院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

屁理屈としてのシェーベルクの12音音楽(音楽の根本問題・2)

2014-03-23 00:11:52 | 音楽
 無調音楽の台頭に反対するかのように、シェーンベルクは有名な(1オクターブを半音ずつに刻んだ)12音音楽を提唱した。

 12音音楽のルールは、12音はすべて平等であるから、平等に用いなくてはならない。すなわち、12音のうち同じ音は12音すべてを使用してからでないと再び使ってはならないというルールである。無調音楽と同じく調性を無視しているが、そこに一定のルールを持ち込んだ。きわめて人工的なルールだけれども・・・。

 20世紀の初め、12音音楽はある程度受け入れられ、シェーンベルク以外にも作曲を試みる者がけっこういた。

 だが、調性を無視しようが無視しまいが、12音がとびとびの音であることには変わりがない。(とびとびであることにおいて調性音楽を決定的に超えるものではない。)また、1オクターブを12に分けることも恣意的である(半音音階)。全音ずつ6つに分けることも、権利上同じだからである(全音音階)。半音のまた半音まで細かく区切って24音とすることも可能である。
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..12音音楽は無調音楽のアンチだったかもしれないが、所詮、屁理屈だったと思う。

参考:アニメ「鉄腕アトムのテーマ」Youtube より。(前奏に入る前の音列が全音音階になっている。)

楽譜はなぜとびとびなのだろうか?(音楽の根本問題・1)

2014-03-22 06:02:27 | 音楽

プラムレコードHPより引用。)

 今回の話はなかなか文章では伝えにくいテーマだ。音楽を記号化したもの、すなわち楽譜はなぜ音がとびとびなのだろうか?(5線紙に別々の音符で表せるのだろうか?)

 もうすでにここで分かりにくくなっているのだが、楽譜には半音までしか書かれていない。半音のそのまた半音が音としては存在するはずである。そのまた半音もある。すなわち音とは周波数が連続的に移動しうるモノであり、とびとびである必要がない。

 胡弓やバイオリンなら、とびとびでない音の連続を出せるが、ピアノは楽器の構造からして、すでにとびとびの音列しか演奏できない。音を連続的に演奏できる胡弓やバイオリンでも、わざと一音ずつとびとびに演奏する。

 長調と短調の違いは、全音と半音の組み合わせが少し違うだけである。ここですでに、全音と半音という考え方が、音楽の音がとびとびであることを前提にしている。

 ビブラートや「しゃくり」があるではないかという意見もあろうが、それらはあくまでも、とびとびの例外というか装飾としてある。

 音楽は音をとびとびに発すると決まっているのは、なぜだろうか?

ギターはジャズに向かない

2013-12-13 05:30:45 | 音楽
 ジム・ホールやウエス・モンゴメリーと聞いて誰だか分かる人は相当なジャズ通である。

 いずれもジャスギターの最高峰で、往時には大いに持てはやされた。だが、私には彼らの演奏が少しも面白くなかった。上手だが心に訴えないのである。

 演奏を譜面に起こすと、良い演奏をしている。そのため私は、ギターという楽器がジャズに向かないのだと考えた。だが時はジャズギター全盛期で、若造だった私は「ジャズギターはつまらない」とは大声で言えなかった。

 私がジャズにはまったころから50年近くたってみると、やはりギターはジャズには向かないことがはっきりした。それが証拠に、現在まで残っていない。ウエス・モンゴメリーの「オクターブ奏法」は神技と言われていたのだ。今それを見直そう聴き直そうという空気は微塵もない。

 ジム・ホールが83歳で死去したとの報に接して思い出した次第。

Pat Metheny & Jim Hall

(お爺さんのほうがジム・ホール。あまりに地味だと思われませんか?同じフレーズをピアノやトランペットでやったら、ずっと引き立つはずです。)

歌番組は一流歌手に合唱をさせるな!

2013-08-06 04:12:19 | 音楽
 最近のテレビの歌番組は分からない。EXILEのように激しい踊りを伴っていたり、西野カナのように(壁は高いほうが挑戦し甲斐があるというような)道徳の教科書みたいな歌を良いとは思わない。

 テレビ局の方もそれを承知していて、和田アキ子や川中美幸のような私たちでも知っている一流歌手を出演させる番組を別に作っている。

 ところが、最近とみに気になるのが、彼ら一流のソリストに合唱をやらせることが目立つことである。ソロと合唱とは根本的に違う。合唱をやらせるのはソリストに失礼である。金を支払えばよいというものではない。なによりも個性がぶつかり合ってサウンドが台無しになってしまう。

 ソリストにはそれぞれの個性があり、それらは食べ物で言えば寿司だったりビフテキだったりウナ重だったりする。

 だが、寿司とビフテキとウナ重をごちゃまぜにされると、まずくなる。テレビ局はソリストに合唱をやらせるべきではない。一流のソリストが合唱している姿は豪華でも何でもない。プロデューサーの悪趣味が露呈されるだけである。(ソリストのほうも合唱を断るべきである。)

(紅白歌合戦の最後の合唱は、お祭りだから仕方がないとは、いつぞや書いた。)

日本民謡に地域差が見られないのはなぜか?

2013-08-05 05:06:14 | 音楽
 名古屋市長の河村さんの話し方で知られる「みゃぁみゃぁ言葉」名古屋弁は、名古屋市内でしか使用されない。まして名古屋から電車で1時間の当地、豊橋市の言葉は名古屋弁とは似ても似つかない三河弁である。「食べなさい」を「食べりん」という。名古屋弁なら「食べやぁ」となる。

 名古屋はもちろん愛知県内で「だ」を「や」で置き換える「そうやねぇ」という言い方はしない。ところが長良川を1本隔てた岐阜県では「そうやねぇ」を使用する。

 川は人々の移動を大いに妨げてきたのだろう。川の向こうとこちらで(距離的には遠くないのに)言葉が違うのだ。

 ところが日本民謡は、東北であろうと九州であろうと、サウンドが同じなのはなぜか?川一本隔てれば言葉が違った時代から日本民謡はあったのに、それらはどこでも同じ音階(47抜き音階)を使用し、コブシを効かせる。そして、アラヨーイといった囃し言葉が入るところも共通している。

 47抜き音階(ヨナ抜き音階)とは、ドレミ・・のうち4度と7度(すなわちファとシ)を抜かす音階である。現在でも演歌はこの音階で作られている。

 ひとり沖縄だけが別の音階、すなわち26抜き音階を用いる。ピアノでもギターでもよいから、レとラを抜いて適当に弾いてみてほしい。沖縄的なサウンドになるはずである。

 方言が地方によってかくも違うのに、民謡のサウンドが同じなのはなぜだろうか?研究した人はいるのだろうが、私のところまでは情報が来ていない。

深夜放送のテーマ曲

2013-07-28 04:06:53 | 音楽
 中学生の時からラジオの深夜放送を聴くようになった。勉強をする気にもならず、かと言って寝る気にもならず、家族が寝静まったあと深夜放送だけが世の中との接点だった。

 聴く人が少ないから、番組は詰まらなかった。広告費も安かったのだろう、渋谷や新宿のレストランの宣伝をやっていた。人気深夜番組「オールナイトニッポン」が開始される数年前のことだった。

 夜中の1時半ころの番組で、オープニングにかかる耳慣れない音楽があった。私は、すばらしいと思った。だが、番組ではその曲の題名を言わない。

 そのオープニングの音楽が聴きたいばかりに、深夜1時半まで起きていることがあった。その音楽は、中学生の私には、ものすごいインパクトだった。世の中にはこんなにすカッコいい音楽があるのだ、と大げさではなく思った。

 あとになって知ったが、この音楽はデイブブルーベックの「テイクファイヴ」というジャズだった。後にも先にも、こんなに音楽に惹かれたことはない。なんと言っても、人を夜中1時半まで起こしておく力があるのだから。

 以来、私はモダンジャズにはまっていくことになった。

「合歓の郷」の音楽

2013-05-10 00:10:39 | 音楽
 タダ券をもらったので逸見マリさんのディナーショウに行ったことがある。大ヒットした「やめて~」を、出し惜しみせずに最初に歌ったのは好感が持てた。

 5,6名からなるバックバンドを連れてきていたが、どこで拾ってきたのだろうか、その下手さに驚いた。学生バンド以下だった。

 ライブハウスに何度も行ったが、飲食が主で演奏が従なためか、上手いバンドがいない。どこを捜しても二流ばかりなのだ。

 名前が通った演奏家は上手いが、飲食しながらは聴けない。無名でも上手い演奏者がいるはずだ。

 捜しに捜してやっと見つけたのが鳥羽の「合歓の郷」だった。「合歓の郷」は100万坪の敷地に、レストランやクラブやホテルがある総合レジャー施設である。バブル期より前にヤマハが始めた他に類を見ない豪華施設だ。(その後、三井不動産に買収された。)

 ヤマハの伝説の社長、川上源一の声掛けで鳥羽の「合歓の郷」と静岡の「つま恋」が造られた。当時は誰が使用するのか疑問を覚えるような贅沢な施設で、利用料はものすごく高かった。

 正会員になるには昭和50年代で、200万円の入会金が必要だった。会員になれるのは、よほどの金持ちだった。(現在の制度や金額は知らない。)

 「合歓の郷」に一度は行ってみようと、個人の資格で行ったことがある。(会員でなくても、それなりの金額を支払えば利用することができた。)

 値段が高いし広いから、混んでいない。サービスは一流だった。

 そこでバンドの話に戻るが、敷地内に数か所ある飲食ができるクラブにはバンドが出ていた。そのバンドが、驚くほど上手いのである。

 演奏者は無名である。それでいて高い技術と芸術性をもっていた。コマーシャリズムに乗らず、ビッグネームではなくとも上手い演奏者はこんなところにいたのだと目を開かせられた。さすがに音楽のヤマハの経営だと感心した。

 著名な演奏者なら大ホールに聴衆を集めてコンサートを開くことができる。しかし、私が求めていたのは大ホールではなく、小さなクラブで一流の演奏を聴くことだった。「合歓の郷」は見事にそれを実現してくれた。

 そのときに私が学んだのは、「相応のお金を出さなくては、いい演奏は聴けない」という当たり前のことだった。

「春一番」の穂口雄右さん、JASRACに反旗

2013-04-19 01:11:09 | 音楽
 5日前、私はこの欄でJASRAC(日本音楽著作権協会)の市場独占による殿様商売を批判した。そうしたら、キャンディーズのヒット曲「春一番」の作詞作曲者、穂口雄右さんが、この曲に限りJASRACから脱退したとの報道があった。

 穂口さんはJASRACの横暴な態度に嫌気がさし、「春一番」を商業的に使用したい人は穂口さんと独自に契約を結べるようになった。

 カラオケ店(正確にはカラオケ会社)は、かつての宿敵だったJASRACの強大な権力をまだ敵に回したくないため、現在、日本のすべてのカラオケ店で「春一番」だけが歌えないようになっている。

 今後、穂口さんに追随する作詞作曲家が出てくれば、JASRACの独占はなくなり、カラオケ会社は安いほうの著作権協会と契約することになるだろう。事務手続きも独占のJASRACはきわめて複雑なのだそうだ。

 私はJASRACに対抗しうる著作権団体が出てくるとよいと思う。穂口さんの行動がその呼び水になることを願っている。

音楽産業の隆盛・JASRACの力

2013-04-14 00:01:42 | 音楽
 昨年はわが国の音楽産業の収入が世界一になったそうだ。報道ではCDの売り上げが伸びたからだと説明されていたが、実態は違うだろう。音楽をインターネットからダウンロードする人が飛躍的に増えたのに、いまさらCDの需要が伸びるはずがない。

 音楽産業の収入が世界一になったのは、JASRAC(日本音楽著作権協会)が利権の網をインターネットにかけることに成功したからに他ならない。

 音楽という著作物を利用して商売をしている人に、著作権料を請求するのは当然である。音楽で商売をしている人とは、大は放送局や演奏会、小はカラオケボックスまである。だいぶ前に零細カラオケ業者が著作権料を払わないことがあった。なんとJASRACはそれを告発し、検察が零細カラオケ業者に店に立ち入ってカラオケの機械を使用禁止にした。

 客に酒食を出すことは音楽とは関係がないので、検察はテーブルや椅子には手を付けず、カラオケの機械だけに漁網のような網をかけて封印した。使用禁止の命令を出すだけでなく、実際に網をかけてテレビで報道させたのは、見せしめにしたかったからだ。検察を誘導したのはJASRACである。このようにしてJASRACは、多い時には年に3000件もの「著作権違反」を摘発した。

 問題なのはJASRACのシェアが99%で、ほとんど独占企業であることだ。独占だから著作権料を自由に決めることができる。そして、案の定、著作権料が法外に高い。カラオケでまれに歌われるような曲を一曲作っただけで、その曲の作曲家と作詞家は一生食べていける。

 だから、作曲家も作詞家もJASRACに文句を言わない。でも、JASRACの経理状態を詳細に調べれば、作曲家、作詞家の取り分とは別にJASRACが相当にピンハネしている可能性がある。こうした活動に法的な根拠を与え、理論武装しているのはJASRACに天下った文科省官僚たちである。

 JASRACの強欲ぶりはディズニーのミッキーマウス商法と似ている。ディズニーのキャラクターは、とっくに著作権が切れた「古典」であるにもかかわらず、ロビー活動で「著作権延長法」をむりやり成立させて、未だに著作権を主張している。

 そればかりか、ディズニー社はキャラクターに手を加えることを許していない。つまり、著作権料を支払っても、無断でミッキーに帽子をかぶせるなどの改変をしてはいけないのだ。こうしたディズニー社の姿勢は、アメリカで多くの批判を浴びている。

 わが国でのJASRAC批判はまだ一部にとどまり、大多数の国民が知らないことだから、ささやかながら私がここで批判しておく。著作権保護に名を借りて、「文化」で私腹を肥やすことは許されるはずがない。

ストリートミュージシャン

2013-04-03 00:42:12 | 音楽
 私のわずかなヨーロッパ経験だが、ストリートミュージシャンを見かけた。

 一件は、パリの地下鉄と地下鉄を結ぶ地下道に、一人でアルトサックスを吹いている男がいた。けっこう上手かった。音が地下道に反響して、エコーが利かせてあるようだった。男の前には容器が置いてあり、お金を入れるようになっていた。

 もう一件は、ベルギーのアーケードで歌っていた聖歌隊である。若い男女が美声を響かせていた。アカペラで巧みにハモり、これもアーケードに響いて、とてもよい演奏をしていた。やはり前に、お金を入れる帽子が置いてあった。けっこうな人がおひねりを入れていた。私も入れた。

古くは新宿西口広場に「フォークゲリラ」というのが出て、ギターでフォークソングを歌っていた。聴衆が詰めかけるので、通行の邪魔になると、しばしば警察に排除された。「フォークゲリラ」は抵抗した。

 「フォークゲリラ」はお金を取らなかった。お金が取れるほど上手くもなかった。だから、通行の邪魔になるだけで、排除されても仕方がないのに、歌う側も聴衆も警官に抵抗した。

 私は彼らと同世代だったが、警官隊に抵抗してまでなにを主張したいのか分からなかった。そこには自己満足と自己顕示欲しか読み取れなかった。

 現在でも街なかで演奏している若者たちがいる。彼らはお金を取らない。だから、彼らをストリートミュージシャンと呼ぶには抵抗がある。彼らは総じて下手だ。

 街なかで演奏して、多くのファンがつき、とうとうスターダムにのし上がったデュオに「ゆず」がある。彼らは横浜の伊勢佐木町で歌っていたが、お金を取っていたのだろうか?そうでないなら、「ストリートミュージシャン出身」という彼らの肩書には賛同しかねるのだが、どうか?

オーケストラにおける指揮者の役割

2013-02-26 00:01:01 | 音楽
 私はオーケストラは指揮者と事前に練習とコミュニケーションを重ね、本番はその成果を表すものだと思っていた。事実そうなのだが、それだと新人指揮者コンテストが成立する理由が分からない。

 新人指揮者コンテストには、オーケストラとの事前の練習がないからだ。オーケストラと初対面で、前で指揮棒を振っても指揮者の巧拙なんか分かるはずがないじゃいかと、これまで思っていた。

 先日、テレビでイスラエルの指揮者が指揮法に関する解説を行っていた。カラヤンとか有名な指揮者の演奏場面をビデオで写して、ほらここがこうなっているだろうと事細かに説明した。それによって、指揮者に対する私の長年の疑問が解けた。

 イスラエルの指揮者によれば、オーケストラは指揮者がいなくても演奏ができるのだという。それではなぜ指揮者が必要なのか?

 イスラエルの指揮者はメトロノームみたいな指揮者を例に出した。そのような指揮者による演奏は確かにつまらなかった。イスラエルの指揮者によれば、メトロノームのような指揮者は権力を握りたがる。だから、全部思い通りにオーケストラを支配したいのだという。

 その結果、オーケストラ自身がもつ個性や独創性を殺してしまって、演奏がつまらなくなってしまうのだという。

 そこで、たとえばカラヤンの指揮法を見ると、ぜんぜんメトロノームではなく、体の動きがあいまいで、極端な場合、オーケストラはどこで音を出せばよいのか分からないような指揮法である。

 イスラエルの指揮者によれば、こうしたあいまいさがオーケストラの創造性を刺激し、新鮮な音楽が造られるのだという。ああ、そうだったのか!指揮者はただのメトロノームではなく、身体の動きによってオーケストラの良さを引き出す役目をしていたのか。

 それなら、新人指揮者コンテストが成立しうる。それにしても、指揮法とはなんて微妙で深い作用なのだろうかと、あらためて驚嘆した。

 指揮者の存在意義について、私は中学生の時から疑問に思っていた。なぜ指揮者に一流と末流があるのか?同じオーケストラが指揮者によって別の音楽を奏でるのか?しかし、誰もその疑問に答えてくれなかった。50年を経て、ようやく説得的な回答に出会った。けれども、50年間も説明されなかったということは、もしかしたらイスラエルの指揮者の説明も一面な見方に過ぎないのではないかとの疑惑が、今度は新たな疑惑として浮上してきた。

早稲田大学モダンジャズグループ

2013-01-27 06:32:36 | 音楽
 高校生のころラジオで大学対抗バンド合戦という番組があった。学生バンドの対抗戦で、いろんな大学のジャズバンドが出演していた。うまいバンドとそうでもないバンドがあった。

 私がこの放送に聞き耳を立てていたのは、むろん内容が面白いこともあったが、それよりも自分が受験勉強から解放されたら、大学で思う存分バンド活動ができると、自分を鼓舞する意味もあった。

 私は早稲田大学モダンジャズグループという、極めて特徴のない名称のバンドに惹かれた。アドリブも選曲も構成も他よりも格段に洒落ていたからだ。

 あるとき、早稲田大学モダンジャズグループの部室を訪問した。8畳ほどの狭い部屋で、楽器が雑然と置かれており、一人の学生が黙々とウッドベースの練習をしていた。聞くと、部屋が狭いばかりではなく、ハワイアンバンドと一日交替で使用しているとのことだった。

 高校生に対して学生は好意的だった。来年もし受かったらモダンジャズグループに入れてくださいと私は申し出た。むろん学生は快諾した。しかし、私は名古屋の医学部に行ってしまい、医学部がない早稲田に入ることはなかった。

 早稲田大学モダンジャズグループから、プロが生まれたという例はなかった。

 名古屋には愛知学院大学のスウィンギングオールスターズというビッグバンドと、南山大学のジャズバンドが有名だった。それらのバンドにドラムがすばらしく上手なN君がいた。N君とは面識をもてなかったが、あまりにうまいので、こちらが一方的に知っていた。

 N君はふつうの就職をせず、名古屋の有名なライブハウスの専属プレイヤーになった。私は何回か足を運んだ。N君の演奏は確かにうまいのだが、ブラインドで聴いてすぐにN君の演奏だと分かるような特徴はなかった。

 それから10年ほどたって、私には子供ができた。子供を連れてライブハウスに行った。N君はまだ演奏していた。1年ほど間を置いて、ふたたび子供とライブハウスに行ったときにはN君はいなかった。その後、何度行ってもN君はいなかった。N君が東京の有名バンドに移籍したという情報はなかった。

 以来30年、私は未だにN君の消息を知らない。

2012年NHK紅白歌合戦を見て

2013-01-02 05:57:16 | 音楽
 紅白歌合戦が始まる前に、Eテレで5万人の高校生を対象に流行歌に対する態度についてアンケート調査を行った番組をやっていた。そこで興味深い結果が報告されていた。

 高校生の大多数が流行歌のメロディーにではなく、歌詞に強く共感しているようだった。たとえば「愛しているのになかなか言い出せない」とか「壁は高いほうが登る甲斐がある」といった文言に癒されているようなのだ。

 現在、メロディにーはメッセージを強化する効果しか期待されていなようである。メロディーが将来に渡って残りそうもない流行歌がヒットする理由が、ここにあった。YUIさんとか西野カナさんが支持されるわけが分かった。

 彼女らの歌詞の特徴は、きわめて陳腐なことだ。「なかなか言い出せない」、「壁は高いほうがよい」といったメッセージはあまりに直接的過ぎて興ざめなのだが、隠喩や暗喩では若い人には通じないのかもしれない。プロの作詞家なら恥ずかしくてとても言えないような歌詞である。

 作詞家のなかにし礼さんは、若いころ売れまくっていた。彼には一度流行歌に出てきた表現は二度と使わないという信念があって、過去の流行歌全部に目を通したという。彼は「ヒットの源泉は歌詞かメロディーか?」と問われて、すでに「歌詞に決まっているじゃないですか」と答えていた。

 私が高校生のころ、(私だけかもしれないが)歌詞にはあまり反応しなかった。歌詞はメロディーの付け足しに過ぎなかった。だから、メロディーが先にできていて、歌詞を後から付けたという流行歌も多かった。

 そんなころ、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」が出た。この曲はほどんど歌詞なしで大ヒットしたが、スキャットはアメリカ産ですでに歌詞を無視したエラ・フィッツジェラルドの超絶技巧のスキャットが日本に入っていたので、さほど感動しなかった。現在また海外でヒットしているというのはご同慶の至りである。(美しいスキャットを歌うグループにスウィングル・シンガーズというのがあった。でも、これはアドリブではなかったから、口三味線と言うべきかもしれない。彼らの演奏に歌詞がついていたら、かえってつまらなくなることがご理解いただけるだろう。)

 歌詞もメロディーも関係なく、性的な魅力だけで売っている歌手は昔も今もある。AKB48や嵐がそれで、彼/彼女らのファン層は異性に限られている。

 今回、紅白歌合戦を見て、現在はメロディー不在の時代だという感を深くした次第。

「合唱」は日本文化に浸透しているか?

2012-12-01 05:28:30 | 音楽
 わが国にみんなで歌を歌う「合唱」という文化はあったのだろうか?

 少なくとも私は、幼少時も今も、誕生会でハッピーバースデイの歌を合唱するのが嫌だ。歌うのも歌われるのも恥ずかしかった。

 一時「歌声喫茶」というのが流行ったけれども、もちろん行ったことはなく、やがてすたれてしまった。日本人が合唱するというところに、そもそも無理があったのではないか?

 謡や長唄は集団で歌われることがあるが、あれはあくまでも音量を大きくするための「独唱の集合」ともいうべきものである。

 ちょっと見渡すかぎり、わが国の古典音楽や民謡に合唱はないのだ。

 「仰げば尊し」は明治時代の文部省唱歌である。学校制度ができる以前には校歌というものは見あたらない。だから、卒業式の合唱や、校歌斉唱は明治以降の発明だと思われる。

 音楽的に言えば、合唱と斉唱は違うらしいが、いずれにせよ、みんなで歌うことである。江戸時代に合唱団はなかっただろう。合唱という歌の形式は西洋由来だから、日本人にまだ浸透していないのだと考えられる。

 洋服が浸透したのはつい最近のことである。私の祖母は一年中和服だった。私が幼いころの寝間着は着物だった。パジャマはまだ珍しかった。

 合唱が日本文化に本当に浸透するには、もう少し時間がかかるだろう。「ママさんコーラス」は私にはまだ不自然に見える。

やさしい楽器?

2012-10-17 06:01:04 | 音楽
昔、楽器を少しいじっていた関係で、「もっともやさしい楽器はなんですか?」と問われることがある。

 答えを最初に言ってしまうと、「やさしい楽器なんてない」ということになる。

 楽器への入りやすさから言えば、すぐ音が出ることだろう。ピアノは誰が叩いても音が出る。その意味では、やさしい楽器だが、ピアノをやさしいという人がいるだろうか?

 管楽器はまず音を出すことから始めなくてはならない。音、それも美しい音を出せるようになるには、年単位がかかる。自転車に乗れるようになるよりは難しい。

 一流の奏者になると、自分だけの音というか「声」をもっている。だから、音を聴いただけで、それが誰だか分かる。こうなると神業である。

 だが、叩けば音が出るピアノも実は同じなのだ。奏者によってなんと音色が違うのである。

 それでは、ハーモニカはどうか?これは昔の庶民の楽器だった。しかし、ハーモニカも極めるとなると難しい。昔、いくつものハーモニカを持って曲芸のように吹く芸人がいた。

 最初に音が出しやすい楽器もそうでない楽器も、その楽器でできる最高難度の技をもつ人がいる。だから、どんな楽器も頂点は同じである。

 要するに、やさしい楽器なんてないのである。