世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

影の物語・3

2015-07-16 04:10:32 | 月夜の考古学・本館

「だめだ! グリシア!」
 姫様は思わず振り向きました。森の中を走ってくるダニーの姿が、おぼろげに見えました。ダニーは、姫様のことが心配で、こっそりとあとをつけてきたのでした。
「そいつは悪い魔女だ! 君に取りつこうとしてるんだ! 願い事を言うな! 言えば…!」
「ええい、このこぞうめ!」
 魔女は、ばさりとマントを打って両手を振り上げると、奇妙な呪文を一声叫びました。とたんに、ダニーの重い悲鳴が聞こえ、少年は立ち尽くしたまま動かなくなりました。魔女の魔法が、ダニーの足を石にしてしまったのです。でもダニーはあきらめませんでした。ふところのナイフを、ありったけ、魔女めがけて投げつけてきました。でも、ナイフは魔女に当たる前に、みんな小さな青い蛾になって飛んで行きました。
「さあ、王妃様、なんなりとお申し付けくださいませ」
 ダニーのナイフがなくなると、老婆は再び、姫様に向かって言いました。半分魔女の術にかかっていた姫様の頭の中で、はえがぶんぶんとうなっていました。姫様には、もう何が何だかわけがわかりませんでした。
「グリシア! やめるんだ!」
 後ろで泣きそうになりながら叫んでいるダニーの声も、姫様には聞こえませんでした。
「わたし、影になりたいの」
 そう言ったとたん、森が、ぶうん! と、うなりました。
「うおっほほほほ! お安いごようでございます!」
 魔女は勝ち誇ったように高らかに笑うと、するりと闇の中に姿を消しました。一瞬の、凍った沈黙のあと、どこからか、魔女の唱える奇妙な呪文が聞こえてきました。姫様の頭の奥で、何かがみしり、と割れたような音がしました。次の瞬間、姫様はゆっくりと、その場にくずおれました。

★★
 次の朝、王様は、召し使いに髪をすかせながら、ぼんやりと、今日はどうして退屈をまぎらわせようか、と考えていました。
(もう舞踏も水遊びもあきたな。何かおもしろいことはないものか…)
 そのとき、召し使いの一人が、いそいそと部屋に入ってきて、王妃様がおいでです、と告げました。王様は、ああ、またか、とでもいいたげに、首を左右にふってため息をつきました。
「王様、ご機嫌はいかが?」
 すいと、優雅なきぬずれの音をさせて、王妃様が現れました。その姿を見て、王様は目を見張りました。
 そこにいるのは、確かに王妃様でした。顔つきにどこか面影があります。でも、目の前にいる王妃様は、どう見ても十三歳の子供ではなく、十七か八の、美しい娘だったのです。ちりちりの黒髪も、いつのまにかつややかな巻き毛にかわり、そばかすは消え、透きとおるような白い肌に、とび色の目が濡れた宝石のように輝いています。いったい、これはどういうことなのでしょう?
「そなた、わたしの妃か?」
 驚きのあまり、王様はその場に立ちつくして言いました。すると、姫様は真珠のような歯をほころばせて、くすくすと笑いました。
「いやですわ。お忘れになったの?」
「いいや、まさか、そなたのように美しい女を、わたしが忘れるものか」
 王様は、吸い込まれるように姫様に歩み寄ると、その手をとりました。かつて、姫様が王様を一目で好きになったように、王様も、今、この姫様に一目で心を奪われてしまったのでした。
 それからというもの、王様は、一時も、姫様なしではいられなくなりました。朝に夕に、姫様の後を追い回し、食事も喉を通らないありさまでした。
 姫様に心を奪われたのは、王様だけではありませんでした。大臣も、近衛兵も、門番の衛兵も、城に出入りする商人でさえ、一目でも姫様を見たものは、まるで魂をなくしたように、姫様のとりこになるのでした。侍女や踊り子たちでさえ、姫様の発する不思議な香りや優雅な物腰にあこがれ、胸をこがすのでした。
 けれど、まわりをたくさんの人に囲まれながら、だれも、時々姫様の影の中から聞こえる、かすかな悲鳴に気づきませんでした。
「たすけて! たすけて! わたしはここよ! それはわたしじゃない! 魔女なのよ!」
 魔女は、望みどおりに姫様を影にかえ、そのかわりに、自分が姫様になりすましたのです。影になった本物の姫様は、魔女に自分自身をのっとられてしまったのです。今や、姫様には、なすすべもありませんでした。助けをもとめようにも、影の声はあまりに小さす ぎ、逃げようにも、影はいつもたくさんの人にふみしだかれ、地面を引きずられながら、人間の足元にくっついていなければならないのでした。
 一度、大臣が、魔女が化けた姫様の影の上に落ちた扇子をひろおうとした時、姫様はあらん限りの声で、「たすけて!」と叫びました。と、大臣にはそれが聞こえたらしく、ふと左右を見回しました。
「どうしたの? 大臣」
 魔女が目をきらりと光らせて言いました。
「いや、何か聞こえたような気がしたんだが…、気のせいですかな。
 その後、魔女はすぐさま、空耳で失敗した遠くの国の王様の笑い話をして、大臣の気をそらしました。姫様の必死の叫びも、笑い声に消されて、なくなってしまいました。
 その夜、部屋で一人っきりになると、魔女は、影に向かって言いました。
「あがいたってむだだよ。だれも助けにきやしない」
「ひとでなし。何でこんなことをするの」
 姫様は必死で声をあげました。影となった今では、声を出すのもとてもつらい仕事でした。
「おっほっほっほ。馬鹿なことをお言いでないよ。何もかも、お前が望んだ通りじゃないか」
 魔女は、影をこつこつと靴でたたきながら、あざ笑いました。
「そんな、わたしはただ、王様に好かれたかっただけよ」
「好かれているじゃあないか。見てごらん、あんなにおまえに冷たかったあの男が、今や、金魚のフンみたいにつきまとってくる」
「ちがうわ! そんなの、まやかしよ! あなたが魔法で惑わしてるだけじゃないの!」
 一瞬、魔女の顔が、もとの恐ろしい顔に戻りました。姫様は、ひっと黙り込みました。
「まやかしだって? ほほ、まやかしのどこが悪いんだい? おまえだって、そのまやかしをたよってきたんじゃないか」
 魔女は姫様のおなかのあたりを、細い靴でぎりぎりと踏みにじりました。姫様は、その痛みに、うっとうめき声をあげました。
「おまえは、自分で自分を捨てたんだ。影みたいにつきまとって離れない劣等感から逃れるためにね。あのろくでもない王の言いなりにでもなれば、ちょっとはましな人間になれるとでも思っていたのかい」
 魔女の言葉は、刃のように、深く、姫様の心に突き刺さりました。しまいに、姫様はめそめそと泣き始めました。
「…おねがい、わたしに、わたしを返して…、影はいや、影はいや…」
 でも、魔女は鼻にもかけませんでした。
「ふん、どこにおまえがいたんだい。そもそも、おまえはだれなんだい? おまえなんかいたって、何の役にもたちやしないじゃないか」
 もう姫様には何も言えませんでした。
 それから、ひと月が過ぎました。ここになって、魔女のたくらみが、うすうすと、姫様にもわかってきました。魔女は、姫様をのっとったにあきたらず、城中の人間を、ひいては国中の人間のすべてを、のっとろうとしていたのです。
 人間の魂をのっとるのは、とても簡単です。人間の心の中には、いつも、どこかに劣等感と猜疑心が眠っています。そんな卑しい心を、魔女は術や言葉を使って巧みに目覚めさせ、人間に自信を失わせていきます。自信を失った人間は、いつか、自分自身を脱ぎ捨て、もっとほかの今の自分よりはいくぶんましなものになりたいと、ふと願うようになります。あとは、その願いをかなえてやるだけでいいのです。
 その最初の犠牲になったのは、王様でした。どんなに甘い言葉を語り、たくさんの財宝を贈っても、魔女の化けた姫様の心をつかむことができなかった王様は、ある日、ぽつりとこうつぶやきました。
「ああ、つくづく自分がいやになった」
 とたんに、ぽん!と音がしたかと思うと、次の瞬間、王様は平べったい影になって、大理石の床の上に倒れていました。その代りに、王様とそっくり同じ姿をした人が、王様の上に立っていました。その王様の目は、どこかうつろで、動作もなんとなくぎくしゃくしていました。


(つづく)




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