ハワード・ホークス監督がジョン・ウエインに初めて老け役を演じさせ、予想外の演技力を引き出したのが西部劇の傑作「赤い河」である。
東部へ牛を運ぶ過酷なチゾルム・トレイルの途中、暴君のように振舞う老牧場主(ウエイン)に耐えかねたカウボーイたちが反旗を翻す。かつては早撃ちで鳴らした牧場主だったが、先に抜いた若いガンマンの弾にはじかれた木片が利き腕の手のひらに突き刺さり、銃を握れなくなってしまう。硝煙が上がり、ウエインが右手を挙げるとそれに木片が張り付いている、考えてみればただそれだけの仕掛けなのだが、1948年製作のクラシック映画にしてははっとするほど印象的なシーンだ。
これが19年後の同じホークスの作品、「エルドラド」(67年)にも登場する。アル中から立ち直りかけた保安官(ロバート・ミッチャム)が、敵対する大牧場主一味がたむろしている酒場へ乗り込む。カウンター下に隠したライフルへ手を伸ばそうとしたバーテンへ威嚇射撃をお見舞いすると、恐る恐るひっこめたバーテンの手のひらには弾にはじかれたカウンターの木片が突き刺さっている-。
「赤い河」40秒あたりから。
「エルドラド」1分30秒から。
ハンフリー・ボガート主演の「三つ数えろ」(46年)に、こんなシーンがある。犯人を追いかけて屋内に入ってきた探偵マーロウ。裏口近くに立っていた男へ、ヤツはどっちに行った、と尋ねるとそこから出て行ったよ、と答える。出て行こうとして、気づくマーロウ。お前が先に出ろ、と男を追い立てる。必死で抵抗する男。無理やり追い出すと、男は待ち受けていた仲間の銃撃で蜂の巣にされてしまう。
「エルドラド」にも同じシーンがある。ヤツはどっちに行った?とジョン・ウエイン。裏口近くに立っていた男がそこから出て行ったよ、と答えるのだが、お前、見た顔だな、と見破られ、無理やり外へ出されると、哀れ蜂の巣にされてしまう-。
ホークスの映画はこんなデジャ・ヴ(既視感)の連続だ。それがホークス自身の体質によるものなのか、それとも意図して使い回されているのか、長い間の疑問だったのだが、89年に出版された彼のインタビュー本「ホークス映画を語る」(青土社刊)の中に収録された、次のような大胆な発言はそれを一気に解決するものだった。
「もし映画を一本作り、それが一番儲かったのなら、人がそれを好んだということであり、同じ映画の別の版をつくりたくなるものだ。それに、監督が自分の好きな物語を撮り、その出来上がった映画を観て、よくこう言う。『今度もう1回やったら、もっとうまくやる。』だから、私はもう一度やった。違う方法でまたやり続けるつもりだ。」
このホークスの発言は、聞き手に「エルドラド」(67年)は「リオ・ブラボー」(59年)のリメイクですね、と言われて気色ばんでのものだが、確かにこの二本に関してはその類似性がよく語られる。また、二本の脚本家が同じ(女流SF作家リー・ブラケット)というのも論じやすい。
けれども、ブラケット女史がノー・タッチの「赤い河」と、彼女が書いた「ハタリ!」(62年)の人物相関図もかなり似ているのだ。ジョン・ウエインとその世話を焼くおしゃべりの番頭的キャラクター(ウオルター・ブレナンとレッド・バトンズ)。若い娘を張り合う若者二人。ところが、「ホークス映画を語る」によれば、当初「ハタリ!」にはクラーク・ゲーブルのキャスティングが予定されていたそうで、最終的にはギャラと制作費の関係で流れたのだが、ウエインとゲーブルはフランス人とドイツ人(ジェラール・ブランとハーディ・クリューガーが演じた若者二人)の役だったという。これが本当なら、「ハタリ!」を初めて観た時から、なんとなくおかしく思えていたこと-アフリカの男所帯に美女(エルザ・マルティネリ)がやってきたというのに、彼女の恋愛の対象になるのがなぜジョン・ウエインだけで、ライバル不在なのか?若者二人が真っ先にマルティネリにのぼせたっていいはずではないか?という素朴な疑問が解けるのだ。
「赤い河」の腕比べ
「ハタリ!」(1分25秒から)