えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『飢渇の人』雑感

2021年08月28日 | コラム
 エドワード・ケアリーの短編集『飢渇の人』は、訳者の古屋美登里の尽力により日本で初めて発売された。いくつかの書店ではサイン本もそっと売られている。過去の作品だけではなく、あとがきによればこの話をケアリーの元に古屋美登里が持ち込んだところ、あっという間に新作が数本送られてきたため、原文の英語ではなく日本語で初めて読まれる作品がある勘定になる。

 二〇二〇年に生まれた作品群はそのほとんどが部屋の隅からやってくるものばかりで、新型コロナウイルス感染症により移動が妨げられた影響がわかりやすく小説のかたちで昇華されている。部屋の塵芥から生まれて生き物のように家々や路街を転々とする『吹溜り』や、誰のものともつかない髪の毛を食べて成長する『毛物』のように視点が直接隅っこに向けられている作品もあれば、『バートン夫人』『パトリックおじさん』のように積極的に生活を侵食する作品もいる。どの作品にもイラストレーターであるケアリーの挿絵が添えられており、『バートン夫人』『パトリックおじさん』では比喩を許さないかのようにそれぞれ中年女性と薄毛の男性の鉛筆画が添えられている。

 短編のどれもがある物体と人との距離感や空間を描く構図になっている。ただそのあたりにあるものではなく、あからさまな怪物の姿であることもある彼らは、何かしら人から寂しさのような感慨を奪ってから物語を去ってゆく。彼らの後を追うこともなく人々はその空白にとどまり、まるで空白自体を楽しむかのように愚痴をこぼす。文体は軽く描写は適度に曖昧であるため物語のおもしろさに焦点を合わせやすい。鳥に取り憑かれた架空の芸術家の連作や神話を題材にしたエドワード・ゴーリーのように皮肉の効いた物語など、淡々とした刺激がよく本に行き届いている。短編で固めた硬派な書物を見つける楽しみが有り難い。
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・イン先生のこと(映画『返校』)

2021年08月14日 | コラム
※本編とゲームのネタバレがあります。未見、未プレイの方はご注意ください。

『返校』はゲームから始まり小説、漫画、映画、ドラマと複数のメディアを跨ぎ、おそらくこれからの後で台湾の情勢を語る上では欠かせない大きな存在となっている。どの世界もパラレルワールドとされ、少しずつ違った形でファン・レイシンは悲劇を走り抜けている。白色テロ時代に命をかけて次の世代の視野を広げるため、禁書を読む「読書会」を主催していたチャン先生とファン・レイシンの恋の唯一の邪魔者が、読書会を運営していたイン先生だった。
ゲームではファン・レイシンの密告により学校は追われるものの、校長の娘という立場を利用して逮捕を逃れ海外に亡命し、台湾にこそ帰ることはできなかったが天寿を全うするというファン・レイシンにとっては皮肉な運命を辿った。映画では明言こそされないが逮捕されて落命したらしい。イン先生は映画でもあまり表情の起伏はなく、密告者のファン・レイシンを責めるときすら冷静な態度を崩さない。どちらのメディアでも常に教育者としてある意味では理想的な人物に書かれている。彼らが自由な思想を持てるように命を賭して会を運営するのは彼女であり、常に生徒の安全に目を配る。だから映画で「彼女をとるか、読書会をとるか」とチャン先生に問いかけた。それを半分だけ聞いたファン・レイシンは密告を決意する。二人はすれ違う。
 言葉自体はわかりやすい。けれどもファン・レイシンが言葉の半分だけしか聞いていないというところに、学生と教師の恋愛のリスクの延長で「読書会」に手が伸びることを避けたいというイン先生の事務的な目的が込められている。「読書会」自体を危うくするリスクを切り捨てることも踏み入ることも決断できなかったチャン先生の優柔不断にやきもきとする様子に、恋愛感情とも使命感ともどちらとも読み取れる苛立ちがある分、映画のほうが彼女をより観客に近い存在とさせている。自分の欲のために周りを犠牲にするファン・レイシンと、生徒の思想の自由のために自分を賭けるイン先生は対象的な人物として立たされているにも関わらず。
 朝会の場で生徒を守り盾になる覚悟を口に出すのは彼女から、という場面には、教師という立場以上に自由を守ろうとする象徴としての意味合いが強いのだろうか、と少し考えてしまった。
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