世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2011-11-20 08:04:07 | 月の世の物語

月の世には、一匹だけ、小さな恐竜がいました。青い太古の森の中で、彼女は地面にシダの茎や葉を編み重ねて小さな巣を作り、ひとりで住んでおりました。その顔は蛇に似ており、首は鷺のように長く、体格は鶏のようでした。そして顔の周りと足以外の全身を、黄色い羽毛に覆われていました。

あるとても月の明るい日、竪琴弾きが、彼女の巣を訪ねました。「こんばんは、奥様」竪琴弾きはいつも、恐竜のことをそう呼びました。恐竜はその呼び方が面白いので、この竪琴弾きのことをたいそう気に入っておりました。
「こんばんは、音楽家さん」恐竜は巣に座ったまま、答えました。

竪琴弾きは、彼女の巣のそばに座り、竪琴を膝にのせながら言いました。
「ある森に、聖域ができたのをご存知ですか」
「ええ、知ってるわ。お役所は必死で秘密にしてるようだけど、あの人たちの魔法って、ちょっと甘いんですもの」
「月のお役所は、融通が利きすぎるところがありますからねえ」
「わたしも神獣を見てみたかったわ。すばらしく美しいんですってね」
しばし会話が弾んだあと、竪琴弾きは本題に入りました。
「それでですね、今日は少し、奥様にお願いがあってお伺いしたんですよ」
「また卵がいるの? いつもの月長石かしら」恐竜は少し首を伸ばして言いました。竪琴弾きは「いや、今日はそうじゃなくて」と、手を振りながら言いました。

「あなたの卵の中にたしか孔雀石のものがありましたよね」竪琴弾きは、竪琴をぴんと鳴らして言いました。「それを少しの間、お借りしたいんです」
「別にいいけど、何に使うの?」
「今度できた聖域に、本格的な結界を作ることを、お役所が決めたんですよ。それでその魔法に、あなたの孔雀石がいるそうなんです」
「そうねえ、それはそうしたほうがいいわ。品のない怪が入り込んでは、困りますものね」言いながら彼女は巣から立ち上がりました。すると彼女の下から、たくさんの丸い石の卵が現れました。その多くは、どこにでもあるような普通の石でしたが、それに混じって、青いのや赤いのや透き通ったのや、いろいろな光る石がいくつかありました。

恐竜は古い古い時代の生き物で、地上ではもうとっくに石になっておりました。それで彼女の生む卵も、みな石になって生まれてくるのでした。もうその卵から赤ん坊が生まれることはありませんでしたが、石の卵の中には時に醸された不思議な魔法のタネが宿っていて、それで人はよく、特別な魔法を使う時に、彼女のもとに卵を借りにくるのでした。

「こうしてずっとあっためていると、とてもいい石になるのよ」彼女はいとおしげに、小さな薄紅の卵をつつきました。
「きれいですねえ、それは紅水晶ですか。生んでどれくらい経ちます?」
「三百年くらいかしら。これがいちばん新しいの。孔雀石はこっちよ、ほら、これは千五百年くらい」言いながら彼女は、石の中から緑色の縞模様の入った、大きめの卵をつつき出しました。竪琴弾きは恐竜の許しを得てから、その卵を手に取りました。それは想像以上に重く、中で何かが熱く燃えているようでした。

「千五百年の石の卵か、これでは、半端な怪が近付くと、月を浴びるだけで燃えてしまいそうだ」竪琴弾きは、重い声で言いました。恐竜は首をのばしたり縮めたりしながら、「返すのはいつでもいいわ。その代わりまたひとつ、お願いね」と言いました。すると竪琴弾きは、孔雀石を懐に入れ、竪琴を弾きはじめました。彼は琴の音に合わせ、古代の香りのする森の風を呼び、それとともに美しい呪文の歌を歌いました。恐竜はしばし、うっとりと目を閉じて聴いていました。

ふと気がつくと、森のあちこちに、紫色の小さな菊の花が咲いていました。
「あらすてき! 紫色なんて珍しいわ。とてもいいお返しね。ありがとう」
「いえ、こちらこそ」竪琴弾きは竪琴を背中に負い、笑いながら言いました。

「それじゃ、また」竪琴弾きが去っていくと、恐竜はまた卵の上にすわり、首を巣のふちに寝かせ、目を閉じました。菊の澄んだ香りがすがすがしく、白い月の光がひとすじ、音もなく聖者の現れるように、彼女の頭を照らしました。



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2011-11-19 08:04:18 | 月の世の物語

研究所は、海を望む高い崖の上にありました。そこの空は闇に近く、星もなく、月はナイフできれいに切り落としたかのような、半月でした。

博士は、海の音の聞こえる研究室で、パズルのような形をした不思議な顕微鏡をのぞいていました。顕微鏡からは細いコードが伸び、そばにある小さな機械につながっていました。

「先生、荷物が届いていますよ」少年が入ってきて、持ってきた大きな箱を机の上に置きました。博士は顕微鏡を離れると、箱を開け、中のものを確かめました。そこにあるのは、月光を特殊加工して寒天状の棒にしたものでした。手に取ってみると棒は空気に溶けるように軽く、部屋を明るく光で満たしました。

「何見てたんです?」少年は興味しんしんで、勝手に顕微鏡を覗きました。見るとそこには、小さな黒い虫のようなものがもぞもぞ動いていました。博士は少年の無邪気なことに苦笑しながら、「君も聴いてみるかい」と言って、顕微鏡のそばの機械のスイッチを押しました。すると機械は、かすかな低い声で、うなりはじめました。
「ネ…タマシイ、ネタマシイ、ネタマシイ、ツライ、ツライ、ツライ…」
少年はびっくりして、顕微鏡から離れました。それは嫉妬に狂う怪のつぶやきでした。博士は、スイッチを切りながら「それはペストの怪だよ」と言いました。
「ペストぉ? そんな怪がいるんですか!?」少年はびっくりして目を見張りました。
「正確にはその分身だ。本体はネズミの方なんだよ。昔、これらの呪いのせいで地上世界には大きな災いが起こった」
「それは知ってます。あのときも、神様がいらっしゃって、清めてくださったんですよね」

博士は研究室に置いてある水槽の前にゆき、月の棒を細かく千切って中に落としました。水槽の中には数匹のムカデの怪がいて、大喜びで、その光る食べ物に食いつきました。
「本当に、怪が人間に戻ることなんてあるんでしょうか?」少年がムカデを見ながら問うと、博士は振り返りざまにふと窓から見えている半月に目を吸われました。博士は月を見ながらひとり言のように言いました。
「怪はね、自分が痛いんだよ。罪を犯し、馬鹿なことや醜いことばかりする汚い者がいて、それが己(おのれ)であることがつらいんだ。これを存在痛というんだが。つまりは自己の存在すること自体が痛く、苦しすぎるんだ。この自分が存在する限りその苦しみは続く。だが自分の存在を消すことなど決してできない。怪は苦しみのあまり、自分以外のものすべてが妬ましく、憎く、すべてを呪ってしまうんだよ」

「それは…、痛いですね。ぼくなんかには、たえられそうもないな」
少年は、博士の話の半分もわからなかったので、適当に答えました。博士は少年に、別の部屋で飼っている怪にも、食べ物をやってきてくれるように頼みました。少年はハイとうなずき、月の棒を何本か持って研究室を出ました。

博士は椅子に座り、水槽の中のムカデを見つめました。食べ物を今やっているものに切り替えてから、ムカデたちは以前よりだいぶ大人しくなっていました。毒を吐くこともなく、女を呪うて泣くこともだんだん少なくなってきていました。

(だが、これからの壁が越えられないんだ)博士は唇を結んで腕を組みました。どうやれば彼らの存在痛を治すことができるのか、彼は目を閉じて考えました。と、どこかで、ことり、という音がし、博士は目を開けました。振り向くと、窓の隙間から、一匹の蜘蛛の怪が入ってきていました。

「だれだ」と博士がいうと、蜘蛛はまるで女が恥じらうようにふるえ、少し退きました。博士と蜘蛛は、しばらくにらみあったあと、はあ、と蜘蛛が長い息を吐きました。博士ははっと何かに気付きました。そして蜘蛛に問いました。
「人間に、戻りたいのか?」すると蜘蛛は、神の前に懺悔をするように頭を足で抱え、かすかに、つう、と鳴きました。

「おいで」博士は蜘蛛に近付き、手を伸ばしました。すると蜘蛛は、しばしうろたえた後、おずおずと博士の手に乗ってきました。
「希望はある。前に一筋の光さえなくても、決して道がどこにもないわけではないんだ」
博士は言いながら、手の上の蜘蛛に、金色の食べ物をやってみました。



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2011-11-18 07:14:22 | 月の世の物語

森の奥に、一頭の一角獣がおりました。一角獣は森をさまよいながら、虹色の角を響かせ、笛の調べのような不思議な音楽に、森の風を導いておりました。

月から役人が降りてきて、一角獣の様子を見にきました。こんな清いものがどうしてこんなところに来たのか、とにかく月の世に神獣がいることは、役人をたいそう困らせました。少しでも彼を汚すようなことを言えば、神獣は深い傷を負い、そのまま溶けた光となって、元々すんでいた世界へと帰ってしまうのです。それは人間にとって大きな罪でした。決して汚してはいけないものが、愚か者の多い月の世にいては、たいそう大変なのです。

役人は考えた末、罪の軽い者の中からだれかを選び、彼の世話をさせることにしました。そこで脇に抱えていた帳面を開き、さて誰がよいかとささやきました。するとたくさんの名前の中で、一人の女の名前が朱色に光りました。

早速女は役人に呼ばれ、森へと連れてこられました。女は生きていたころ修道女でしたが、一度だけ神を裏切り、自らの得のために嘘をついたことがありました。その小さな汚点を、彼女はひどく悔み、死ぬまで忘れることができませんでした。そして死んでからさえも、罪びととして自ら月の世に向かい、毎日布を染めて暮らしていました。

彼女は役人につれられ、一角獣を見にゆきました。彼は、森の中の小さな池で、月光の溶けた水を静かに飲んでおりました。女は一角獣の神のように美しい姿に息をのみました。彼は全身白く、角は澄んだオパールの貝のように長く細く、瞳は凍った水晶のように深い深い青なのでした。風が吹くと角は笛のような音を鳴らし、美しい音楽は彼女の胸をやさしく抱き、そのあまりの幸福に彼女は涙を流しました。そうして神獣は、いっぺんに彼女をとりこにしてしまったのです。

女はその日から、一時も一角獣から離れることはなく、世話をし続けました。世話をするために必要なことは、役人が教えてくれました。一角獣の周りには、汚れたものが近寄らないように、役人によって結界が張られておりました。彼女はその結界が壊れないように、七日おきに指定された位置に薬をまき、香を焚きました。

一角獣は、彼女がずっと自分のそばにいることに、はじめは気付いておりませんでした。角で歌うことが好きで、その音が森の心に響き、大地の真珠を清めていく天然の仕組みの麗しさに、酔いしれていたためでした。しかしある日、突然自分の角の歌に合わせて、誰かがおずおずと声を合わせて歌っているのに気付きました。見ると、自分の後ろに、ひとりの人間の女が立っておりました。彼は最初、戸惑いましたが、女が善良で清い言葉を使うことがわかったので、何も気にすることなく、彼女がそこにいることを許しました。

長い長い間、女は一角獣の世話をし続けました。そのうちに、彼は彼女が自分に触れるのを許してくれるようになり、女は悦んで彼のたて髪にさわり、それを櫛といて、きれいに編みあげました。彼は心やさしく、彼女が彼の背中にもたれて眠ることさえ許してくれました。女は、いつしか、昔のことも、何もかも忘れていました。そしてどれくらいここにいるのかさえも、忘れてしまいました。ふたりでいるだけで、すべては美しく幸福でした。

しかし、別れのときは突然やってきました。ある日目を覚ますと、彼は姿を消していました。彼女は青ざめて結界の中を捜しまわりましたが、彼の姿はどこにもありませんでした。女は細い悲鳴をあげ、地にうずくまり、顔を伏せて泣きじゃくりました。泣きながら彼女は、指に小さな銀の指輪があるのに気付きました。

月の役人が降りてきて、彼女をなぐさめ、わけを話しました。「ここでの仕事をすべて終えたので、故郷に帰らねばならなかったそうだ」役人は呆けている彼女に、ひとくさりの呪文をとなえながら、彼女の額に指で小さなしるしを書きました。すると女は、再びすべてを忘れ、きょとんと地面に座っておりました。

長い間、清いものを守っていた森は、いつしかその性質を深く変えておりました。ひそやかに降る月光は、楽器を奏でるように、この世にあるはずのない澄んだ言葉のものがたりを、木々に語らせました。それは聴く者の胸を清める、美しい恋のものがたりでした。




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2011-11-17 07:55:27 | 月の世の物語

山里の村の、一つ山を越えたところに、深い森がありました。森の中には小さな小屋があり、黒い服を着た女がひとり、住んでおりました。小屋の前には、たくさんの薬草を植えた畑と、小さな井戸がありました。

この女は遠い昔に生きていたころ、魔女と呼ばれてやり玉に挙げられ、薪の山の中で無残に焼き殺されたことがありました。そういうむごい死に方をした者は、復讐のために怪に落ちやすいものなのですが、その女はそうとはならず、自分を殺した者たちにも特に何も言わず、黙って通り過ぎてゆくだけでした。ですが、人嫌いの性質は治らず、罪人でもないのに、月の世の森の中で、ひとり細々と薬を作りながら暮らしておりました。

この少々変わった女に、月の役人はまあいいだろうと特別に許可を与え、少し魔法を教えました。彼女は小さな壺に汲んだ月光を桶に移しそれに井戸水を混ぜ、豆真珠の粉を吹いてまじないをしました。すると水は、飴色の甘苦い匂いのするなんとも不思議な水になりました。彼女はその水を毎日薬草にやっておりました。すると薬草は月に登りたいかのように高く伸び、葉や実や根の中に金の月光をたっぷりと溜めこみ、それから作った薬は、罪人の魂の傷や苦悩を治す、とてもよい薬になるのでした。

ある日、その女のもとに、山を越えてひとりの若い女がやってきました。彼女はスカーフで顔を隠し、泣きながら駆けてきて、女の小屋の戸をどんどんとたたきました。女が戸を開いて、「どうしたの?」と問うと、若い女は目にいっぱい涙をためながら、スカーフをとりました。見ると女の右の頬が腫れあがり、そこにムカデの形をした見事な赤いあざがあったのです。若い女は泣きながら、仕事を休んで少し眠っている間に、こうなっていたと訴えました。

黒い服の女は、若い女を中に入れ、椅子に座らせました。そして薬棚の戸をあけ、白い水の入った小さな瓶を取り出しました。女がまだ泣きやまないので、黒い服の女は安心させるように言いました。
「大丈夫よ。大したことはないわ。すぐ落とせるからちょっと待ってちょうだい」
女は白い薬を布にしみこませ、若い女の腫れた頬をぬぐったあと、短い呪文をつぶやきました。するとムカデは苦しそうに動き出し、頭が少しはがれてきたところを、女はすかさずピンセットで挟み、ゆっくりと頬からはがした後、細い銀の串でムカデをぐさりと刺しました。

串刺しにされてもがき苦しむムカデを、空の瓶の中に閉じ込めながら、女は言いました。
「これは女の顔を醜くする、男の怪よ。あんたがかわいいんで、とりついたのね」
若い女は、かわいいと言われたのに少し恥じらい、もじもじと目を伏せました。女はほほ笑むと、こんどは碗を取り出して窓からさす月を汲み、それに緑色の粉薬を一さじ入れて溶かし、若い女に差し出しました。
「飲みなさい。腫れがひくのが早くなるわ」
「ありがとう。でもどうしよう、お礼を持ってくるのを忘れたわ」
「今度ここに来るときでいいわよ。さ、飲みなさい」いわれて、若い女は出された薬を飲みました。そのあまりの苦さに、若い女は目を丸くし、一瞬吐きそうになりましたが、我慢して一気に飲み干しました。

黒い服の女は、ムカデを閉じ込めた瓶をゆらしながら、ここよりずっとずっと深くて暗いところには、こんなのがうじゃうじゃいるのよ、と言いました。
「女がかわいいのが許せない男っていうのはね、けっこういるの」
それを聞いた若い女の顔が、ふと陰りました。彼女は、生きていた頃に夫を裏切ってほかの男に走り、そのために一人息子の人生を不幸にしたことがありました。しかしもともとの原因は、夫が、何事かにつけ彼女のすることにけちをつけ、常に「そんなこともできないのか」「何をしてもだめなやつだ」などと、毎日彼女を侮辱し続けていたことでした。

若い女は治療の礼をいうと、お礼をもってすぐにまた来ると言って立ち上がりました。女は、別に今度でいいのよ、と言いましたが、若い女は、「ううん、忘れるとこまるから」と言って、村の方へと駆けもどってゆきました。

女は戸口にもたれかかりながら、若い女を見送ると、干して刻んだ薬草をつめたキセルに、口から、ふっと息を吐き、火をつけました。
「これで、ほうきで空が飛べれば、完璧ね」女は、笑いながら言いました。




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2011-11-16 07:47:34 | 月の世の物語

その窯は、小さな山里の村にありました。この村は、比較的罪の軽い者か、深く罪を悔い改めた者が住むところでした。たくさんの罪びとたちが、家具を作ったり、服を縫ったりなどして暮らしておりました。月は昼間のように明るく、空は澄んだ露草色をしておりました。

ある日、女が一人、窯を訪ねてきました。陶工かと思える男が一人、庭で火をたきながら、なべで何かを炒っていました。
「ごめんくださいませ」と女は言いました。「器を一つ、いただきにまいりました」
すると男は振り向き、「ちょっと今、手が離せませんので、そっちの小屋の棚にあるのから、どれか選んでくれますか」と、窯のそばにある小屋を指さしました。

小屋の戸は開いておりました。女は礼を言って中に入り、棚に並んだたくさんの器を眺めました。どれもなかなかよい品に見えました。女があれやこれやと吟味している間に、陶工は作業を終えたらしく、小屋に入ってきました。「どれかお決めになりましたか」と尋ねながら、陶工は手拭いで汗をぬぐいました。女は紫水晶を透かした月光を汲める器がほしい、と言いました。陶工は、ああ、と声をあげ、棚の端から、三つの小さな碗をとり、小屋の真ん中にあるテーブルの上に置きました。それらの器はどれも白く、外側に豆の花の模様が描かれていました。

「まあ、きれいですね。でもなぜどれも豆の花なんでしょう?」女はひとつひとつ碗を手にとり、確かめながら、尋ねました。陶工は不器用に「薬用に月光を使うときには、土に豆の粉を混ぜてつくった碗でなければならんのです」と答えました。

そして彼は、器を一つとり、外に出て月光を汲んできました。その月光は白く、少し真珠の匂いがしました。この辺には海もないのに、なぜ真珠の香りがするのでしょうと、女はまた尋ねました。すると陶工は、しっかりした客だなと思いながら、少し困ったような顔をして、それではと、彼女を庭の畑へ案内しました。

小さな畑には、たくさんのサヤをつけた豆が、行儀よく並んで植えられておりました。陶工はサヤの一つをとり、それを手で開いて中にあるものを見せました。女は、まあ、と声をあげました。それは、豆の形をした小さな真珠でした。ここらへんでは、貝ではなく、豆のさやから真珠がとれるのだと、陶工は言いました。「では豆の粉というより、真珠の粉ですわね」女はしきりに感心しながら、再び小屋に戻り、品の吟味をはじめました。
そのとき、外側から誰かのあわてたような声が聞こえました。

「エンさん、エンさん、神さまだ。神さまがやってきたよ!」それを聞いて、男も女も、大慌てで外に飛び出し、空を見上げました。

それはそれは、大きな竜の神でした。これ以上清らかなものがあるかと思うほど白い、光る無数の鱗に全身を覆われ、たてがみは白い炎のよう、そして大きな瞳は、空を吸い込んだような透きとおるほどの露草色でした。そしてその目は、あらゆることに傷ついて耐え忍んでいる、あまりにもいたいけな子供の目のようでもありました。神は空の半分を隠すほど低く飛び、何か光るものを地上にはらはらと落としたかと思うと、まるで月にじゃれるほど高く飛びあがり、そのまま行ってしまわれました。

「すごいねえ、すごいねえ、こんなところまで、きてくださるんだよ。きっと何かをしにきたんだろうねえ」陶工をエンさんと呼んだ男はしきりに目をこすりつつ、言いました。本当に、見ていると涙さえ出てきそうな、あまりにもお美しいお姿でした。

女はそのあと、一番小さな碗をとり、それを買って帰りました。陶工は作業に戻り、炒った真珠の豆を、石臼でごりごりとひき始めました。涙がにじみ出ました。胸の中から嗚咽が膨れ上がり、唇をかみしめてそれを止めました。何もかもに逆らって荒れていた昔の自分の愚かさを、彼はもう十分に分かっていました。すべては神が導いてくれました。陶工は石臼を回すことができず、胸を抱えるように体を丸めながら、声も立てずに震えて泣いておりました。

女は月を見上げながらの帰途、買ったばかりの碗を箱から取り出し、月光を汲んでみて、それを一口飲みました。真珠の香りが言いようもないほど強く清められているような気がしました。彼女はその月光を夫のために置いておくことにし、こぼさないように気をつけながら、家に持って帰りました。




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2011-11-15 07:41:35 | 月の世の物語

「うわあ、これはまた、ひどいところだ」青年は手に持つランプで沼を照らしながら、その異様な様に驚いていました。そこはなんとも汚い沼で、泥の水はひどく黒ずみ、ときどきぶくぶくと泡を立てながら、耐えられない悪臭をあたりに撒き散らしていました。「前はこんなではなかったが。一体どういうことでこうなったのだろう」

と、青年の気配に気づいて、沼の中から、そろりと浮かんできたものがありました。青年は、一瞬目をそむけました。それは、まるで水死体のようにふくらんだ醜い男でした。男は、ゆっくりと手足を動かして、蛙のように泳ぎながら近づいてきました。

男は青年のいる岸のところまで来ると、豚のような顔をあげて、「なんですかあ?」と尋ねました。青年は男の発する悪臭に目も痛くなるほどでしたが、とにかく言いました。
「君の場所が変わるよ。ここよりは少しましなところだ。もう長いこと沼で過したので、罪の一部が許されたようなのだ」
「へえ?そうなんですか?」男は、気のない様子で言いました。「そんなに長くいましたかね」青年は彼の礼儀を知らぬ態度に耐えながら、五百年だ、と答えました。

男は青年に助けられながらやっと沼から上がりました。すると、沼の周りをかこんできた松の木たちが、互いに組み合っていた枝をするりとほどき、いっぺんに空が開いて滝のように月光が落ちてきました。それは瞬時のうちに沼を清め、水はもう泥水ではなく、山の奥でこんこんと沸く泉のように清くなりました。
お月さまはすばらしい、と、青年は感嘆し、思わず拝礼していました。

「今度はどこにいくんです?」男は森の中を青年について歩きながら尋ねました。
「この森にあるもう一つの池だよ。そこは岸辺に花が咲くし、鳥もときどきやってくる」
「へえ、それはいいですね」と、男はまるで興味もないというように言いました。青年はランプを掲げて、前を照らしながら道を急ぎました。すると男が、「それ、なんです?」とランプを指さして聞きました。青年は素直に答えました。
「ああ、これは月珠(げっしゅ)というものだ。君はあの沼の底にいた間、ずっとこの珠に助けられていたんだよ。天のお宮に用があったときに、天の醜女の君から少しいただいてきたのだ」
「へえ、そんなもんがあるんですか」

月珠は、ランプの中に浮かんでくるくる回りながら、明るい光を周りに投げていました。ふと、男の中に悪い考えが浮かびました。男は、突然青年に体当たりすると、彼の手からランプを奪い、そこから走って逃げようとしました。青年は反射的に上着のポケットから予備の月珠を取り出し、それに息を吹きかけて棒のように長くのばし、逃げていく男の頭に、ごつんと一発くらわせました。

ランプが土の上に転がり、男はどさりと地面に倒れました。青年は光の棒を元の珠にもどし、いまいましげに口をかみながら男に駆け寄りました。と、ランプの月珠が突然震えだし、一瞬あたりをまぶしく照らしたかと思うと、すうっと消えてしまいました。するといつしか、倒れていた男は、大きな灰色の泥蛙に姿を変えていたのです。

「やれ、もとのもくあみだ」青年はのびた蛙をつまみあげながら言いました。
男は生前、ある金持ちの息子でしたが、それを馬鹿に鼻にかけ、人をひどく馬鹿にし、たくさんの使用人につらい思いをさせ、そのあげく、妻だった女性を、お前なんかいない方がましだと言って、死に追いやったことがあるのです。

元の沼で、太った蛙は、また永い年月を過さねばならなくなりました。だれかの落胆した声が聞こえました。松の木は再び互いの枝を組み合い、沼を暗闇の中に隠しました。蛙は頭を水の上に出しながら、ひとしきり、バカ、バカ、バカ、と鳴きました。あんなふうに汚いことばかりを言っていたので、沼が汚れたのだな、と青年は思いました。

青年はランプにもう一つの月珠を入れ、それを高く掲げると、沼を守る松の木や風に挨拶をし、蛙に「そんなふうに、なんでも馬鹿にしてはいけないよ」と言ってから沼に背を向け、森の中を去ってゆきました。


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2011-11-14 07:33:05 | 月の世の物語

わたしたちには、小さな家が与えられることになりました。と申しても、それは月の世にあるわたしの夫の家であって、こちら側にいるわたしの家とは申せませんでした。もうよほど月日が経ちましたから、だいぶ悲しいことが減ったのでしょう。わたしは、神にお許しを願い、月に一度、夫の家を訪ねてよいことになりました。

月の世に昼はなく、いつも空に月がかかっておりました。見上げると、月は白く豊かに光り、大きな空の闇を薄藍に染めておりました。その月の光の中を、わたしはいそいそと夫の家に向かいました。夫の家は、古い廃墟の町にある、小さな一軒家でした。わたしは石畳の道を小走りに駆けながら、町でただ一つ明かりの灯っている夫の家の前に立ち、玄関の戸を黙ってあけました。

夫は、昔の面影すらなくやせ衰え、車いすに座っていました。そして彼は、まるでこの世のすべてを拒否するかのように、全身を透明なガラスの塊の中に閉じこめていました。わたしはしばし、戸口に立って、その悲しい姿を見ておりました。

わたしが夫に殺されたのは、もうずいぶんと昔でありました。その頃の夫は広い背をした美しい男性で、とても心優しく、わたしたちは深く互いを愛しておりました。その夫が、ある日突然、耳を裂くような悲鳴をあげたかと思うと突然狂いだし、家じゅうを暴れまわり始めたのです。そして彼は居間に逃げていたわたしを捕まえ、首を折らんばかりにわたしののどをしめました。そうしてわたしは、声を上げる暇さえなく、あっという間に死んでしまったのです。
夫はそのあとすぐに正気に戻り、自分のしたことに初めて気づいて、叫びをあげました。そして狂気のまま家を飛び出し、わたしの後を追うように、川に身を投げたのです。

彼が狂ったのは、彼にとりついた蜘蛛の怪のせいであったことが、後でわかりました。蜘蛛とは昔は人間であった女が、男にむごい殺され方をして、その恨みで罪を重ね続け、ついには怪となったものでした。蜘蛛は仲睦まじいわたしたちを妬み、夫にとりついて頭を狂わせ、わたしを殺させたのでした。

蜘蛛にとりつかれたのが原因とはいえ、妻を殺してしまった夫は罪びとの世にゆき、月の清めを受けねばなりませんでした。
わたしは夫に近付くと、冷たいガラスをなでながら、彼に向かって言いました。
「外に出て、お月さまをあびましょう。そうすれば、少しずつ、ガラスが溶けてくると言いますから」わたしは車いすを押し、彼を家の外へと連れ出しました。そして廃墟の町の小さな広場へとやってきました。そこにはまるで、敷石に落ちてくる音さえ聞こえそうなほど、たっぷりと月光が降り注いでいました。わたしは車いすの横に座り、ガラスの向こうの彼の横顔を見ました。彼の額に、わたしは触れたいと願いました。頬をよせ、くちづけをし、抱きしめたいと願いました。しかし夫は、決して誰も寄せつけようとせず、ガラスに閉じこもったままずっと固く目を閉じているのです。わたしは涙にぬれたほおをガラスにおしつけながら、言いました。
「もういい、もういいのよ、あなたのせいではなかったのよ」わたしたちはしばし、ふたりで月を浴びながら、何も言わず静かに寄り添っていました。

風向きが変わり、時間が迫っていることを知らせました。わたしはガラスに口づけをすると、「もう行かなくては」と夫にささやきました。そして車いすを押しながら家に戻り、夫を、少しでも月光に当たるように、窓のそばにつれてゆきました。
「ひと月したら、またくるわ。今度くるときは、なにかいいものをもってきましょう。あなたの悦びそうなもの、何がいいかしら」そう言うと、ふと誰かが小さな声で答えました。
「小さな茶碗がよいわ。それとアメシストの板もいるわ」

声の主は、いつの間にか壁にはりついていたあの蜘蛛でした。わたしは思わず立ち上がりました。しかし蜘蛛はわたしが何かを言う前に、さっと逃げていってしまいました。
「なんのつもりでしょう」とわたしは言いながら、確かにそれはよいと感じました。今度はアメシストに透かして月光を碗に汲み、軟膏に混ぜてガラスの上に塗ってみましょう。

風に帰り路をせかされながら、わたしは蜘蛛の心が何のためにそれをわたしに教えたのか、考えていました。


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2011-11-13 07:47:37 | 月の世の物語

愚者の行列が、草一本も生えぬ灰色の荒野を、鈴を鳴らしながら歩いていました。鈴はそれぞれの腰に結び付けられており、愚者は空高い月の光を浴びながら、水飴でもなめるように、しきりに口から舌を出しながら歩いていました。

老人がひとり、その様を家の窓から見ていました。その家には、少々魔法がかかっており、荒野にいる者には決してその家を見ることはできないのですが、その家の窓からはしっかりと荒野を見ることができるのでした。老人はもっている小さな磁器の器を、窓から外に突き出し、少し月光を汲んでから、それをお茶に入れて飲みました。荒野の月は、シナモンのきつい林檎茶のような味がしました。

老人の部屋には、一羽の白いオウムがいました。その目もくちばしも磨いた黒瑪瑙のようで、足には水晶の足輪をしていました。彼は老人の脇から窓の外をのぞき見て言いました。
「変わった行列ですね、見たこともない服を着てる」すると老人は、「どうやらだいぶ古い罪人のようだね」と答えました。

老人はお茶のカップを机の上に置くと、書棚の中から分厚い本を取り出し、ぱらぱらとめくりました。と、本の中のある一ページが、うす青い光をぼんやり放ちました。そのページを開いてみると、中で一つだけ、八文字の単語が青緑色に光っていました。老人は、「ほお…」と言いながら、眉を寄せました。「どうしたのですか」オウムは尋ねました。
「もう一万年は、ああして歩いているようだ。一万年前といえば、確か、とてもひどいことがあったんだよ。あの頃の人間は、神様のお気持ちも知らず、山ほど馬鹿なことをやっていたんだ」言いながら老人は本を書棚に戻し、窓のそばに戻りました。

「馬鹿なこととはなんです?」とオウムが尋ねました。老人は、「あそこにいる愚者はね、世界を三度滅ぼしたんだよ」と言いました。するとオウムは驚いて声をあげました。
「世界を三度も!? どうやったらそんなことができるんです?」老人は、答えました。
「遠い昔、神様が『世の救い』と名付けて世界の真ん中に植えた桃の木を、彼らは伐って、風呂釜の薪にしようとしたのだ。彼らは三度木を伐ろうとしたのだが、なぜか伐ろうとすると斧がそれをいやがり、三度とも、伐れなかったそうだ。」
「それだけですか?」
「その桃の木には、世界を愛する清い神がすんでいて、それがある限り人々は幸福に暮らせるというものであったそうだ。そういう神聖なものには高い魔法がかかっているものなんだよ。つまり人がその木を伐ろうとしただけで、伐ったことになり、すなわち世界を滅ぼしたことになってしまったのだ」

オウムは翼をバタバタさせながら窓から身を乗り出し、行列を見、それから空を見上げました。なんとも明るい月で、まるで白く燃えているようでした。「ちょっと見てきます」オウムはそう言って翼を広げ、窓から飛び出しました。

オウムは熱いとさえ感じる月光を浴びながら、藍色の空を旋回し、愚者の列に向かって低く降りてきました。すると愚者たちの行列はふと足をとめ、一斉にオウムを見上げました。ふうふうふう、ひやひやひやと、彼らはオウムを指さして笑いました。彼らの目も口腔も、まるで石炭をつめたように真っ黒でした。なにやら寒いものを感じ、オウムはあわてて老人のいる窓に向かいました。水晶の足輪をしていると、こちらからでもその窓を見ることができるのです。

あわてて帰ってきたオウムに、老人は言いました。
「愚者というのは、愚者というものであって、もう人間ではないのだ。あまりにも愚かなことをしすぎると、そうなってしまうんだよ」

一万年前の大昔、彼らが桃の木を伐ろうとしたのは、神々に嫉妬したからだそうでした。彼らは神々を世界から追い出そうと神殿を壊し、多くの人間を殺し、侮辱し、世界に凄惨な憎悪の嵐を呼んだのでした。そして彼らは暗闇の底あまりに深く落ち、愚者となって永遠に荒野をさまよわねばならなくなったのです。

「むごいですね。あの人たちは、許されることがあるでしょうか」オウムは聞いてみました。老人は、「さあ、永遠にも数種類あるからね。でもああして月の君が怒っている限り、許されることは無理だろうね」と、窓から月を見ながら言いました。

そして老人は月光のお茶を一息に飲み干すと、壁から一枚の絵を外すように、ゆっくりと窓を閉めました。





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2011-11-12 09:05:04 | 月の世の物語

暗く深い森の中を、ふたりは歩いていました。
「ずいぶんと奥ですねえ。これでは月も届かぬはずだ」ふたりのうちひとりは、二十歳を超えた青年のように見え、もう一人はまだ十二に届かぬ子供のようでした。子供は小さな瓶を持っており、それには月光を溶かしこんだ金色の酒が入っていました。その酒瓶は強い月光を放ち、その光を見ると畏れるように木々が枝を下げ、ふたりのために行く道をあけてくれるのでした。子供は酒瓶を掲げながら、青年に言いました。

「月が届かぬわけではないんです。彼のいるところには、闇のように濃い森の梢をすいて、一筋だけ月光が届くことになっているのです。でもその人は月光をいやがって、決して自分の穴から出てこないのです。あれやこれやとわたしもやってはみたのですが、どんなことをしても彼は出てこようとしないのです。このままでは…」
「あまりいいことにはなりませんね」青年は、子供の言葉を受け、続けました。「して、彼はいったい何をしてこんなところにいるのです?」

子供は、さも悲しそうに、「女人を、殺してしまったのです」と言いました。「彼は生前、ある高名な絵師の弟子でしたが、同じ弟子の中に、ひとり際立って才能の高い者がおり、それが女人だったのです。彼女は特に水に泳ぐ鯉の絵を描くのが上手く、まるで本当に泳いでいるようだと、よく皆に褒められていました。彼は外面はよき友人のふりをして、内心彼女の才能をひどく憎んでいました。そしてある夜、彼は酒の勢いで彼女に夜這いをかけ、無理やり辱めた揚句、井戸の中に放り込んでしまったのです」

青年は、ため息をつきながら額をもみました。女に嫉妬して殺す男など、数えきれないほどいるのを、年長の彼は知っていました。そしてこのように女性を苦しめすぎた男は、なぜか月光を嫌がる傾向があることも、知っていました。
「とにかく、どのように工夫しても、彼が月光を浴びようとしないので、もうどうしていいかわからず、こうして相談しているのです」子供がそういうと、青年は、目の前の枝を払いのけながら言いました。「お月さまの導きがありましょう」

そう言っているうちに、ふたりは森の奥の小さな池につきました。池の水面には、ただ一筋、細い月光がさし、池の水にきらきらと溶けておりました。子供は、「あそこです」と言いながら指さしました。それは池の向こうにある土手に開いた小さな穴でした。
「かわうその穴のようですね」と青年が言うと、「そうです」と子供は答えました。

男は今、一匹のかわうそとなって、池のふちの穴の中に棲んでおりました。耳を澄ますと、かすかに、「わたしではありません、それをやったのは、わたしではありません」とくりかえすか細い男の声が震えて聞こえました。

「かわうそさん、今日も来ましたよ。出てきてください」子供が呼びかけると、男の声は消え、ずるりと何かをひきずるような音が聞こえました。少し待ちましたが、かわうそは出てこようとはしませんでした。子供はふっと息を落とすと、光る酒瓶を、青年にわたしました。青年はうなずくと、池のそばにしゃがみこみました。そして瓶の栓をあけ、酒を一滴、池に落としました。そしてぶつぶつと口の中で何かを唱え、二本の指で酒のおちた水面をかきまわしました。するとそれは水の中でもやもやと大きくなり、やがて一匹の光る鯉が現れました。

鯉が泳ぐと、月光が雫玉のように跳ねまわって、森のあちこちを火花のように照らし、その光はカワウソの穴の中も照らしだしました。するとかわうそは、ひっと声をあげて、逃げるように穴から出てきました。かと思うと彼は、池に金の鯉がいるのを見て、きーっと、耳を裂くような悲鳴をあげました。なぜならその鯉は、あの女人の描いた絵の中の鯉、そっくりであったのです。

「おやまあ」と青年はいいました。「お月さまは悪戯をなさる」
「でもこれで、ようやく月光をあびてくれました」子供はほっと息をつきました。そして青年にいいました。「やり方を教えてください。あの鯉も寿命はそう長くないようですから。次からはわたしがやらないと」

わかっているというように、青年はうなずきました。



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2011-11-10 08:01:43 | 月の世の物語
そこは月星さえもない闇の中でした。そう遠くないところから静かな波の音が繰り返し聞こえ、濃い潮の匂いがまずい酒のように風に混じって流れていました。海があるのでしょう。こんなに波がうるさくては眠れやしないと、誰かが暗闇の中で考えていました。
「やれ、これもおつとめとはいえ、つらいものがありますな」
どこからか声がして、愚痴るように言ったかと思うと、何かぱちりとスイッチを押すような音が聞こえました。すると一瞬のうちに闇は消え、青空と砂浜、そして遠い海の風景が現れました。しかし太陽は見えず、もちろん月星もなく、空はまるで安物のペンキで塗った壁のようでした。

ひとりの竪琴弾きが、小さな竪琴を背負い、細い立木のように砂浜に立っていました。彼は足元に横たわっているものを見てしゃがみこみました。そこには半分砂にうずもれた白骨の死体がありました。竪琴弾きはポケットから不思議に光る月長石の玉を取り出し、それを頭蓋骨の空っぽの眼窩に押し込みました。「今日は右目にしましょう」竪琴弾きはそう言うと、「立ちなさい」と白骨に言いました。白骨は、ぎりっという音をさせながら苦しげに動き出し、やっと砂の上に半身を起して、重いため息をつきました。

白骨は、月長石の目で、久しぶりに見る世界を見回していました。竪琴弾きは背の竪琴を手に持ち、演奏の前のような姿勢をとりながら、いつものように先ずは白骨に尋ねました。
「さてあなたはなぜ、このように白骨のまま、永遠に砂に埋もれていなくてはならないのでしょうか」
竪琴弾きが聞くと、骨の女は風の混じる声でしぶしぶと答えました。
「自分の娘をふたり捨てたためです」
竪琴弾きは琴糸をびんとはじき、女の言葉につけたしました。
「そうです。まだ世間のことなど何もわからぬ少女をふたり、あなたは見知らぬ町の雑踏の中で見失ったふりをして、一片の迷いさえなく捨てて行ってしまいました。娘ふたりはあなたを泣きながら探していましたが、そこを性質の悪い男につかまり、娼館に売られてしまいました。ふたりのうち姉は若くして自ら命を絶ち、妹は散々働かされた揚句、使い物にならなくなると追い出され、孤独のうちに、路上で餓死しました」

風が、頭蓋骨の中をとおり、ひいというような音が響きました。白骨の女は、特に何も思わないという様子で、ぼんやりと空を見上げていました。
「母親だというのに、なぜあなたは自分の娘を捨てたのです。どんな女がそんなことをできるのかと、お月さまさえ怒っていらして、仕方なくわたしがこうして、ときどき月の光を持ってこなければならないのです」
白骨は口の中につまった砂をほじくりだすと、生きていたときとそっくりな言い方で、言いました。
「あんなもの、なんの役にもたたないんですもの」

「ほお!」と竪琴弾きは言いました。そしていましがた聞いたことを清めるように、竪琴を、びんと鳴らしました。白骨の女は続けました。
「全く、世話がかかるだけで、何にもできないんですもの。料理をやらせたって、そうじをやらせたって、何一つまともにはできないのよ。あんなばかなものはいらないんです。亭主が死んで、商売もだめになって、わたしひとり生きてくのさえ苦しかったのに、余計なものがふたりもいたんです。もういいでしょう。これくらいで」

竪琴弾きは何も言わず、しばし単純な旋律を繰り返し弾いていました。口元は笑っていましたが、帽子のひだの影に隠した瞳には怒りの色が見えました。やがて竪琴弾きは弾くのをやめ、すっと立ち上がりました。白骨の女は肋骨につまっている砂がとても重苦しいと訴えました。竪琴弾きはため息をつくと、黙って彼女の右目から月長石を取り出しました。するとまた、白骨は動けなくなり、貝殻のように軽い音をたてて砂の上にたおれました。

竪琴弾きは、竪琴を再び背負うと、これもつとめだといいながら、白骨を正しい形にきれいに並べました。そうしながら、白骨にささやきました。
「ここよりもっと深いところに落ちた罪人さえ、あなたのしたことは決してまねできないと言いますよ」
そして彼は立ちあがると、風の中の、自分にしか見えないスイッチを押しました。世界は再び暗闇となりました。竪琴弾きの気配はそれと共に消え、白骨は首を傾げるように倒れたまま、空っぽの頭の中でじんじんと考えていました。

(だれもなにもわかってないのよ)



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