やりたいゲームは古いものばかりで、ゲーム会社が群雄割拠したのちの現在ではなくなってしまった会社も多数あり、権利関係がややこしくなってアーカイブが行われていない、或いはそもそもゲーム自体が当時から現在にかけて設けられた表現規制の網に引っかかって修正をしなければ出られないものもある。このところ浸かっていた『Garage』もAndroid版ではGoogleから修正の要請が入り、一部のグラフィックが差し替えられての販売となった。幸いそれ以外の変更はないが、ビジュアルというものはそれがある限りゲームの印象を左右するものなので、鳥の刷り込みと同じように最初にどのグラフィックでそのイベントへの印象も左右される。当時はなんでも無かった描写が二十年、三十年の間に負の象徴を背負ってしまったり、モチーフとなった道具が現実の世界で大幅な規制を受けてしまったりと、現在に妥協できないゲームは次々と失われたものとして消えていく。データは本よりも強いはずなのに、ゲームは本よりもか弱い。CDやカセットなど精密機器は脆い。ゲームにとって最適な保管環境を家ごと作ってしまう人もいる。
古典と呼ばれるゲームが増えるにつれて、学校で古典を学ぶよりもゲームの古典を学ぶことは難しいのではないか、と思う。玉石混淆の時代を知る人も少しずつ老いてゲームから離れていき、ゲーム機自体も役目を終えて沈黙してゆく中で、古典を知らない人たちに古典を教えるための教材としても存在のできないゲーム達がデータの奥からじっとこちらを眺めているような、そんな視線を今更PSP本体を購入した身で思う。
古典と呼ばれるゲームが増えるにつれて、学校で古典を学ぶよりもゲームの古典を学ぶことは難しいのではないか、と思う。玉石混淆の時代を知る人も少しずつ老いてゲームから離れていき、ゲーム機自体も役目を終えて沈黙してゆく中で、古典を知らない人たちに古典を教えるための教材としても存在のできないゲーム達がデータの奥からじっとこちらを眺めているような、そんな視線を今更PSP本体を購入した身で思う。