えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・浅草補記

2020年10月31日 | コラム
 八か月ぶりの浅草は「鈴廣かまぼこ」の支店が撤退し、大正十五年創業の真珠屋は真珠の取り扱いをやめて出所不明の織物を扱いだし、「Asakusa Café」の京都なまりの店主は「潰れる寸前」と呟いた。緊急事態宣言を過ごした浅草の街路はシャッターが増え、「梅園」は開店を一時間後ろにずらしていた。一瞬下ろされたシャッターに背筋がひやりとしたが、打ち水をしている眼鏡の店員と入り口近くのシャッターが開きかけていたので、開店時間の遅れを知ることとなった。尋ねると彼女はすまなさそうに「十一時からです」と答えた。

 外国人観光客がいなくなった浅草の表参道は日本語が飛び交っていて、二月に訪れた時とは音の響きが違っていた。浅草神社で七五三をお祝いする晴れ着姿の子どもたちと礼装の大人たちの脇を、カメラとスマートフォンを掲げたマスクの人々が本堂へと歩いてゆく。総門手前の不動堂への通路は鎖で出入りを制限され、半開きのシャッターから提灯と賽銭箱をはみ出し、参拝客だけをそこに導こうと必死になっていた。鎖にぶら下がっている注意書きには写真撮影のために立ち入らないようにとの注意が日本語で書かれていることも意外だった。

 総門を潜る。手水の前も香炉の前も人だかりはなく、かといって疎らではなく、人混みにならない程度に賑わっていた。数年ぶりに線香を買い七輪で火をつけて香炉に立てると、白い煙の束がゆったりと人の間を漂って行った。本堂は訪れる人の数が減った機会を利用してか、八月から天井の修復が入ったそうで足場が組まれており、本堂奥の賽銭箱の前だけが穴のように開いていた。ぎゅう詰めで賽銭を投げていた人の群れはなく、床に養生テープで無造作に作られた印に従って間隔を空けて四列に並ぶ。祈る時間と反比例して列が進む。時々神社の二礼二拍一礼を守って本尊の聖観世音菩薩に手を合わせる人がいる。誰もがしんと黙っていた。六角形のお御籤の筒を振る音も、お御籤の結果に一喜一憂する会話も聞こえない。移動できるキャスター付きのお御籤の棚と筒のセットがむしろ本堂には増えていたにもかかわらず、消毒液も手前に用意されているにも関わらず、誰もお御籤を引く人はいなかった。引きが悪いので私は引かなくなって久しいが、それにしても静かな参拝だった。
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・『黄金州の殺人鬼』 雑感

2020年10月24日 | コラム
 見るべきはミシェル・マクナマラがつなげた巨大な官民混交のネットワークであり、物語として語られ続けるに足る骨子だ。少なく見積もっても五十名の女性を強姦し、十数名を殺害した兇漢ジョゼフ・ジェイムズ・ディアンジェロの起こした事件を一般のライターの立場から追い続け、本の完成と逮捕された犯人の名前を見ることなく病でこの世を去ったミシェル・マクナマラの途切れた仕事を夫の俳優パットン・オズワルドが受け継ぎ、彼女の協力者とライターを雇い彼女の没後に見つかった資料を集めて接いだ「物語」が『黄金州の殺人鬼』という本だ。一九七四年から一九八六年にかけてカリフォルニア州を中心に大勢の被害者を襲撃した事件は本の執筆時点で既に始まりから四〇年近くの時間が経っており、事件そのものは風化しつつあった。ミシェル・マクナマラが事件を追いかけだした頃には最後の事件から二十年が過ぎ去ろうとしていた。
 この手の殺人犯を扱おうとする本は概ね犯人そのものにスポットライトを当てて、いかに彼が異常な人間か、また悲劇的な背景のもと育ったか、といった調子で半ば食い気味に殺人犯の人物を加飾しようとする危なっかしさと中途半端さに落ちかねないが、ミシェル・マクナマラは自らの推理と想像に落ち込むことなく彼の遺した物証と起こした事件を客観的に突きつけることに徹している。顔と名前が見えないがため、殺人犯の個性という一見濃厚な墨で事件と被害者の受けた傷は隠されることなく、読者には起きたことがらの大きさと正当な衝撃が伝わる。ストイックに犯人が正当な罰を受けることのみを望む著者は抱えた情報をオープンにし、ブログを開設して鋭い論説を並べ同じ問題を追い続ける人たちをインターネットにより結び付けた。その仕事は取材を通じて警察関係者にも結び付き、本は犯人よりも犯人を追いかける女性の精力的なはたらきを映し出してゆく。
「世界が変化したとき、あなたは逃げたのだと思う。確かに、年齢を重ねたせいでスローダウンしたのかもしれない。かつては勢いづいていたテストステロンが、今ではぽつりぽつりと滴るだけ。しかし真実は、記憶の衰退である。紙は劣化する。しかしテクノロジーは進化する。競争相手が後ろから追い付いてきたのを肩越しに見て、あなたは逃げ出したのだ。」
 犯人に向けた呼びかけは言葉となって本のエピローグに残る。本書が発売された二か月後にDNAのデータバンクを基にディアンジェロが逮捕された餞を以て本は閉じられるべきで、ディアンジェロの人となり自体は、本にとってはどうでもいいことなのだ。
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・『返校』雑感

2020年10月10日 | コラム
 くせっ毛をボブカットにした少女は首から白い鹿の形をしたヒスイの飾りを赤い紐で下げ、不安そうに左右をきょろきょろ見回した。やがてこちらに向き直るとにっこり笑う。台風の吹き荒れる誰もいない夜の学校で少年は少女と差し向かいに座り、不気味な闇に閉じこめられてゆく。2017年にSteamを通じて発売された台湾の赤色蝋燭が送り出したPC用ゲーム『返校』は、上質な演劇作品のような演出と探索の楽しみを、そしてゲームの外のプレイヤーを現実に起きている出来事へ否応なしに目を向けさせる引力を備えた稀有な作品だ。日本語、英語、中国語、韓国語に翻訳され海を越えて高い評価を獲得し、2019年にはスマートフォン版も発売されている。

 いわゆる「ポイント&クリック式」という形式の遊び方で、画面に映っているオブジェクトにカーソルを合わせてクリックするとレバーを動かしたり道具を手に入れたりと何らかの反応が起き、プレイヤーは主人公の少女を操作して学校のあちこちを調べて脱出を図ってゆく。往年のFlashゲームのように簡潔な操作だが序盤は学校にはびこる怪異を避け、後半は複雑な謎を解くというメリハリが効いているのでプレイヤーのできることが少ないという点はあまり気にならない。とにかく話の濃度が高いのだ。

 舞台となる時代は1950年代~60年代の「白色テロ」時代の台湾で、国民党による弾圧が苛烈さを極めていたころにあたる。敗戦によりそれまでの支配層であった日本軍が撤退し、代わりに中国本土を追い出された国民党に支配された台湾はつかの間の自由すら呼吸することも許されず、共産党と名指しされれば軍に逮捕されて人生が閉ざされる新しい恐怖に台湾は浸されていった。その時代の高校に通っていた方芮欣(レイ/ファン・レイシン)という少女と、魏仲延(ウェイ/ウェイ・チャンティン)の二人が本作の主人公だ。

 プレイヤーは時にレイを、時にウェイを操作し、暗い夜の学校に靴音を響かせながら幽鬼たちをかわしてどこかに導かれてゆく。ふたりにまといつくある記憶の影は茫洋とした光の下で徐々に形を成して塊となり、ところどころで序盤から示されていた真実は薄紙を剥ぐように晒されて目が離せない。些細な点だが、繁体字と日本語版では文字数の関係でアーカイブの説明の量が若干異なるので繁体字に変えて読み解くのも一興だ。たとえばレイが首から下げているヒスイのペンダントの説明がほんの少し、切ないものであったり。

 本家の台湾では2019年に映画化もされるほどの人気を博した本作を貫く幹は「自由」についてのつらい問いかけだ。それは現在も台湾をさいなみ続ける問題であり、一時的に台湾と関わった日本にとっても既視感のある問題でもあり、決して暗い学校の中だけで問われて解決するものではない。レイとウェイが互いに向かい合う瞬間、二人はようやく一つの自由を手に入れる。その一瞬すら、完璧な救いではなく、「悲痛」のあとを残してゆくのだ。
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