殺される羊たちの鳴き声をクラリス・スターリングは夢に聞いて目覚める。子供の頃の家庭事情で農家に預けられた彼女は一頭の盲目の馬と親しみ、その馬が畜殺される前に逃げ出そうと試みるそばで屠殺される子羊の声を聞いていた。馬は天寿を全うする。羊たちは殺された。自分の子供時代のしがらみを象徴するかのように羊たちはクラリス・スターリングの夢で鳴き続けている。彼らの声はクラリス・スターリングが抱える苦悩と結びついている。脱獄したハンニバル・レクター博士は満足気にその声を手中に収め、悠々とアメリカを去って物語は七年後の『ハンニバル』に持ち越される。
『羊たちの沈黙』を娯楽小説といってしまうのは荒っぽいだろうか。男社会の中で抗うFBI訓練生のクラリス・スターリングと虎視眈々と脱獄の機会を伺うハンニバル・レクター博士、全米を怯えさせる快楽殺人者バッファロー・ビルを主要な三本の軸として紡がれる話は適度な書き込みと省略を使いこなしてテンポよく進む。だれることがない。作品が書かれる少し前のアメリカでは連続殺人犯がこれでもかと蔓延っており、同時に彼らの行動を読み解いて先回りすることでより多くの犯罪を防ぐプロファイリングという手法が確立されていた。その殺人犯たちに携わったFBIに取材して得た人間の情報がレクター博士とバッファロー・ビルへ対照的に落とし込まれており、また当時のマスコミの呵責ない報道合戦も印象的に使われていることも面白い。レクター博士が脱獄した途端にSWATが封鎖したにも関わらず、レクター博士からスクープを得ようとビル中の電話が鳴り響く一場面など、博士が流した血の量よりも不気味に文字から響くものがある。だからクラリス・スターリングとハンニバル・レクター博士の対話する場面の静けさがより際立つ。
クラリス・スターリングは短く簡潔に問いかけ、レクター博士は洒脱に躱しながら少しずつ正解を彼女に渡す。渡す代わりに彼が望むのはクラリス・スターリングの過去だ。上司からあれほど渡すなと云われた自身の過去をクラリス・スターリングはあっさりとレクター博士に抛つのは仕事のためなのか、それとも己を癒やすためなのか、少しずつ読者にも彼女にもわからない段階へと踏み込んでいく。この心理描写だけでも描きこもうと思えば描き込めるところを二人のキャラクターという外枠から読み取らせる仕掛けがとにかくうまい。だから娯楽として消化しつつしっかりと二人の人物は読者に遺る。
クラリス・スターリングの夢の中で今でも息づき悲鳴を上げている殺された羊たちがレクター博士の手に渡されるとき、彼の告げる「ありがとう」の柔らかで優しい猛毒がクラリス・スターリングに注ぎ込まれたことを読者は知る。女性の皮を剥ぐ生臭さよりもなお暗いところへ落ちてゆく快味が、いつまでも色褪せずに本の中へ残っているようだった。
『羊たちの沈黙』を娯楽小説といってしまうのは荒っぽいだろうか。男社会の中で抗うFBI訓練生のクラリス・スターリングと虎視眈々と脱獄の機会を伺うハンニバル・レクター博士、全米を怯えさせる快楽殺人者バッファロー・ビルを主要な三本の軸として紡がれる話は適度な書き込みと省略を使いこなしてテンポよく進む。だれることがない。作品が書かれる少し前のアメリカでは連続殺人犯がこれでもかと蔓延っており、同時に彼らの行動を読み解いて先回りすることでより多くの犯罪を防ぐプロファイリングという手法が確立されていた。その殺人犯たちに携わったFBIに取材して得た人間の情報がレクター博士とバッファロー・ビルへ対照的に落とし込まれており、また当時のマスコミの呵責ない報道合戦も印象的に使われていることも面白い。レクター博士が脱獄した途端にSWATが封鎖したにも関わらず、レクター博士からスクープを得ようとビル中の電話が鳴り響く一場面など、博士が流した血の量よりも不気味に文字から響くものがある。だからクラリス・スターリングとハンニバル・レクター博士の対話する場面の静けさがより際立つ。
クラリス・スターリングは短く簡潔に問いかけ、レクター博士は洒脱に躱しながら少しずつ正解を彼女に渡す。渡す代わりに彼が望むのはクラリス・スターリングの過去だ。上司からあれほど渡すなと云われた自身の過去をクラリス・スターリングはあっさりとレクター博士に抛つのは仕事のためなのか、それとも己を癒やすためなのか、少しずつ読者にも彼女にもわからない段階へと踏み込んでいく。この心理描写だけでも描きこもうと思えば描き込めるところを二人のキャラクターという外枠から読み取らせる仕掛けがとにかくうまい。だから娯楽として消化しつつしっかりと二人の人物は読者に遺る。
クラリス・スターリングの夢の中で今でも息づき悲鳴を上げている殺された羊たちがレクター博士の手に渡されるとき、彼の告げる「ありがとう」の柔らかで優しい猛毒がクラリス・スターリングに注ぎ込まれたことを読者は知る。女性の皮を剥ぐ生臭さよりもなお暗いところへ落ちてゆく快味が、いつまでも色褪せずに本の中へ残っているようだった。