院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

「空想虚言癖」というもの

2014-06-17 08:27:20 | 心理
(幻冬舎刊。)

 上の小説には、複数の女性と疑似恋愛を同時進行させる男が描かれています。読者を混乱させずに同時進行が文章だけで表現されており、作者の乃南アサさんはホンモノのプロだと感じさせます。(タレントが余技のように小説を書く昨今、余計にそう思います。)

 この小説に直接書かれているわけではありませんが、結婚詐欺師は女性を100%だまそうして近づくわけではありません。ある程度は本気で恋愛関係になるのです。そして、空想なのか現実なのか、結婚詐欺師は自分でも分からなくなります。最終的には女性をだますことになってしまうのですが・・。

 結婚詐欺師は第三者には「うそまみれの男」と映るのですけれども、本人はそうは思っていません。このたび、W教授は別の細胞を渡されたと知って、怒りがこみ上げる以前に、いいしれぬ恐怖感に襲われたのではないでしょうか?細胞を渡してくれた人があまりに無邪気でフレンドリーだったからです。

 今日から「空想虚言癖」という用語がマスコミに乱舞すると考えられるので、「空想虚言癖」とは以上のようなものだと示しておきました。「空想虚言癖」と類縁の「ミュンヒュハウゼン症候群」という術語も出てくるかもしれません。

人前で踊ったり歌ったりできる人、できない人

2014-03-30 06:14:46 | 心理

(YOSAKOI ソーラン祭り。Wikipedia より。)

 いまは中学校の体育でダンスを教えるくらいだから、若い人には人前で踊ることに抵抗のない人も多いだろう。だが、私が子供のころは違った。私自身のことを言えば、小学校の4年生くらいになると、もう地域の盆踊りにさえ参加するのがイヤだった。

 現在でもカラオケができる人とできない人がいる。できない人は技術以前に恥ずかしくてできないのだ。私はシラフではカラオケができない。酔えばできる。踊りは酔ってもできない。

 私より年上の人には、両方ともできない人が多い。若い人にはできる人が多い。人前で踊ったり歌ったりするのが好きな人と、絶対にできない人に人間を2分できるかもしれない。

 むかし、硬派軟派という言い方があった。この2分法と、人前で歌や踊りができるできないという2分法は、完全に同じではないが、けっこう重なる部分が多いような気がする。

(心理学用語を使えば「退行」(赤ちゃん返り)ができるかできないかとも表現できる。「退行」ができる人のほうが「大人」だったりする。)

トラウマ概念の恣意性

2014-03-18 04:07:14 | 心理

アメリカ催眠学会HPより引用。)

 「獅子は千尋の谷に子を落とす」、「可愛い子には旅をさせよ」、「艱難なんじを珠にす」という言葉がある。苦労してこそ人間は成長するという話だろう。

 これらは、成長のためにはストレスが必要だという意味である。だが、ストレスはときに「害」になったりもする。「害」になったときには、わざとトラウマという言葉を用いる。

 幼少時のストレスは将来の人間形成にどんな役に立つのか、または害になるのかが前もって分からない。害になったときに限ってトラウマと称する。つまりトラウマとは後付けの名称なのだ。そういうのって、思い切り恣意的ではあるまいか?だから私はトラウマという概念が好きになれないのである。

紅葉に感動したころ

2013-12-12 03:53:32 | 心理

(オリンパス・フォトパス、ブルーキャンパスさんの作品。)

 紅葉は美しい。初めて紅葉に感動したのは中学生のころである。正確には紅葉ではなくて黄葉だが。

 東京のお茶の水だったか信濃町だったか、とにかく「スクール・オブ・ビズネス」(「ジ」ではなく「ズ」と書いてあった)という専門学校前の道の銀杏並木がみごとに黄葉していたのだ。空が紺碧に晴れていた。

 銀杏の黄葉はそれまで何回でも見てきたのに、その時なぜ特別に感動したのかは分からない。怖いほど心に染み入った。

 当時、写真に凝っていた私は、ぜひその光景をフィルムに残したいと思った。だが、カラーフィルムは目が飛び出るほど高価で、かなわなかった。コダック社のエクタクロームというプロが使用するカラーフィルムは一本4,000円だった。大卒初任給が2万円程度の時代である。

 黄葉は今でも美しいと思うが、あの13歳のころの銀杏並木が格別に美しかった。文化や芸術や学問、そして異性にも目が開かれた年頃だったからかもしれない。

(銀杏は鎌倉時代に日本に入ってきたとされている。それ以前の日本人は銀杏の黄葉を見たことがないことになる。だからか、古歌には詠まれていない。)

友だちとはなにか?

2013-09-06 06:12:14 | 心理


    友だちでいようだなんて本当の友だちならば言わない絶対  詠み人失念

 上の短歌は以前に紹介した。私はこの短歌が好きだ。

 小学生のころ、学校に放送局の「おねえさん」が来て、「○○小学校のお友だちぃ、元気ですかぁ?」と言った。私はその「おねえさん」と友だちではないし、集まった子供たちの中には友だちもいたが、ぜんぜん知らない子もいた。だから私は「○○小学校のお友だちぃ」とまとめて言われても困ると思った。

 昨日の中日新聞愛知県版の投書欄に小学生の投書が載っていた。その小学生は代表委員に選ばれた喜びを語り、代表委員の「仕事」として他の団体と交流があって、「友だちがたくさんできた」と書いていた。

 友だちなんて、そんなにやすやすとできるものではないと考えるのは、私が大人だからではない。投書した小学生の小学校の生徒の中には、私と同じ感想をもつ子供が必ずいるはずである。子供をあなどってはならない。

人間は周囲の望みに無意識に応える

2013-07-26 04:15:39 | 心理
 昔、モータリゼーションが始まったころ、「1ヒメ、2トラ、3ダンプ」と言われた。「ヒメ」とは女性のことで、一番怖いのは女性の運転、次が酔っ払い(トラ)運転、3番目に怖いのはダンプカーだという意味だ。

 事実、女性の運転は信じられないほど下手だった。でも、いまではタクシーやバスなど、女性の職業ドライバーは普通にいる。だから、女性が先天的に運転音痴だったわけではない。

 なぜ昔の女性は運転が下手だったかというと、下手であることを男性から求められていたからだ。別の言いかたをすると、運転が上手い女性は、男性から疎まれたからである。

 しかしながら、女性は男性に疎まれるから「わざと」下手に運転していたわけではない。「わざと」ではなくても、「自然に」下手になってしまったのだ。「無意識的に」と言ってもよい。

 人間は周囲から求められるように行動する。繰り返すが、「わざと」そうするのではなく、勝手に体がそのように動いてしまうのだ。

 女性が女性らしい所作をするのも同じである。ふだん女性がいかに女性らしい所作をしているかは、性同一性障害の男性の所作を見れば一発で分かるはずである。

天然と人為の区別がないPTSD概念

2013-07-18 05:26:38 | 心理
 結果が同じでも、それが天然のなせるわざであるか人為的なものかで、人間に及ぼす影響は決定的に違う。

 がけ崩れで道が塞がれていても人はさほど怒らないが、誰かがわざとそこに土を盛ったのなら、人は猛烈に怒る。

 そのような違いは昔から刑法や民法にも盛り込まれている。わざとではなく過失で損害を与えたのなら刑罰は軽いが、故意に他人の利益を侵害すると刑罰が重い。被害者にとって、損失の程度はまったく同じであるにもかかわらず。

 人間が天然と人為を区別するのは、ほとんど本能的でさえある。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)は最初、ベトナム帰還兵の精神変調に対して付けられた名称である。PTSDがベトナム側の激しい抵抗によって生じたにせよ、帰還後のアメリカ大衆が帰還兵を犯罪者呼ばわりしたことによって生じたにせよ、いずれも人為的な被害である。

 PTSDはレイプでも起こるとされるようになった。レイプはまだ人為である。ところがやがて、PTSDは自然災害という天然の出来事によっても起るとされるようになった。人為と天然との間には越えられない深い河がある。なのにPTSD概念は、何の思慮も疑問もなくその川を越えてしまった。あまりに安易で杜撰である。だから私は、PTSD概念をどうも信用できないと言ってきたのだ。

(実はPTSD概念は、精神変調をきたしたベトナム帰還兵を経済的に補償するために、政治的に作られてDSM-Ⅲに潜り込まされたという経緯がある。DSM-Ⅲは状態像だけに着目し、原因を問わない診断基準だった。それがPTSDに対してだけは原因を問うているのである。そこにも大いなる矛盾がある。)

海江田万里さんが軟弱に見える理由

2013-06-28 05:06:37 | 心理
 海江田万里さんの経済評論家時代の書いたものには説得力があった。評論家時代からしばしばテレビ出演していたが、なかなか鋭いコメントを付けていた。

 ところが、民主党代表としての海江田さんは、頼りなく見える。

 これは何故かと考えてみると、海江田さんの発言内容が甘いのではなく、海江田さんの話し方に問題があると気付いた。

 海江田さんは首を縦に振りながらしゃべるのだ。首を振りながらしゃべると軟弱に見える。

 首を振りながらしゃべるのは女性に多い。振らない女性の方が理知的に見える。あまり振ると、利口そうに見えない。

 公党の代表たる海江田さんは、そういった外見をもっと気にするべきである。

 (「首を縦に振りながらしゃべる人」を参照されたい。)

子どもの育ち方は環境と無関係?

2013-03-20 00:16:03 | 心理
 私たち精神科医は、崩壊家庭は情緒障害や非行の子どもを生みやすいと思っていた。子どもの発達には家庭環境が大きくものを言うと考えていた。これは昔からのことで、孟母三遷すとか、朱に交われば赤くなるとか、子は親の背中を見て育つとか、氏より育ちとかいって、親を初めとする環境が子どもに及ぼす影響は計り知れないというのが常識だった。

 ところがドイツの科学ジャーナリスト、R.デーゲンは、そうではないという。彼が言うに、たまたま情緒障害の子どもの家庭を調べたら崩壊家庭だったかもしれないが、崩壊家庭であったことが情緒障害の原因とは言えないのだそうだ。崩壊家庭と情緒障害や非行を結びつけるにはエビデンス(証拠)がないとデーゲンは主張する。

 つまり、こういうことだ。公平に調査をして情緒障害児や非行少年が出てくる家庭を見てみると、普通の家庭からそのような少年が出てくる確率と、崩壊家庭から出てくる確率に違いはないというのだ。すなわち、崩壊家庭とそのような少年には関係があるとする仮説にはエビデンスがないということになる。

 同じことが児童虐待にも言える。虐待された子どもは大人になると、ふたたび自分の子どもを虐待するようになると言われている。虐待の連鎖という考え方だ。しかしながら、デーゲンがいろんな調査を調べてみると、虐待している親がそのまた親に虐待されていた確率は、一般人口に発生する虐待の確率より大きいわけではないから、虐待の連鎖という主張にはエビデンスがないという。だから虐待の連鎖は神話に過ぎないとデーゲンは結論付けている。

 私たちは子どもとは白紙のようなもので、外部からどのような色でも付けることができると教わってきた。じじつ日本人の子どもは日本語を、イギリス人の子どもは英語をしゃべるようになるではないか。

 デーゲンは言語のことについては言及していないが、子どもイコール白紙説を排除する。子どものほうが環境を選び、親をしてなんらかの行動を起こさせるのだという。確かにきちんと調査しなければ、本当のことは言えない。要は厳密に統計をとることだ。その結果もし、情緒障害や非行が環境と関係があるという主張にエビデンスがなければ、そういった子どもをもつ親たちは周囲の白い目から解放され、相当に救われるにちがいない。そして冒頭に掲げた諺や言い習わしは、思い込みに過ぎないと捨て去られることになるだろう。

註:ロルフ・ゲーデン著『フロイト先生のウソ』、文芸春秋、2006年。

自己所属性ということ

2013-03-06 00:11:43 | 心理
 店で品物を買ってお金を支払うと、その品物は店のものではなく自分のものだという実感が生じる。

 私が名古屋の山奥に小さな中古一戸建てを買ったとき、契約が済んだら「この家は自分のものだ。もう柱に釘を打っても誰にも文句は言われないんだ」と、とても感動した。それまでは、自分のものではないアパートで、壁に画鋲を刺すことさえ禁止されていたから、喜びはひとしおだった。

 「これは自分のものだ」という実感を「自己所属性」という。店でお金を払うことによって、品物に「自己所属性」が生じる。この感情は自明のようにも見えるが必ずしも自明ではない。

 たとえば、精神病の人にまれに「手足が自分のものではないような気がする」という人がいる。麻酔をかけた手足が自分のものではないような感じがすることがあるが、こういう人たちは、ちゃんと感覚があるのに自分のものであるような感じがしないのだ。

 このような病理的な症状から逆照射すると、健常人の「自己所属性」は実は自明な事柄ではないのだということが初めて分かる。

 店にお金を支払ったとたんに品物に「自己所属性」がなぜ生じるのか、実は解明されていない。精神病理学は、しばしばこうした当たり前のことを疑問視することから始まるのだ。

血液型性格論

2013-01-18 07:19:38 | 心理
 先輩が血液型がA型の人間は役に立つことしかしないと言っていた。先輩はA型で、趣味は釣りだが、食べられる魚しか釣らないという。ヘラブナ釣りのように食べるのが目的ではない釣りはA型の人間はしないそうだ。

 私はA型だが、私が凝った趣味を振り返ってみると、中学から写真に凝ったのは、美しい写真を撮りたいからではなく、自分で現像焼き付けをすると市価の10分の1以下でできたからだ。

 ワンチップマイコン(Z80などのLSI,1万円ほどだった)が売り出されたとき、自作のパソコン作りに凝ったのは、当時私が使用できるコンピュータは大学にある大型コンピュータだけで、1億円以上していたからだ。私は自宅で同じような性能をもつコンピュータが欲しくて、自作しただけだ。(当時は大型コンピュータもまだトランジスタの時代で、メモリが4Kバイトしかなかった。LSIだと4個で1Kバイトのメモリが売り出された。1個2500円だった。)

 坪庭がついた中古住宅を買ったときには、坪庭に花壇を造ることはせず、野菜を植えた。花は食べられないからである。(もっとも、ほとんど収穫できずに1年で辞めてしまった。)
 

 血液型性格論を俗論だと嫌う向きが多いけれども、有名なクレッチマーの性格分類よりはましである。クレッチマーは体型をでっぷり型、痩せ型、闘士型に分け、それぞれを循環気質、スキゾ気質、てんかん気質に対応させた。しかし、体型も気質も必ず中間のタイプが存在するするし、分け方が主観的である。

 それに比べると血液型性格論は、少なくとも血液型のほうは科学的、一意的に決定できる。この点だけでも、クレッチマーの性格分類よりよほど優れているとは思われないだろうか?

カウンセラーと占い師

2012-10-14 04:51:16 | 心理
 最近ある患者さんがカウセリングに行ってきた。60分ほどで1万円くらいだったという。そのカウンセラーは国や大学の資格をもっているという。だが、待ってほしい。カウセラーに国や大学の資格なぞない。あるのは、財団法人が認める臨床心理士だけだ。他に金儲けの会社が出している「資格のようなもの」がある。

 それはさておき、その患者さんはカウンセリングが役に立ったという。1時間ほど話をして、「あなたは目標が高すぎるのではないですか?もっと身の丈に合った考え方をしたらどうですか?」とアドバイスを受けた。患者さんは「そうかもしれない」と思ったそうだ。

 だが、これと同じことを占い師が言ったらどうだろう。そこそこの金を支払って水晶玉の前で「あなたは目標が高すぎる・・云々・・」といわれたら、カウセリングと同等の効果があるのではないか?

 このように、カウンセリングと占いの間の境界線はあいまいである。カウセラーもそれなりの教育を受けている。でも、占い師もそうとうに修行しなければ、一人前になれないだろう。

 実を言うと、同じことが医療にも言える。白衣を着た人に「この薬を飲むと、これこれこういうふうに気分が改善されます」と言われると、本当にそうなるのである。たとえ「薬」が小麦粉を丸めたものであっても、である。昔からこれを、プラセボー効果といって、医療界ではよく知られた事実である。

金額に対する感覚

2012-09-24 07:09:49 | 心理
 私たち庶民は千円、一万円の感覚は分かる。定価が千円の品物なら、定価で買うより980円で売っている店で買う。ビックカメラや価格.comが盛況なのも、そのような心理を掴んでいるからだろう。

 百万円の単位になると、あまり日常的ではなくなるが、軽自動車2台がそのくらいの価格なので、まだ分かる。

 一千万円となると、そのような金を動かすことはほとんどないから、ちょっと感覚が分かりにくくなるが、軽自動車20台分、乗用車3台分と考えると、何とか理解できる。

 ところが一億円となると、もう分からなくなる。私が昔勤めていた公立の施設が新築されたときに、建物の価格がちょうど一億円だった。建坪が100坪くらいの鉄筋2階建てだった。あの工事を思い出すと、一億円の感覚が分かる。

 十億円を考えるときには、あの施設が10軒分。百億円なら100軒分と想像すると、なんとなく金額の規模が分かる。

 さらに単位が上がって一千億円になると、もう分からなくなる。私が名古屋市に初めて奉職したときの名古屋市の年間予算が7千700億円だった。でも、これでは感覚的に理解できない。

 そこで私はイージス艦を思い起こすことにしている。イージス艦は一隻2千億円だ。一千億円といえば、その半分である。それで何とか千億円単位のイメージが作れる。

 一兆円となると、イージス艦500隻分だ。これは、さすがに想像の範囲を超えている。とにかく、とてつもない金額だということしか分からない。

 昔の未開民族の数の数え方に、1個2個3個、あとはたくさん、というアバウトな数の捉え方があったそうだ。われわれ現代人も、百円千円一万円程度しか感覚的にはわからず、あとはたくさんということになって、昔の未開民族と変わらないようである。

念仏とサプリメント

2012-08-28 04:56:28 | 心理
 経典には難しいことが沢山書いてある。やれ「実体」には何通りがあるとか、やれ「空」とはどのような状態であるとか、かなりの教養人でも理解に難渋するような内容である。

 平安時代の庶民が、このような思想をあまねく理解できたとは到底思えない。それだからかどうか、法然は念仏を称揚した。「南無阿弥陀仏」と唱えていさえすれば極楽往生できると説いた。

 これはすばらしいアイデアである。禅などの修業はせず、教義を勉強する必要もなく、ただ念仏を唱えていさえすればよいのだと、法然は主張した。

 法然は屁理屈をこねて念仏を正当化した。正当化されて、お墨付きがある教えは、庶民には絶大な力がある。この教えは庶民をどれだけ救ったか分らない。庶民は熱心に念仏を唱えたことだろう。

 このことと、現代のサプリメントは似ていはしまいか?サプリメントを飲んだ人は元気になったような気持ちになる。そして、明日への希望が湧いてくる。これはサプリメントの功徳である。

 サプリメントは、かつての念仏が現代的に姿を変えて現れたものだろうと、私は考えている。

思春期とは何か?

2012-07-26 03:43:28 | 心理
 少年のころ「思春期の子は難しい」と言われて困った。自分では特別に前とは変わっているとは思わなかったからだ。

 異性(同級の女の子や近所のお姉さん)への興味は幼稚園のころからあった。異性にまったく興味を持たない「潜伏期」(フロイト)は、私の場合、小学校1,2年生の2年間くらいだけだ。SEXのことは知らなかったけれども、女性への興味は一貫してあったし、今でもある。

 私に反抗期はなかった。親をイヤとか汚いと感じる時期はなかった。私の息子や娘にも反抗期はなかった。

 第二次性徴が出てくるころからを思春期というのだが、それは身体的にSEXが可能となるというだけであって、異性への興味はずっと前からあった。

 成人になると思春期は終わるように教科書には書いてあるが、私の場合、成人してから何かがとくに変わったという印象はない。思春期の気分が未だに続いている。

 今後も異性への興味は失わないと思う。老人ホーム(女性のほうが長命だから女性が断然多い)に男性のハンサムなお爺さんが入ると、ホームの雰囲気が俄然変わるという。

 また、ある女性介護士が寝たきりのお爺さんの介護をしているときに、しきりにお尻を触られた。女性介護士は知らん顔をしてされるままにしておいたら、介護が終わった後、お爺さんが女性介護士に手を合わせて拝んだという。

 フロイトやエリクソンの発達過程の図式はおおよその目安と考えたほうがよい。現実には当てはまらない。