その日、海は青く平らかに、はるかにどこまでも広がっていました。風はなく、青い空に日は照り映え、ただ誰も聞かぬひそやかな声を、静寂の裏にすべて隠していました。
その海の底では、灰色の髪と髭を短く刈った聖者と、一人の女性役人が、海底に描いた大きな魔法陣の周りで、水晶球の来るのを今か今かと待っていました。魔法陣と彼らの周りには、三重の結界が張ってあり、そこから海上に向かって斜めに伸びる長く光る道がありました。その道にもまた、三重の結界が張ってありました。
ふと女性役人が、陣内に魚のようにまぎれこんできた邪気を、息で吹き消しました。彼女は微かに瞳に悲しみを見せ、つぶやきました。
「これだけやっても、まだ邪気がきますね。まさに、最後の難関…」
「最後ではない。まだ一つ残っている」「そうでした」女性役人は静かに返事をしました。
聖者は言いました。「天気は上々だ。神は空にいまし、すべてをごらんになっている。ここをここまでにきれいにすることは、神の助力なしにはできなかった」すると女性役人は答えました。「確かに。ここは血の雨が降りすぎている。おそろしい邪気です」すると聖者は厳しい声で眼光を強め、言いました。「これは、邪気というものではない。腐っているのだ」女性役人は、静かな声で、確かに、と答えました。
女性役人は、長いまっすぐな黒髪を、首の後ろで一つにまとめ、背中に長く垂らしていました。端正な顔立ちは繊細ながら硬質な輪郭をしており、どこか少年を思わせるところがありました。彼女は未だ、役人の身でしたが、聖者の元で長く修業を積み、深く学び進み、もうすぐ、準聖者として上部に上がり、新しい段階の学びを始めることになっていました。それは彼女にとって、女性の姿を捨て、男性として生まれ変わることでもありました。なぜなら、上部に上がれば、もう性別は必要なくなるからです。聖者がすべて男性なのは、このためでした。彼女の体内で、ひそかに男性化は進んでいましたが、未だその声は高く、胸には小さなふくらみがありました。
「軌道計算には?」聖者がもう一度確かめるように言いました。「ミスはいたしません」女性役人はすぐに答えました。と、海上から、かすかな風の音が聞こえました。
「来たな」聖者は言いました。すると、これまで見たこともないような大きな水晶球が、海面を音もなくするりとくぐって、青い光で海中を照らしながら落ちてきました。聖者と女性役人はただ黙って静かに見守っていました。水晶球は海の微かな邪気の匂いにも壊れることなく、女性役人が計算した軌道を外れることもなく、三重の結界に守られた海の道を静かに下り、無事に魔法陣の真ん中へと吸い込まれました。女性役人は、その深さも位置も十分であることを確かめると、上に向かって口笛を吹きました。
すると、それはそれは大きな水鳥が、海上で一息の風を起こしたかと思うと、ずぶりと海面を破り、弾丸のように海中に入ってきました。大水鳥は、海中にその全身を見せるや否や、突如まるで大入道のような赤い巨人に姿を変え、おおおああああ、と大きな叫びを上げながら、魔法陣に向かって真っすぐに落ちてきました。そして海底にどすんとぶつかったかと思うと、それは瞬時に赤い巨岩に姿を変えて魔法陣の全てを覆い、めりり、と音をたてて、海底の土に半身を沈めました。聖者が、ほう、と声をあげました。
「完璧だ。追加の魔法をする必要もない」女性役人は、はい、と答え、「すばらしい精霊です」と感じいったように言いながら、見事な赤い巨岩をたたえました。
「地球大浄化、か」岩を見ながら聖者が言いました。この一個の水晶球で、地球上に埋める水晶球はほぼ終わったようなものでした。あらゆる聖者や数々の役人たち、青年、少年たち、多くの者たちが地球に降り、あらゆる場所を浄化し、千個もの水晶球を地球に埋め込みました。準備は着々と進んでいました。すべては神のお導きどおりでした。
聖者と女性役人は巨岩の守りの完璧さを隅から隅まで確かめると、仕事が完遂したことを互いに認めあいました。そしてともに上を見つつ、しばし迎えを待ちました。静かな時が流れました。女性役人は軌道を囲む最外部の結界の一部に傷がついているのに気付いて、目を暗くしました。何と汚れていることだろう、ここは。しかし神はそれでもおやりなさる。
女性役人は思わず言いました。「これで、本当に、地球上に愛の花が咲くのでしょうか?」
と、聖者は弟子の見せた思わぬ女性的な愛らしさに、ほっと、笑顔を見せ、言いました。「花か。花に似ていないこともない」聖者は言葉を切り、悲哀にも似た色を目に浮かべ、しばし口をつぐみました。と、海面に大きな船の影が現れました。「青船がきた。行こう」聖者は言いながら、上に向かって泳ぎだしました。女性役人も、その後を追いました。
聖者は船の影を目指し、微かに痛む邪気の中を泳ぎながら、やさしくも厳かな声で、女性役人に言いました。「だが、咲くのは、花ではない。渦だ」。「渦?」と女性役人が返すと、聖者は、そう、と答え、続けました。「嵐の、大渦だ」。
海上では、迎えの大きな青い鳥船が、ゆったりと風に浮かび、彼らが姿を現すのを待っていました。