女性魔法学者は、天文台の中で、聖者の治療によって仮に与えられた腕を使い、知能器の画面を見ながら、キーボードをカチカチと打っていました。彼女の体が元に戻るには、まだよほど時間が要りましたが、聖者の作ってくださった腕はとても性能がよく、彼女の仕事を大いに助け、彼女は簡単な魔法が使えるまでに、回復していました。
彼女が、画面に映る青い地球の画像をじっと眺めていると、不意に犬の頭の助手が彼女のそばに姿を現し、「先生」と声をかけました。彼女は彼を振り向くこともなく、言いました。「わかってるわ。お役所から入胎命令が出たのでしょう」すると助手は、彼女の相変わらず冷たく厳しい横顔をしばし見つめ、言いました。「はい。そのとおりです。しばらく、先生のお世話ができなくなります。大変な時を、申し訳ありません」
「謝る必要はないわ。わたしも自分の世話くらいはできるようになったし。上部のお決めになったことに間違いはないのだから、あなたはあなたのするべきことをしなさい」魔法学者は冷静に、助手の顔を一瞥もせず、ただ画面に映る地球の表面を注意深く観察していました。
「ありがとうございます」助手は言いましたが、魔法学者は地球を観察するのに集中し、それには答えませんでした。ふと、彼女は、地球上に何かを見つけたように、「あ」と声をあげました。「ゆらいだ。あの子が、夢を見始めたのだわ」彼女は言いましたが、そのときにはもう、助手の姿はそこにありませんでした。
犬の頭をした青年は、ある、激しく岸を打つ荒波の海を前にして、岸辺の岩の上にまっすぐに立ち、海のはるか向こうを見ていました。彼は空を見上げ雲の向こうにかすむ日照を見たあと、風を一息飲みこみ、小さな炎を吐いて、呪文を唱えました。すると彼はいつしか、一匹の細長く白い竜に姿を変え、海から吹いてくる強い風に立ち向かい、飛び出しました。彼は青灰色の荒波の海の上を、時折風に押し戻されながらも、恐れることなく道を信じ、ただひたすら目的地を目指して飛んでゆきました。
そうして数日も海を飛んでゆくと、行く手の霧の向こうに、うっすらと、黒い島影が見えてきました。彼はその島を目指し、まっすぐに飛びました。それは、黒い玄武岩でできた、小さな岩の島でした。白い竜はその島に近づくと、その島に降りることはなく、ただ岸辺の近くの海すれすれに体勢を整えて止まり、ほおおおおっ、と声をあげました。すると、かちん、と空気の割れるような音がして、世界が変わりました。白い竜は一切移動していませんでしたが、世界そのものが、移動して、彼はさっきとは全く違うところにいました。彼はそれがどういうことなのかはわかっていました。竜は海面に降りると、ひざまずくように手足を海面につき、深く頭を下げました。
と、不意に、玄武岩の島そのものが、巨大な竜の神の顔になりました。おおおおおお、と竜の神は空を揺らす声をあげて、小さな白い竜を迎えました。白い竜はますます深く頭を下げ、感謝の祈りを捧げました。神が、空に響き渡る、厳かな声でおっしゃいました。
「ドゥラーゴン、小さき竜の子よ」
すると小さい白い竜は顔をあげ、はい、と答えました。神はその素直なまなざしを見つめ返し、またおっしゃいました
「ドゥラーーゴンン…、愛し児よ、行くか…」
小さい白い竜はただ、はい、と答えました。すると神は目を細め、しばし沈黙し、海の上を吹く荒い風を鎮まらせました。風は神の心に従って暴れるのをやめ、海もまた叫ぶのをやめて、静かに沈黙をゆらすかすかな歌を歌い始めました。
神は悲しみとも喜びともつかぬ、美しくも激しく澄み渡った瞳で彼を見つめました。そのまなざしの中、白い竜は凍りつくように動けなくなりました。彼は自分の全身を測られ、存在そのものを丸裸にされて全ての真実を見抜かれているのを感じました。彼は自分の小ささを痛いほど感じざるを得ませんでしたが、それでも恥じることなく、額をあげ、小さくも確かな存在の光として、神のまなざしに答えました。神は、目を細め、かすかに微笑みました。そしてまた、おっしゃいました。
「ドゥラーゴンン…、神の小さき竜よ。おまえは、石つぶての渦まく、嵐の中を、進まねばならぬ…」
「はい、わかっております」
「ドゥラーーゴンンン…、わが子よ、おまえは、愛のしるしの元、人類を、炎の鞭で、打たねばならぬ…」
すると小さい白い竜は目を閉じ、しばし神のことばをかみしめた後、目ににじむ涙を感じながら、「はい、わかっております」と答えました。
「行くか、わが子よ」神がおっしゃると、小さい白い竜は、ただ「はい」と答えました。神はその答えを深くその御心に吸い込み、小さい白い竜の心と決意を確かめたあと、ため息とともに、口から金色の炎を吐き、それで白い竜を焼きました。
小さい白い竜は、炎の熱の激しさに、微塵も動かずにただ黙って耐えました。炎は彼の全身を焼き清め、静かな風の中に消えたかと思うと、いつしか白い竜の体は、日照の金色に染まって、輝いていました。神はおっしゃいました。
「ドゥラーーゴンン…、神の幼な子よ、おまえに、使命を与える。…行け」
すると金色の竜はただ、「はい」と答え、空に浮かび上がりました。それと同時に、瞬時に世界は元に戻り、神の気配は消え去りました。金色の竜は、日照界の空に次元のカーテンを作り、それをくぐって、地球へと向かいました。
やがて彼は、地球上に降り、犬の頭の青年の姿となって、ある国の片隅にある、小さな教会の中にいました。今、その教会の中で、一人の女が、目の前に高々と掲げられた金色の十字架を前にひざまずき、一心に祈っていました。彼女の夫は今、兵として他国に任務しているのですが、もうすぐその任務も終わり、国に帰ってくることになっていました。彼女はただひたすら、夫が自分の元に帰って来るまで彼が無事でいてくれることを、神に願っていました。
犬の頭の青年は、これから約二年後、彼女の末子として、生まれることになっていました。彼はやがて母となるだろうその女性の背中を見つめた後、教会に飾られた金の大きな十字架に目をやりました。すると、その十字架には、大蛇のように大きなムカデが一匹まきついており、彼女に向かって、しきりに、「ワガコトヲセヨ、ワガコトヲセヨ」とささやいていました。それは、怪に従い、悪を行えという意味でした。犬の頭の青年は、口からふっと銀の針を吐き、そのムカデを刺し貫きました。すると大きなムカデは、ぐっ、と声をあげ、しゅう、と音を立てて縮み、元の小さなムカデの姿に戻りました。犬の頭の青年は、銀の針の刺さったムカデを呪文で手元に呼ぶと、それをしばし冷たい目で観察し、また呪文を唱えて、それを月の世に送りました。ムカデはすぐに、彼の手元から消えました。
彼はまた、祈り続けている女の背中を見ました。すると、どこからか、かすかな声が聞こえてきて、彼は目をあげました。金色の十字架が、前よりも少しつやめいて見え、清らかに澄んだ光を放っていました。そのかすかな声は、その十字架の向こうから、繰り返し聞こえてきました。彼は耳を澄まし、そのはるか遠くから響いてくる音律を、探り出しました。それは単調で素直な調べではありますが、確かな自信に満ちた声で、こう言っていました。
「義のために、迫害される人々は、幸いである。天の国は、その人たちのものである」
犬の頭の青年が目を見開き、驚いていると、不意に、目の前に、透きとおった、これまでに見たこともないほど大きな精霊の顔が現れ、その澄んだまなざしで彼を見つめ、言いました。
「正しいことをしなさい。それで人にいじめられても、それは苦しいことではない。ましてや喜びなのだ。なぜならわたしたちは、どんなに苦しい目に会おうとも、神の愛の真実を信じ、決してその道を踏み外すことはないのだから」。
犬の頭の青年は、しばし、精霊の顔を見つめ、驚きから逃げられずにいました。精霊はまるで、神のように微笑み、ただ静かに彼の答えを待っていました。犬の頭の青年は、そのまなざしを受け入れ、竜の深い声で、「はい、わかっております」と言いました。すると、精霊の顔はその言葉をとても喜び、微笑みの中に静かに消えてゆきました。
ふと、祈り続けていた女が、何かの気配を感じたかのように顔をあげ、不安げにあたりを見回しました。教会には彼女の他に誰の姿もなく、ただ金色の十字架だけが、彼女を見つめていました。犬の頭の青年は、彼女にささやきました。「心配することはない。あなたの夫は必ず無事に帰って来る。安心して待っていてください」すると女は、少し気持ちが落ち着いたように、ほっと息をつき、また十字架を見上げて儀礼をすると、そこを立ち上がり、教会を出て行こうとしました。犬の頭の青年はその後ろ姿に声をかけました。
「すまない。あなたには迷惑をかける。私はここで、やるべきことをやらねばならないから…」
女は、何にも気づくことはなく、ただ、胸に小さな希望の明かりをともして、静かに教会を出てゆきました。家では、彼女の、愛おしい二人の子供が、待っているはずでした。