だが、快い上昇感が、わたしの心を満たしたとき、不意に、わたしは激しい海流にまきこまれた。流れにもまれたわたしは洋子を見失い、狼狽して、そこらじゅうをめちゃくちゃに泳ぎ回った。光と闇が、方向感覚をなくしたわたしのまわりをぐるぐると回った。突然、重い体をもぎ取られるような衝撃を感じたかと思うと、わたしは一匹の巨大なエイの眼光の前に飛び出していた。
(ああ!)
エイは鞭のようなそのヒレで、無情にわたしを突き飛ばした。そしてわたしは、再び、どこか暗い所へと落ちていった。
「……これ」
不意に、声がして、わたしは目をあけた。あの白髪の老人が、眉間に深いしわをよせて、じっとわたしの顔をのぞきこんでいた。
わたしは起き上がって、まわりを見回した。そこはもとの公園だった。
「やれやれ、生きとったか。あんた、頼むからこんな年寄りに死骸の掃除なんぞさせんでくれよ」
老人のやわらかい声が、不意にわたしを現実に引き戻した。わたしは、彼をまじまじと見た。かすかに赤みをおびた東の空から射す光が、修行僧のようにぴんと背を伸ばした老人の姿を照らし出していた。その目は、さっき夢に見たエイの鋭い眼光に似ていた。と、そのとき、ある直感が、激しくわたしを鞭打った。わたしは弾けるように跳び起きると、まるで神に出会ったかのように、老人の前にひれ伏した。そして、泣き出さんばかりに声をはりあげて、言った。
「お願いです。わたしを助けてください!」
老人は、いったい何事かと、驚いた眼でわたしを見た。わたし自身にも、わたしに何が起こったのか、わからなかった。
何度も地面に額をすりつけながら、わたしは、今までの経歴や、現在の自分の惨めな状態や、たくさんの愚かな失敗をすべて吐き出した。そして、夕べ見た、幻のような出来事も、洋子という少女のことも、みんな話した。老人は、わたしを静かに見おろしながら、黙って聞いていた。
「……お願いです。わたしに教えてください。どうしたら、まっとうな人間として生きていけるのか、どうしたら、あの少女につぐないができるのか……。わたしは、そんなことを、今まで知りたいとも思わなかった。それが一番だいじなことだったのに。どうか、今からでも間に合うのなら、わたしを導いてください。どんなことでもやります。ドブさらいでも、ゴミひろいでも! ずうずうしいことだとは、十分にわかっています。でも、今のわたしには、だれも頼れる人がいないのです。お願いです、決して恩をあだで返すようなことはしません。お願いです……」
老人は、厳しい目でわたしをじっと見ていた。眉間に刻まれたしわの間から、無言の審査がわたしにふりかかっているようにわたしは思った。わたしはもう、今の自分のすべてを、老人の前にさらけ出すしかなかった。それしかわたしには残っていなかった。他人からみれば、なんて恥知らずなまねをするんだと、思うことだろう。確かに、わたしは恥知らずだった。見知らぬ他人の助けを請わなければならないほどに、落ちぶれ果てていた。
だが、何かが、わたしの中に、再び活力を呼び戻していた何かが、わたしに言っていた。わたしは、生きなければならないのだ。どんなに苦しくとも、惨めでも、ここで、この世界で、どしても、生きなければならないのだ。
彼はしばらく黙って聞いていたが、やがて、ふうと短いため息をついた。わたしは顔をあげて、おずおずと老人の顔色をうかがった。
老人は、不意に、例の立札に手を伸ばすと、それを無造作にぬきとり、ひざでぽきりと折った。わたしはふと、その立札に文字が何も書いてないことに気づいたが、いまはそんなことはどうでもよい。老人は立札を傍らのゴミ箱にほうり込むと、静かに言った。
「やれやれ、まあいいさ。ついてきなさい」
わたしの目から、熱い涙が、滝のように溢れ出た。
「ありがとう……ありがとうございます……」
地面に顔をつけて大声で泣いているわたしの肩を、老人がぽんとたたいた。
「さ、行こう」
老人の言葉に、わたしは子供のように素直に、しゃくりあげながら立ち上がった。いや、わたしは子供だった。たった今、この世に生まれたばかりの赤ん坊だった。しなければならないことが、たくさんあった。それがどんなことなのか、まだ、まるでわたしにはわかっていなかったが。
前を行く老人の背中を見つめながら、わたしはふらふらとではあったが、しっかりと地面を踏みしめながら歩いていった。やがて、一斉に、小鳥たちがさえずりはじめた。ばら色に染まった東の空から差し延べられた光が、優しくわたしの背中を押した。そしてわたしは、そのとき、わたしにとっての世界のすべてのものが、意味を変えていたことに、まだ気づいていなかった。
(おわり)
(1994年1月ちこり0号所収)