少年は、竪琴弾きと一緒に、暗く細長い階段を下りていました。手には、灯火代わりの月光水の入ったガラスの水筒を持ち、それを闇にかざしながら、少年は竪琴弾きを階段の行き着くところにある、黒い扉の前へと案内しました。
「ここですか、案外短い階段でしたね」竪琴弾きが言うと、少年は、「ぼくたちには、そうなんですけどね。罪びとが上ろうとすると、ものすごく長い階段になるんです。それこそ、永遠に上にたどりつけないのではないかと思うほど」と言いました。
少年は扉の取っ手に手をかけると、声を低め、「中にはかなりたくさんの蜘蛛がいますから気をつけてください」と言いました。そして少年は合図の口笛を三度鳴らし、扉を押しあけました。
少年が先に中に入り、竪琴弾きが後に続きました。中は墨を流しこんだような闇でした。蜘蛛の気配がどこかでかさりと音を立てました。少年は水筒の蓋をあけ、月光水を丸めて小さな玉をつくり、それを天井に向かってはじきました。するといっぺんに部屋は明るくなり、蜘蛛たちが突然の光に驚いて、ぎゃうぎゃうと声をたてながら逃げていきました。
蜘蛛があらかた姿を消すと、ふたりは、部屋の隅に座って、壁にもたれながら、眠っているように動かない、ミイラのような男を見ました。竪琴弾きは、少年に尋ねました。
「随分と長いこと、ここにいるようですね、この人は」
「ええ、かなり。この人は、前の人生で娼館を経営していたんですが、そのやり方があまりにひどかったので、いっぺんにここに落ちたんです。女の人を道具のように扱って、虐待したり、むごいほど屈辱的な仕事をやらせて、いらなくなったら平気で捨てていたそうです」
「ああ、それで蜘蛛がいるのか」竪琴弾きが言うと、少年は悲しそうにうなずき、「あの蜘蛛たちはみな、この人にむごい目にあわされた女性たちです」と言いました。
少年は、じっと壁にもたれたまま動かない男に近寄ると、水筒の水を布にしみこませ、彼の目を濡らしてみました。男は何の反応も示しませんでした。少年は表情を曇らせ、竪琴弾きに、「試してみてくれますか」と言いました。竪琴弾きはうなずき、少年と代わって男に近寄ると、竪琴を弾き、清めの歌を男に聴かせてみました。すると、風にそよいだように、一瞬彼の髪が動いたような気がしました。しかしそれだけで、後は、竪琴弾きが何を弾こうと、一切動かず、何の反応も示しませんでした。
「やはりだめですか」少年が言いました。竪琴弾きは、琴を弾くのをやめ、答えました。「だめですね。死んでます」すると少年は、とても苦しそうな顔をしました。
死者の住む世界にも、死はありました。それは地上の死のように、魂が離れ肉体が朽ちていくことではなく、たとえれば、ロボットが自分で自分のスイッチを切ることに似ていました。つまりこの人は、自分の罪の深さと苦しみに絶望し、自分で自分を生きることを自ら放棄してしまったのです。これを死者の死者といい、人として最も愚かな選択でした。彼は神よりいただいたあらゆる恵みと愛と光を、すべて拒否して、自ら消えていくことを選んだのです。
少年と竪琴弾きは、男をそのままにして、明かりを消し、部屋を出ました。彼が死んでも、彼の罪は残っているので、彼はまだそこにいて、蜘蛛たちの復讐をうけねばなりませんでした。階段は、降りてきたときより短くなっており、彼らはすぐに出口にたどりつきました。外に出ると、明るい林があり、心地よい月光が彼らの目から暗闇をぬぐいました。二人並んで林の中を歩きながら、少年は竪琴弾きに尋ねました。
「死んだ人は、やはり、二度と蘇ることはないんでしょうか」すると竪琴弾きは、「確かに、世間はそう言うね」と言いました。少年はとても悔しそうに、「やはり、もうこれで終わりなんですね、あの人は」と言いました。
すると竪琴弾きは、少年を元気づけるように言いました。
「なに、今の常識がそうだからと言って、未来永劫おんなじとは限らないさ。神は常に世界を新しく創造なさっているし、半月島の研究者の中には、死者の死者を蘇らせる研究をしている人もいるそうだ」
「へええ、そんな人がいるんですか!」少年は目を丸くして言いました。
「人間の中には、不可能を可能にしたがるやつがいくらもいるんだ。そしてそれは結構、世界の役に立っている」竪琴弾きがいうと、少年の表情が少し明るくなりました。
「希望は何も見えなくても、いつも未来はあるってことですね」少年が言うと、竪琴弾きは、それはなかなか上手い言い方だと笑いました。