えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

待年望春

2015年12月31日 | 雑記
晴れにしようか曇りにしようか、灰色の雲で空を縞模様にしながら悩むような天気を
窓からぼうっと眺めていたら出かけるにも中途半端、家に居るにも腰の据わらない
妙な気分になってしまって、結局エアコンのフィルターの掃除を手伝った後は
部屋で腰かけてたんたんと掘り出した『鎌倉ものがたり』の文庫を読みふけっていた。

時々掃除機の音がする他はなにもない。

昔、冬休みがまだあった頃は掃除するものや場所が沢山あって、それに狩り立てられるように
この一日を過ごしていたけれども、場所が個人の年月の緩やかな堆積に固められて出来てくると
だんだんに場所は家とつかず離れずいるにかかわらず、その部屋に籠った誰かの年月に
押し出されるような気配が醸し出される。
そのせいか、この部屋には雑文をパソコンで打ち込む私のほかには誰もいず、誰も来ない。
掃除が一段落したのか、家の中はおさまりが付かないものが散らばりながら
嵐の前のような凪が漂っている。

遊ぶ声もなく外は静かだ。

外の梅木は今年もまた、日の温かさに惑わされて花を開いている。

静けさに閉じ込められたまま、今年の終わりと来年の始まりを今は迎えていたい。

―――
二〇一五年。
ブログを始めてから振り返るとどれくらい日にちが経ったのでしょうか。
分からないままに書き進めてまいりました拙文を読んでいただいている皆様、
そうでない皆様、本年もありがとうございました。
そしてよいお年を越し、新たな年を楽しく迎えられますように。
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・騒ぎのあとさき

2015年12月26日 | コラム
 街は息切れしたかのように静かだった。クリスマスを過ぎた一瞬、途端に押し寄せる来年というボールを受け止めかねて脇に落としてしまい、どうしたらよいかわからないといった風情を引きずりながら車が街を通っている。正月飾りの松を抱えて歩くのは贔屓目に見ずともお年を召した方が大半、「来年」三月の締日に合わせて動く会社勤めの人間は年を跨ぐということを一顧だにせずスケジュール帳へ予定を詰め込み年末年始は彼らにとって少し長い連休のひとつといった程度なのかもしれない。クリスマスの予定に合わせて動いている気がしないでもない彼らはその熱っぽさから醒めてゴミ収集車の予定表を改めると捨てたいものを集める時期はとっくに過ぎている。かといってメディアからはことばや赤白の模様が切り替えボタンでも押したかのように年末と正月に向けて何かをしなさいとけしかけている。さて、どうしようか?

 カレンダーの一月が四月によく変わらないものだ、と毎年思う。年齢が増えるのは誕生日、学校や会社の終わりは三月、始まりは四月。そのサイクルで動くことに慣れていると、突然現れる切り替わりの十二月と一月の狭間を人は持て余しながら動いているように見える。彼らにとっての来年は「来年の四月」であって、正月ではない。なのにコンビニへ行けば正月飾りが売られ、デパートへ行けば紅白の垂れ幕が赤緑のツリーに代わって釣り下がり、テレビでは振袖の美女が「お正月は○○へどうぞ!」と皎い歯をひらめかせる。正月に何を迎えるのだろう、何も終わっていないのに何故十二月は終わるのだろう、今年はまだ終わっていないのに、という暗黙の疑問を孕みながらとってつけたように掃除をし、周りに合わせて食べ慣れない味の煮しめや雑煮の支度へもそもそと手を付けてゆく。

 年越しを肌で感じ手を動かすには、果たして今自分は何をしているのか分からない不安が影に寄り添っている。それを思い起こさせて一月のショウバイへ繋げ、三月の締日につなげるための準備期間がクリスマスと大晦日の間の一時なのかもしれない、温かさにコートの第一ボタンを外しながらそんなことを思い見上げると日当たりの良い枝先に紅梅が早すぎる花を咲かせていた。
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<遊び心のプログラム>電車とゲーム

2015年12月12日 | コラム
 数年前に『モンスターハンター4G』が携帯機で発売された時は、発売から数週間の電車は両手で携帯機を握りしめてイヤホンで耳を塞いだ背広姿の大人で埋まっていた。たまに女性がプレイする画面を覗けば『とびだせ!どうぶつの森』の柔らかな色彩を歩き回るキャラクターが見えた。

 それから時が経った先月二十八日に新作の『モンスターハンターX』が発売されて二週間、車中の風景は変わる様子もなく駅のホームでは盛んにスマートフォンを歩きながらいじくるなと叫びたてている。うつむいて人は片手の親指で画面をフリップしながら吊り革に掴まり、席へ座り、急ブレーキで倒れ込みながら肘鉄を他人の脇腹に喰わせつつじろりとぶつかった相手を睨み付け、スマートフォンの画面へ戻ってゆく。雪崩のような人の乗り降りの流れには両手を使う機械と睨めっこできる猶予や余地は無い。

 操作に両手を使うゲーム機を電車で操る人は体感的に減った、と思う。新作のゲームが携帯機で発売されていても、電車でそれを起動させている人はぐるりと見渡して車両に一人いるかいないか、たまに両手で機械を抱え込む人がいてもよく手元を見ればその薄さでスマートフォンだとわかる。PSVitaが占めていた両手にはスマートフォンが埋まっている。LINEなどのSNSで連絡を取り合う人と同じ程度、その手ではゲームが遊ばれている。

 両手の指の数だけあるボタンの組み合わせとタイミングを要求されるアクションゲームと専用の機械に対して、画面の接触センサーさえ無事ならば指一本で済むスマートフォンはゲーム専用に作られていないためにものとしての汎用性に優れていることは当たり前のように理解できる。ゲーム機に対して何かを「付け加えれば」スマートフォンと同等に電話が出来たり、インターネットに接続して通信することは可能だろうが、そこには「付け加える」という過程が生じる分不便が目立つ。メールを打ち込んだ指の動きそのままでゲームが出来てしまう機械に対してコントロール専用の機械と言う概念もそのうちなくなってしまうのかもしれない。
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