最初見えたのは、霧、霧ばかりでした。男は、足を一歩前に踏み出してみました。すると足の下に、床があるのがわかりました。下を見ると、靴の下にコンクリートに模造大理石の板を貼ったような白い床があり、それは霧の奥に、どこまでも続いていました。
彼は走ってみましたが、どこまでいっても壁にたどりつくことはなく、上を見ても、どこまでも白い霧ばかりで、天井らしいものは何も見えませんでした。ただ、なぜか光だけはあり、それはまるで霧に混じって隠れているかのようにあたりにたちこめ、彼に奇妙な真実を見せました。
気付くと、霧の中のところどころに、黒いものの影が見え、そのひとつに近づいてみると、それは床の上に寝転がっている男でした。男は酒を深飲みしすぎたような薄黒い顔をしており、口をだらしなくあけてよだれを垂らしながら、眠っておりました。ほかの黒い影のところにも行ってみましたが、いるのはみな、似たような男ばかりでした。
「探しても、女はいないよ」ふと、背後から声がして振り向くと、そこに、骸骨のように痩せ、黒い髭や髪をだらしなく伸ばした男が膝を抱えて座っていました。男は白目の濁った眼で上目づかいに彼を見ながら、言いました。
「おまえ、女をやったろう?」男は今更ながらぎくりとしました。「ここにいるやつぁ、みんなおんなじだ。女よ。女をいじめすぎた男が、こんなことになった。おまえ何やった?」男が沈黙していると、その男は、目をゆがめてふっと笑いました。「…おれはなあ、森と石ばあっかりの小さな国に生まれてよ、そこは、戦、戦、戦ばかりの世の中だったんだ。おれたちゃ狂ってた。男はみんな、何でもしていいんだって感じになってよ、ある日みんなで村を襲って、そこの女を、かたっぱしからやっちまったのよ」黒い髭の男は言いながら膝の上に額を落としました。それを見ていた男は、床の上に立ちつくしながら、ごくりと生唾を飲み込みました。
「床、床、床、床だけの世界。いるのは、男、男ばかり。おんなは、いなあい」黒髭の男はまた顔をあげ、つぶやきました。そして深いため息をついたかと思うと、言葉を続けました。「あんた新入りみたいだから、教えてやるよ。おれはずいぶんとここにいる。…最初、病院みたいなところに行ったろう?」
男が、はっとして、そうだ、と思わず答えると、黒髭の男は、また口をゆがめて笑いました。
「あそこはな、あるときからできたんだ。骨をいじられたろ?あれはな、おれたちみたいな男が、ムカデに落ちないための手術なんだってさ。昔、半月島の先生が魔法に興味持って、なんとか勉強して、地獄ん中に作ったんだとさ。いい声の先生がひとりいたろう?」
その言葉に、男はまだ記憶の中にはっきりと残る、あの胸に響くバリトンの声を思い出しました。黒髭の男は続けました。
「それから時々、おれたちみたいのが、あそこに落ちるようになった。おかげで、おれたちはムカデにはならない。だがその代わり、ここができた。白い床と、霧だけの、女のいない、男だけの世界…」黒髭の男は声を小さくしながら目を閉じ、また抱えた膝の中に顔をうずめました。
男はしばし、信じられぬという顔で、周りを見回してみました。見ようとすると、確かに霧の中のそこらじゅうに、たくさんの男の影が見えました。彼らは床と霧しかない世界の中で、何もすることはなく、ただ寝転がっているか、座っているか、ときに指で床に、くるくると何かを書いているかだけでした。ほとんどの男が貧乏神のように痩せており、骨の見える胸が痛いように膨らんだりしぼんだりしていました。
「ここに来たやつぁね、最初狂ったように走り回って、女を探す。探し回る。でも、どこを探しても女はいない。いないってことが完璧にわかったら、すべて、こうなる。なんにもないんだ。ほんとに。なんにもないんだ。ここには。なぜだと思う?」
黒髭の男の顔が不意に憎悪にゆがみ、目がぎらつきました。と、男はそれに腹が立ち、少し目をとがらせ、「なぜ、なぜそんなに知ってる!」と強い声で叫びました。黒髭の男は、どうしようもねえな、と口の奥でつぶやきながら少し顔をそむけ、今度は男を悲しみの入り混じった目で見上げました。
「勉強さ。先生に言われなかったか?ここでは勉強だけはできるのさ。ただ、胸の中に問えばいいだけなんだ。そしたら、どこからか答えが返ってくる。だからおれはある日聞いてみた。胸の中で。『なぜここには、床と霧以外、なんにもないんだ?』って。そしたら胸の中で誰かの声がした。なんて言ったと思う。こうだ。『オンナダ。オンナガ、スベテダカラダ』」。
「女が、全て…?」男が問い返すと、黒髭の男は、「そうだ」とだけ答えました。そしてしばらくして、「たしかに、そのとおりさ、すべては、それだ。みんな、みんな、それだ。女、女なんだ……」そして黒髭の男は、再び顔を膝の中にうずめ、そのまま、石のように動かなくなりました。男は何度か彼に問いかけましたが、彼はもう何も答えようとしませんでした。
男はしばらくうろたえたようにそこらを歩きまわりました。どこに行っても、どこまで行っても、黒髭の男の言った通り、あるのは床と霧と、男ばかりでした。やがて、仕方なく、彼は自分の場所を決め、そこに座りました。白い考えが、胸を通りました。床と霧と男だけの世界。何もやることはない。だが確かあの男は、胸の中で問えと言った。そうしたら答えが返ってくると。それは本当だろうか。
だが、何を問えばいい。おれは何が聞きたい?彼は考えました。すると、ふと、病院でみた夢の中の、鯨の言葉が蘇りました。
もうすぐ彼が来る。…あれはどういう意味なんだ?と男は胸の中でつぶやきました。すると、瞬間、胸の中で何か自分とは違うものが動き、ささやきました。それは(ユケ)と言いました。男は(なんだって?)と応じました。すると声は続けました。(ミチハキビシク、ツラク、ソシテナガイ。ダガユケ。カミハイツモオマエトトモニアル)。男は胸をさすりながら、茫然とその響きを聞いていました。全身にしびれるようなものが走りました。頬に微かな風をも感じたような気がしました。
「行け……?」男は、目の前にはるかに続く霧を見ながら、つぶやきました。