えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・化け物その後

2023年10月28日 | コラム
 人間が化け物になることはたやすい。何もしなければ簡単に化け物になる。何もしないということは、周りとも物ともかかわらないということで、人は体の中に自らを閉じ込めて外側の沈黙を保つことはできる。引き換えに体の内側では外側に発散されない対話が渦巻いて、外へ出ることの叶わない言葉が延々とこだまする。本を手に取ろうとしてもそれが他人の言葉であることに気づくと他人とのかかわり、大量の他人が外にいることに対する自分の幼児性に気づかされてまた自分の殻にこもる。安全でも何もない一時しのぎだ。体は柔らかい化け物と化していき、声をかける人もいなくなり、外からの刺激を体は受けなくなる。外からの刺激に鈍くなる。刺激への感受性が鋭くなる。言葉は体の中で渦巻く。ひとたび外からつつかれれば言葉は弾け出すが人にわからせる手続きを踏まない言葉は散漫として散らばり、かき集めて辛うじて形を判別できるものの中身はわからない。内臓のほうが誰でも形が決まっているだけましなほど、言葉の肉片はいざ散らばると「わからない」の言葉にさらされる。他人と向かい合わない沈黙は泥になる。体のなかに泥を抱えるものは自らの体の中の泥に引き込まれて形が分からなくなる。気が付くと白髪が体から落ちて社会が自分を逃がさなくなり、社会から自分も逃げられなくなり、みじめにみじめに老いた自分と鏡に気が付く。化け物は触れた指先のそこにいる。二本足で立つことも絶望的に打ち沈むこともなく化け物は化け物のまま打ち壊されない肉体を持て余して外に放り出され、本当の化け物となる。
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・いなくなる

2023年10月14日 | コラム
 家族が引っ越すことになった。仕事の都合で通うには遠く、それに前々から早く家を出たいと希望していたのだから当然のことだ。それがコロナウィルスの流行で延び延びになり、ようやく落ち着いて物件の内覧に行くことができるようになったので今月中には家を出ることが決まった。今日は家の外で家を出る家族に頼まれたきょうだいが電気のこぎりを振るい何かの部品であった金属製のパイプを切っては不燃ごみの袋に詰めている。去年の工事のように大きな音が鳴り響き、微熱で横たわっている頭に振動が地面を伝わって響くのは堪えた。それ以上に家族が出ていって年末年始も家に戻らないという返事を聞いてから、自由に生きられる余裕のある相手が羨ましく、また二度と戻らないという発言に見捨てられたかのような寂しさを覚え、飛び立てない自分がより浅ましく惨めに見えている。

 年が離れているのでお互いに思い出は薄い。けれども家具のように今までそこにあったものがなくなるということに私は動揺している。家から誰かがいなくなるのは何度か過ごして来た。生きているのに永遠の別れを宣告されるのは、特に家族の誰かがということではなく、家族という全体が厭わしくなったのだと思う。独立した人間としては至極まっとうな成長なので何もいえない。送り出す日に用事ができて私が一日中家にいない日であることを望むばかりだ。いないことに慣れようと顔を合わさないよう過ごしている自分の依存心の深さが今はとにかくおぞましい。年々人は変化するごとに人になるか人以外の生き物になるかを選択している。私は化け物になりかけている。
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