ジョン・ウエインは1907年アイオワ州ウインターセットに生まれた。
本名マリオン・マイケル・モリソン、父はアイルランド系の貧しい薬剤師だった。
1913年、破産したうえ体をこわした父の転地療養を兼ねて一家はカリフォルニアヘ移住する。
マリオン少年は“デユーク(公爵)”と名付けた大きな犬を連れて学校へ通った。
そのうちに少年の方が犬より背が伸び、デュークは少年のニックネームに変わった。
南カリフォルニア大学へ進学し、フットボールのスタープレイヤーとなったデュークは、夏休みの間、近くの撮影所で大道具係や雑用係のアルバイトを見つけた。
そこで知り合った新人監督のジョン・フォードと意気投合、エキストラとして映画に出演するようになる。
とはいえまだまだパイ卜気分でフットボールの方が第一だったのだが、ある日サーフィンの最中に波にさらわれて肩を痛め、選手生命を断たれてしまう。
夢を失ったデュークは仕方なく映画の仕事に本腰を入れることにした。
再びフォードのセッ卜で働き出したデユークヘ、次作の主演男優を探していたラオール・ウォルシュ監督が目をつけた。
当時としては破格の製作費をかけた超大作西部劇「ビッグ・トレイル 」(1929年)はデュークにとってスターヘの輝かしい第一歩となるはずだった。
ジョン・ウエインという芸名もついた。
ところが、間の悪いことにアメリ力全土を大恐慌が襲う。
70ミリの新方式で撮影された「ビッグ・トレイル」を映写するには大スクリーンと専用の特殊レンズを必要としたのだが、不況で経営の苦しい映画館はそれを導入する余裕がなく、「ビッグ・トレイル」は作品の出来とは関係のないところで興行的に大失敗しまった。
これによりデュークのキャリアは大きくつまづき、以後十年間の長きに渡ってB級映画出演を余儀なくされてしまう。
もちろん、30年代後半までにはヒット・シリーズを持ってそれなりの人気と地位を獲得、名誉回復の機は熟しつつあった。
そんななかジョン・フォードが彼に「駅馬車 」(39年)主演の話を持ち込む。
フォードの厳しい指導のもと、帰り新参のデュークは孤独なアウトロー青年、リンゴ・キッド役に無心で取り組んだ。
結果、「 駅馬車」は誰でも知っている通り、驚異的なヒットを記録したのだった。
(この項つづく)
リンゴ・キッド見参!