えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

釣られるクレーンゲーム

2013年11月30日 | コラム
 勤め先の近所のセガへ昼休みのたびに通って3か月くらいになる。通い初めはまだつつましく100円で過ごす時間が過ぎ、気づけば金喰い虫のUFOキャッチャーへ500円を叩きこんで真剣勝負、クレーンの爪の引っかかりと起き上がりこぼしのようにじりじりと動く景品に一喜一憂する。クレーン6回動かす権利と烏骨鶏のたまご一個は金銭的には等価だ。

 機械の投入口に入れているのはそのままのお金である。コンビニへ持っていけばそれなりのお菓子やお弁当を買える硬貨だ。それを、クレーンの爪の一動に払う。腕さえあれば100円2クレジットでずっと遊んでいられる筐体からは、たった一動に払うクレーンゲームのプレイヤーはどう見られているのだろう。

 今日もまたゲーセンへ行った。店員は馴染のひとではなかったけれど、でもたかだかビーズクッション一つに悪戦苦闘する私を憐れんでか(そう見られていると思うのは財布への僻みなのか)、回数を重ねるたびガラス戸を開けて少しずつ手前の方に人力で寄せてくれた。そこまでしていただくと、後は「取る」か「取らない」かの二択になる。「取れる」「取れない」ではなくなってしまう。これはゲームを遊ぶ側の敗北だ。後一歩で落とすことのできる位置にある景品は商品になる。その値段はそれまでにかけた回数の金額そのものなのだ。それを落とす行為はもはやゲームではなく、売買である。

 きれいに諦める難しさはゲームの醍醐味だ。しかし一方で諦めの悪い人間ほどゲームに熱中する。その熱中をどこで切り上げて「今日は負けた」と平然としていられるかが難しい。そしてゲームを仕掛ける側は、「あと一歩で落とせる」回数をいかに増やすかへ腐心してゲームを作る。

 クレーンゲームを作り上げているのは景品とクレーンの微妙な工作である。言ってみれば店ごと、台ごと、景品ごとに全く違ったゲームを毎回遊ぶことができる。だからついふらりと店に入ってしまうのかもしれない。同じ景品でも、たとえばスコップのようなクレーンで掬い上げて取ったり、へなへなとした爪先でかすめるように転がすよう仕向けられたり、景品を置く角度を調整したり。一台一台に設定されている「ルール」を見極めるところからゲームは始まっている。

 クレーンを動かすためには逐一お金が必要だ。かといって、様子を見ながら先に遊んでいる誰かのゲームオーバーを待つのもじれったい。そんな煩悶をあおるかのように景品はいかにも数回で取れそうに見える位置へ置かれている。睨めっこの間にも後ろには人、前にはゲーム。遊ばないという決断を下すのは、なかなかに苦しい。
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