最近、ちこり誌上では、宗教とか精神世界の話題が多く語られるようになりました。種野も精神世界には痛く興味があり、個人的にいろいろ勉強したりしています。けれどこの問題は、一歩間違うと深い陥穽に陥る恐れがあり、ちこりでは大きく取り上げることを今まで避けてきました。
種野自身、親戚の人の影響で某宗教団体に在籍したことがあり、そこで経験したことを元に言えることは、団体の中に入ってしまうと、自分なりの意見がいいにくいということでした。教祖の人格やその教えはすばらしく、たくさんの勉強をさせていただきましたが、しかし私が私らしく自分を表現しようとすると、心に枷を入れられてしまうような気がしてならなかったのです。(悩みぬいた末にその団体をやめた時は、一種の喪失感とたとえようもない解放感を同時に感じました。)
例えばオウム真理教の失敗は、どこにあるのか、また、人はどうして宗教に入ってしまうのか、そして失敗してしまうのか……。種野は種野なりに、自分の経験を元に、一生懸命に考えてきました。そこで得た一つの答えは、「みんな自分に自信がない」ということでした。自分の人格、存在、際の、全てに自信がなく、自己に価値がないと思い込んでいる人々は、一見力も才能もたっぷりとあり、神のようにさえ見える人に出会ってしまうと、あまりにも簡単に自己の価値をその人に渡してしまうのではないでしょうか。そして教祖たる人は、周囲の人間がほいほいと自分に価値を捧げてくるので、いつしか教祖個人の価値と強さを過信してしまい、人間的な陥穽に落ち込んでしまうのではないかと思うのです。
つまり、教祖だけにすべての責任があるのではなく、教祖に簡単に自己の価値を預けてしまう信者にも問題があるのです。人は、そんなに簡単に自己の価値を他者に渡してはいけません。たとえどんなにみすぼらしく見える自己でも、それは自分だけのもの。神様が、その人だけに与えた、大切な宝なのですから。
では、どうすれば人は自分に自信がもてるようになるのでしょうか? 私は、それには自己表現しかないと思うのです。少しずつでも自己を表現することをして、心に光を入れれば、魂に秘められた自然の命の働きが芽生え、それぞれが価値ある自己として大きく成長し、自己を信じられるようになるのではないか……。
神戸の少年が、「透明な自分」と言っていた言葉を、今とても重大に受け止めています。一体何が人から価値を奪っていったのか。そして今を生きる私達は何をすればいいのか。
何もかもは、これからなのですね。
(2000年7月ちこり19号、編集後記)