日本でもっとも有名な俳句は「古池や蛙とびこむ水の音」(芭蕉)でしょう。しかしながらお恥ずかしいことに、私にはこの俳句の良さがわかりません。いや、芭蕉の俳句はすべて私には、そんなによいとは思われないのです。(この記事は「芭蕉の俳句がわからない!」2015-07-20 の続きです)。
現代気鋭の俳人、長谷川櫂氏によれば、和歌の時代から「蛙(かわず)」と言えば声のことを指しており、「水の音」に着目したのは革命的だったのだそうです。和歌の素養がない私は「そうなのか」と聞くしかありません。
ついでに私は蕪村の俳句もあまり理解できません。「さみだれや大河を前に家二軒」はある程度「いいな」とは思いますが・・。
千代女の「朝顔や釣瓶取られてもらひ水」も、さほどとは思えません(あとで「朝顔や」に替えたようです。「朝顔に」ではありません)。小学校時代、千代女の朝顔を切らないやさしい心情が出ていると教わりましたが、そんなに浮世離れした句でもないようです。そんなことをしていたら、朝顔が枯れるまで井戸が使えないことになります。
私が打たれるのは、やはり虚子の俳句ですね。「遠山に日の当たりたる枯野かな」なんて、すごい着眼点ではありませんか!
じつは虚子の師である子規もつまらないと思っています。「子規は駄句の山を築いた」と考えている俳人は多いようです。「鶏頭の十四五本もありぬべし」というそのまんまの句を短歌界の人が称揚したこともあって、「鶏頭論争」2012-12-13を招きましたが、私はこの句をよいとは思いません。
久保田万太郎や能村登四郎はいいですねぇ。
湯豆腐や命のはてのうすあかり 万太郎
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 登四郎
でもやっぱり芭蕉は理解できないなぁ。
(枯野の景色。「足成」より引用。サカタノタネ氏撮影)。
※私の俳句(秋)
聴き流すことも処世よ露の秋
現代気鋭の俳人、長谷川櫂氏によれば、和歌の時代から「蛙(かわず)」と言えば声のことを指しており、「水の音」に着目したのは革命的だったのだそうです。和歌の素養がない私は「そうなのか」と聞くしかありません。
ついでに私は蕪村の俳句もあまり理解できません。「さみだれや大河を前に家二軒」はある程度「いいな」とは思いますが・・。
千代女の「朝顔や釣瓶取られてもらひ水」も、さほどとは思えません(あとで「朝顔や」に替えたようです。「朝顔に」ではありません)。小学校時代、千代女の朝顔を切らないやさしい心情が出ていると教わりましたが、そんなに浮世離れした句でもないようです。そんなことをしていたら、朝顔が枯れるまで井戸が使えないことになります。
私が打たれるのは、やはり虚子の俳句ですね。「遠山に日の当たりたる枯野かな」なんて、すごい着眼点ではありませんか!
じつは虚子の師である子規もつまらないと思っています。「子規は駄句の山を築いた」と考えている俳人は多いようです。「鶏頭の十四五本もありぬべし」というそのまんまの句を短歌界の人が称揚したこともあって、「鶏頭論争」2012-12-13を招きましたが、私はこの句をよいとは思いません。
久保田万太郎や能村登四郎はいいですねぇ。
湯豆腐や命のはてのうすあかり 万太郎
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 登四郎
でもやっぱり芭蕉は理解できないなぁ。
(枯野の景色。「足成」より引用。サカタノタネ氏撮影)。
※私の俳句(秋)
聴き流すことも処世よ露の秋
短さの中に、余韻が。
解釈もそれぞれの良さが。
俳句は短いから、いろんな解釈ができます。
たとえば、
梅一輪一輪ほどの暖かさ
という有名な俳句は、一輪開くごとに暖かくなるという解釈と
たった一輪だけの暖かさという解釈もできます。
今日がそれを見た2回目だったので、わぁ!となりました。
私は俳句に全然詳しくないけれど、中里先生の俳句も、俳句のお話も、とても面白いです。(子規のこととか、、)
いつも記事の最後の句をみて、心がスーっとしたり、ハッとしたり、うーむ、となったりして、楽しませていただいています。
千代女の句をみて、私なら、やさしく、朝顔のつるをどうにかとって、(もう、取れないほどに、くいこんでいたら、どうしよう、、) 水をくむかもしれないな、と思いました。
鑑賞とは関係のない感想ですが、、、