四十代に突入してみて、今思うのは、世界が違って見えるということ。
花一つ、明かり一つ見るのに、今までとまるで違うように見えるのです。今日も、スーパーで買い物していて、売り場の上に並んでいる小さな緑のライトの列を見て、その美しさが魂に飛び込んできて、感動にそのまましばし動けなくなりました。息をするのも忘れました。そして時計のように規律正しく透明なリズムで、静かに心が歌い出すのです。それは大らかで広くて、澄み切った美しい肯定感の歌でした。
人生は美しい。生きることは素晴らしいと。
前にも言った通り、私は三十代の末ごろから辛い試練の時期に入りました。それは私にとって、一番苦手な分野で、最初はとても乗り越えられそうにないと思ったのですが、しかしここで自分を諦めてはならにと思い、出せないような根性も出して頑張りました。孤独の中で、真剣に神と対話する日が続きました。するとある日、思わぬところで、それまでの自分の殻が、がさっと脱げてしまったのです。こだわりの殻というべきものか。それがあってから、世界がまるで変わって見えるようになりました。
若い頃の、小さくて妙なプライドが、乾いたクモの抜け殻のように、下の方でちっぽけに転がっていました。私は今まで何にこだわり、何と戦っていたのか。空はこんなに広く、愛に満ちていたのに。世界はこんなにも豊かで、美しかったのに。
孔子が、四十にして惑わずと言ったのは、このことだったんでしょうか。腰が座り、自分が自分であることの光が、正しい位置にはめ込まれ、魂の奥にしかけられた水晶のからくりが正しく働き始めたという感じなのです。
これが私なんだと。私が私自身である喜び。長所も短所も受け入れた、いえ、長所だの短所だのを飛び越えた所にある、真実の自己の光。私は今まで、それを奪われていたのです。時代にはびこる見えない呪いによって。その呪いは、「自分を信じてはならない」という呪い。
だれが、いつ、それを言い始めたのか、わかりません。でも私は現代の魂の業病のようなこの呪いを、少しずつ溶かしていくために、これからの人生を生きていきたいと思います。
ことばを、友として。
(2005年3月ちこり33号、編集後記)