・清らかな侘しさ
ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAY』はひたむきに静かだ。役所広司演じる渋谷区のトイレ清掃員の一日の過ごし方は緩やかな正確さで定められており、毎日のリズムは根本的に変わらない。けれども退屈はない。「変わらないということはありえない」と主人公の平山が言うとおり、日々は細やかに変化している。誰にでも起こりえるさざ波のような変化は平山の生活を乱すには足らないが、その日の平山の心は揺さぶられる。ほんの僅かの力加減で単調に陥る寸前の静寂が平山という人間像から描き出されていくのだ。
朝、向かいの神社の門前を掃く箒の音で薄暗い中目を覚まし、仕事着のつなぎに着替えて改造した後部座席いっぱいに清掃用の道具を詰め込んだ紺色の車で出発する。車のサンバイザーからカセットテープを選んでセットし、車の中に流れ込む音楽のリズムのまま朝日の射す高速道路へ乗り込んでいく。トイレでは手早くゴミを拾い、壁に設置された便器の裏の汚れを自撮り棒のような鏡で確かめる。仕事が終わると着替えて自転車で銭湯に行き、湯上がりのまま浅草へ自転車を走らせて地下街の居酒屋でレモンサワーと夕食を済ませ、夜は布団の中で文庫本に読みふける。その日の光景が白黒にちらつく夢を見て箒の音で目を覚ます。仕事には時計を使わないが休日には腕時計をつける。それもお洒落に留まり、休日を過ごす彼が時計に目を留めることはない。彼の居室には時計がなく、彼の一日は彼の生活が物語る。
それは突然平山の姪が訪ねてくることでも、同僚の若いタカシが惚れているアヤから頬にキスをされても、行きつけの居酒屋のママと元旦那が抱き合う姿を見てしまっても、崩れることはない。姪のニコに部屋を譲って箒の音が聞こえない階下で眠っても、箒の音が鳴る時間にはきちんと体が起き上がり、前の日と同じ一日を始め出す。平山は登場人物にも観客に対しても無口を貫く。黙っていても心の中の声を映像に当てはめて語らせることもせず、表情を極端に形作ることもせず、たとえば居酒屋へ行けなくなってコンビニでハイボールの缶三つとともに「ピース」とたばこを頼む一言の苛つきが強烈に響く。
平山の生活は生活の生臭さとは無縁だ。たとえば彼の部屋にはゴミ箱がない。畳に濡れ新聞を撒いて箒とちりとりで掃除をしても、汚れを絡め取った新聞紙の棄て場所はない。臭いと汚れしかないトイレに毎日通う仕事着は一着のみで、洗濯も一週間に一度のように見えるが汚さは不思議と覚えない。トイレという現場ながら汚物自体の映像はない。それは理想的な清貧を描くために必要な省略なのだ。過不足のない調和のとれた毎日のための平山の無口なのだ。
映画の最後に「木漏れ日」という日本語が解説される。日本にしかない表現らしい。そこで強調されるのは同じ影が二度生じることはなく、同じ風景の中にすら変化せざるを得ないという瞬間の儚さだ。その一瞬の輝きを連ねて平山という日々の綴られる速度は緩やかであり、静かな光に満たされている。
ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAY』はひたむきに静かだ。役所広司演じる渋谷区のトイレ清掃員の一日の過ごし方は緩やかな正確さで定められており、毎日のリズムは根本的に変わらない。けれども退屈はない。「変わらないということはありえない」と主人公の平山が言うとおり、日々は細やかに変化している。誰にでも起こりえるさざ波のような変化は平山の生活を乱すには足らないが、その日の平山の心は揺さぶられる。ほんの僅かの力加減で単調に陥る寸前の静寂が平山という人間像から描き出されていくのだ。
朝、向かいの神社の門前を掃く箒の音で薄暗い中目を覚まし、仕事着のつなぎに着替えて改造した後部座席いっぱいに清掃用の道具を詰め込んだ紺色の車で出発する。車のサンバイザーからカセットテープを選んでセットし、車の中に流れ込む音楽のリズムのまま朝日の射す高速道路へ乗り込んでいく。トイレでは手早くゴミを拾い、壁に設置された便器の裏の汚れを自撮り棒のような鏡で確かめる。仕事が終わると着替えて自転車で銭湯に行き、湯上がりのまま浅草へ自転車を走らせて地下街の居酒屋でレモンサワーと夕食を済ませ、夜は布団の中で文庫本に読みふける。その日の光景が白黒にちらつく夢を見て箒の音で目を覚ます。仕事には時計を使わないが休日には腕時計をつける。それもお洒落に留まり、休日を過ごす彼が時計に目を留めることはない。彼の居室には時計がなく、彼の一日は彼の生活が物語る。
それは突然平山の姪が訪ねてくることでも、同僚の若いタカシが惚れているアヤから頬にキスをされても、行きつけの居酒屋のママと元旦那が抱き合う姿を見てしまっても、崩れることはない。姪のニコに部屋を譲って箒の音が聞こえない階下で眠っても、箒の音が鳴る時間にはきちんと体が起き上がり、前の日と同じ一日を始め出す。平山は登場人物にも観客に対しても無口を貫く。黙っていても心の中の声を映像に当てはめて語らせることもせず、表情を極端に形作ることもせず、たとえば居酒屋へ行けなくなってコンビニでハイボールの缶三つとともに「ピース」とたばこを頼む一言の苛つきが強烈に響く。
平山の生活は生活の生臭さとは無縁だ。たとえば彼の部屋にはゴミ箱がない。畳に濡れ新聞を撒いて箒とちりとりで掃除をしても、汚れを絡め取った新聞紙の棄て場所はない。臭いと汚れしかないトイレに毎日通う仕事着は一着のみで、洗濯も一週間に一度のように見えるが汚さは不思議と覚えない。トイレという現場ながら汚物自体の映像はない。それは理想的な清貧を描くために必要な省略なのだ。過不足のない調和のとれた毎日のための平山の無口なのだ。
映画の最後に「木漏れ日」という日本語が解説される。日本にしかない表現らしい。そこで強調されるのは同じ影が二度生じることはなく、同じ風景の中にすら変化せざるを得ないという瞬間の儚さだ。その一瞬の輝きを連ねて平山という日々の綴られる速度は緩やかであり、静かな光に満たされている。