか?ロシア側は、積極的に停戦交渉したいと考えています。ただ条件は、「ロシア軍が占領した土地は、ロシアのもの」。
 つまり、ルガンスク、ドネツク、ザポリージャ、ヘルソンは、ルガンスク、ドネツクのように独立するか、あるいは、ロシア領になる。
 なぜ、こういう話になるのでしょうか?

 ロシア国民は、ウクライナ侵攻前から、ルガンスク人民共和国、ドネツク人民共和国は、「ロシアの属国」であることを理解していました。
 ですから、「ルガンスク、ドネツクの独立を勝ち取った」だけでは、数万人のロシア兵が死んだ意味がわかりません。だから、ザポリージャ、ヘルソンも必要なのです。

 ただ、ロシアがザポリージャ、ヘルソンを編入すると、世界中のロシア擁護派が困ることになります。
 なぜでしょうか?ロシア擁護派は、「プーチンがウクライナに侵攻した理由は、ルガンスク、ドネツクのロシア系住民をジェノサイドから守りたいだけだ。プーチンに領土的野心はない!」などと主張していたからです。
 彼らは、ロシアがザポリージャ、ヘルソンを併合したら、今度はどうやってプーチンを擁護するのでしょうか?

 一方、ウクライナは、停戦交渉を拒否しています。
 なぜでしょうか?
 ゼレンスキーは、大統領として、
・クリミアはロシア領
・ルガンスク、ドネツクは、独立国
・ザポリージャ、ヘルソンはロシア領
 といったロシア側の条件を受け入れることは、決してできません。

 いえ、もしロシア軍が各地で圧勝していて、ウクライナ軍は手も足もでずボロボロであれば、受け入れるかもしれません。
 しかし、ウクライナ軍は、欧米からの軍事支援で、ロシア軍と互角に戦っている。「勝ち目がある。クリミアも取り戻すことができる!」と多くのウクライナ人が考えているので、停戦交渉の必要性を感じないのです。
 ウクライナもロシアも、「勝ち目がある」と考えている。そ れで、ウクライナ戦争は長期化しています。

 ▼欧米の立場

 ウクライナを支援する欧米ですが、大きく二つの陣営にわかれています。すなわち、「プーチンロシアを打倒せよ派!」と「停戦交渉派」です。
 「プーチンロシアを打倒せよ派!」は、アメリカ、イギリ ス、ポーランド、バルト三国などです。アメリカ、イギリスは現在、ウクライナ戦争が原因のインフレで苦しんでいます。
 しかし、「ウクライナが勝つまで支援する」という立場は揺らがないでしょう。イギリスのボリス・ジョンソン首相はまもなく引退しますが、新首相が誰になっても変わらないはずです。

 ポーランドとバルト三国は、なぜ強硬なのでしょうか?
「ロシアがウクライナに勝てば、次はポーランド、バルト三国に攻めてくる」と恐れているからです。そして、その恐れは正当なものでしょう。「停戦交渉派」は、ドイツ、フランス、イタリアです。彼らは、「ウクライナが領土の一部をロシアに譲ってもいいから、早く停戦してほしい」と願っています。

 理由は、エネルギー(特に天然ガス)のロシア依存度が高いからです。2020年時点で、ドイツは58%、イタリアは40%、フランスは20%でした。ユーロ圏のインフレ率は7月、前年同月比で8.9%でした。それでも、バルト三国やポーランドのように、「ウクライナが負ければ次は俺たちだ」という危機感があれば、ロシアに対して強気を維持できるでしょう。

 しかし、ドイツ、フランス、イタリアは、「ウクライナが負けても、ポーランドがある。ポーランドはNATO加盟国。ロシアでも、NATOを敵に回すようなことはしないだろう」と考えている。それで、ドイツ、フランス、イタリアは、ロシアに融和的 なのです。

 ▼中国、インドは?
 中国とインドは、しばしば「ロシアの味方」と報じられますが、「中立」といえるでしょう。中国のロシア産原油輸入は5月、前年比で55%も増加しています。
 インドは、もっとすごいです。インド商工省によるとロシアからの原油輸入は2021年の日量9万バレル(輸入の2%)から、2022年4月には日量39万バレル(同8%)に増加しました。こちらは、4.3倍増です。なぜ、中印はロシア産原油を買うかというと、安いからです。

〈 平時であれば、中国の原油の輸入価格はロシア産もサウジ産も大きな差はない。だがロシアのウクライナ侵攻が始まって以降、両者の価格差は月を追うごとに拡大している。具体的には、中国が6月に輸入したロシア産原油の平均価格は1バレルあたり94.6ドル(約1万2946円)と、サウジ産の同116.6ドル(約1万5957円)より18.8%も安かった。〉
(東洋経済オンライン2022年8月9日)

 一方、中国は、対ロシア輸出を減らしています。
 ロイター7月13日を見てみましょう。<中国の6月の対ロシア輸出は4カ 月連続で減少した。ロシアからの輸入は高い伸びを維持した。中国税関総署が13日発表した統計を基にロイターが算出した。>
 <6月の中国の対ロ輸出(ドル建て)は前年同月比17%減。5月は8・6%減だった。6月のロシアからの輸入は56%増。5月も80% 増加していた。>
 輸入が高い伸びなのは、原油、天然ガスの輸入が増えて いるから。

 では、対ロ輸出は、なぜ減っているのでしょうか?
<国際的な対ロシア制裁が響き、低い伸びにとどまった。>

(同前)そうなのです。
 中国は、欧米からの「二次的制裁」を恐れ、ロシアへの輸出を減らしているのです。要するに中国は、ロシア産原油は安いから買う。でも、二次的制裁のリスクがある製品は、ロシアに輸出しないというのが基本的な立場です。

 中国は、ロシアを助けているのではなく、中国自身をたすけているのでしょう。元モスクワ国際関係大学教授ソロヴェイ氏によると、「プーチンは、習近平が助けてくれないので激怒している」そうです。

 ▼まとめ
 ここまでをまとめてみましょう。

・ロシア軍はルガンスク、ドネツク、ザポリージャ、ヘルソンを支配している(ただし、ドネツク、ザポリージャは州全土を支配しているわけではない。)
・ロシアは、「今支配しているところは、ロシアのもの」という原則で停戦交渉を行いたい。
・一方、ゼレンスキー政権は領土を譲る気が全然なく、「クリミアも奪還してやる!」と決意している。
・当然、ウクライナは、停戦交渉に消極的。
・ウクライナ政府と同じ強硬な立場なのが、アメリカ、イギリス、ポーランド、バルト三国など。
・一方、停戦交渉をすべきと考えているのが、ドイツ、フランス、イタリア。
・中国、インドは、ロシアの味方ではなく中立。
・中国、インドは、ロシア産原油の輸入を増やしているが、それは単に「ロシア産が今安いから」。
・一方、中国は、二次的制裁を恐れ、対ロシア輸出を減らしているとなります。

 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 6237号
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  2022(令和4年)年 8月22日(月)より
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