お城の門を出ると、どこからか、生ぬるい風が、おおおーう、と不気味な音をたてて空を渡りました。石畳の広い道には、高いお城の塔の影がすっぽりと降りていて、月夜だというのに前にのばした自分の指先さえ見ることができません。姫様は、たちまち部屋に帰りたくなり、ずるずると後ずさりました。でも、そのときふと、あの美しい王様の顔が目に浮かびました。
(影に、なりさえすれば、きっと、王様はわたしにふりむいてくれるわ。これぐらいで怖じけづいてはだめ。進むのよ、思い切って)
姫様は、おそるおそる、歩き始めました。お城の影から出ると、白い月が、姫様の背中を静かに照らしました。姫様の足元には、闇夜のように黒い影が、姫様をいざなうように、のんのんと石畳の上を走っていました。
「だれだ!」
姫様が、町の広場を通り過ぎようとしたとき、不意に、黒い小さな影が前に立ちはだかりました。あまり突然だったので、姫様は「うああう」と間抜けな悲鳴をあげてしりもちをついてしまいました。
「なんだ、女の子じゃないか」
姫様がおそるおそる顔をあげると、十五歳くらいの、ちょっと太った少年が、立って、姫様のほうに手をのばしていました。
「ほら、つかまりなよ」
姫様がとまどながらもその手につかまると、少年は人形を起こすように、すいと姫様をひっぱりました。そのとき、月光の中に少年の顔がふと浮かび上がりました。まるでお月さまのような丸いふくよかな顔に、小さな目と大きな口がにっこりとやさしく笑っています。その表情が、昔見た絵本の中の小人の顔に似ているので、姫様は思わず吹き出してしまいました。
「…ちぇっ、失礼だなあ。そりゃ、おれはちっともハンサムじゃないけど、そんなに笑うことはないじゃないか」
「ご、ごめんなさい。でも、わたし、さっきまでどんなお化けがでたのかと思ってたんだもの」
「まあ、いいよ。でも、君みたいな子供が、こんな時間に外にでちゃいけないよ。夜の町はぶっそうなんだから」
「まあ、子供ですって。あなただってわたしとそう変わらないじゃない。いったいこんな夜更けに何をしてたの?」
「夜回りさ」
「夜回り? あなたが?」
「そうさ、これでもおれは、探検投げの名手なんだぜ」
言うが早いか、少年の手元から、ひゅっと白い光が走りました。と思うと、次の瞬間には街路樹の幹に、細いナイフが一匹の蛾の翅をつらぬいてつきたっていました。姫様は、一瞬、何事かというふうに目を丸くしてそれを見ていましたが、青白い蛾が苦しそうにぱたぱたもがいているのを見て、はっと我に返りました。
「まあ、なんてことするの。かわいそうじゃないの」
姫様は、ナイフのつかをむんずとつかむと、それをぬきとろうとしました。でも、ナイフは意外に深く突き立っていて、なかなか幹から離れません。
「だめだめ、そんな力任せにしたら」
少年は姫様の手をどけると、つかをそっとにぎり、さやから剣をんうきとるように、するりとナイフを抜きました。すると、風に舞いあがるように、蛾はふわりと浮かび、ひらひらと夜の向こうに消えていきました。
「君、家はどこ? おくってくよ」
やがて少年が、ナイフをしまいながら言いました。姫様はぎくっとして、あわてていいました。
「だ、だめよ」
「女の子一人で夜道を歩けるわけないだろ? 人さらいにでもあったらどうするんだい」
「平気よ、わたしは。それに、知らない男の子に家を知られたくないわ」
姫様は、きっぱりと言いました。自分が王妃で、これから北の森に行くということは、だれにも知られてはならないと、姫様は思いました。
「おれはあやしいものじゃないよ。ダニーっていうのがおれの名前さ。でも、君って不思議な子だね。びくびくしているかと思えば、はっきりものを言うし。ほんと言うと、さっき君が向こうから服をひらひらさせて来た時、もしかしたら妖精じゃないかと思ったんだ」
「妖精?」
姫様は一瞬、耳を疑いました。生まれてからこのかた、そんなことを言われたのは初めてでした。ダニーは、自分のセリフに驚いたのか、頭をかきながら、もじもじとしていました。
姫様は、顔を赤らめているダニーを尻目に、空を見上げました。もう月がだいぶ傾き始めています。今夜のうちに北の森に行かなければならなにのです。ぐずぐずしてると夜が明けてしまいます。
「それじゃ、ありがとう、ダニー。わたし帰るわ」
「あ、待ってよ!」
姫様が走りだそうとしたとき、ひるがえったマントをダニーがむんずとつかみました。
「君、名前はなんていんだい? いや、べつに、知りたいってわけじゃないんだけど…、一応、ぼくは今夜の夜回り役だから、その、つまり…」
姫様は、いらいらしてきました。そこで、ダニー少年の手をはねのけるように、マントを跳ね上げると、「グリシアよ」と無造作に言葉を投げて、逃げるように走りだしました。
「気を付けるんだよ! グリシア!」
背後からダニーの声が聞こえました。
夜の町を走りながら、姫様は、妙に胸がどきどきしているのに気がつきました。それはどうやら、走って行きが切れているからではなさそうです。初めてお様に出会ったときのような、胸のうちをくすぐるような心地よいときめきなのでした。
(そういえば、わたし、男の子に名前を聞かれるのって、初めてだわ…)
瞬間、ほんの瞬間だけ、姫様の胸の中で、王様の面影が消え、ダニーの愛嬌のあるやさしい笑顔が浮かびました。胸がきゅんとしめつけられました。でも、そのときにはもう、北の森はすぐ目の前に迫っていました。
森の入り口に立って、姫様は、しばらくがたがたと震えていました。冷たい月の光を背にして、森は、まるで何万もの不気味なつるがからみあってできた、大地の巨大な腫物のように、葉擦れの音ひとつたてず、不気味に静まり返っていました。姫様の頭の中で、何度も、何かが「逃げろ!この馬鹿!」と叫んでいました。でも、まるで誰かが見えない糸で引っ張っているかのように、姫様の足は森の中に向かって、ずるずると動いていきました。
一歩森の中に足を踏み入れたとき、まわりに黒い幕をいっせいにおろしたかのように、もうなにも見えなくなりました。姫様は恐ろしさのあまりに悲鳴をあげました。と、暗闇の向こうに、不気味な二つの光がちらりと瞬き、そしてゆっくりと近づいてくるのが見ええました。それは、異様に背中がもりあがった、灰色の、気味の悪い老婆でした。老婆の右目は、濁ってつぶれかけていたので、何とか見える左目を皿のように広げて、ぎろりと姫様をにらみました。そしてにやりとその大きな口をねじまげて笑いました。
「これはこれは、王妃様。こんな夜分に、何の用かな?」
姫様は、背筋に冷たいものが走るのを感じました。全身に鳥肌が立ち、歯ががちがちと鳴りました。でも、姫様の口は、勝手に、答えていました。
「お、おねがいが、あるの」
「ほう、お願い、とおっしゃると?」
老婆は、得たり、とばかりに目を輝かせました。
「わたし、わたしは、お、王様、の、おことば、どおりの、すがたに…」
まるで、くちびるから言葉が引きちぎられていくかのように、姫様は一言、一言、苦しそうにつぶやきました。そのときでした。不意に、背後から、ダニーの鋭い声が響きました。
(つづく)