四年前のアプリケーションなのでむしろ安心してインストールした。『ポケットモンスター』系列のスマートフォンゲーム『はねろ!コイキング』はスマートフォンアプリの構造を知るには程よくうってつけのゲームだ。インストール無料かつゲーム内課金システムというアプリケーションの集金技術の基本を押さえつつ、ゲームの止め時が分かりやすく作られているので、大人ならばあまりのめり込まずに済むゲームに出来ていると思う。付け加えるならば現在はFacebook連動のランキングシステムのサービスが停止しているため、他人との競争による射幸心を煽られないことも現在遊ぶには利点だろう。
ゲームのお話は至って簡潔で、『ポケットモンスター』の世界ではゲームボーイの頃から最弱の名をほしいままにしたポケモン「コイキング」版の『俺の屍を越えてゆけ』だ。コイキングの得意技「はねる」の高さを競うという鯉マニアの集う町で、プレイヤーはコイキングを育てるブリーダーとなり数多のコイキングたちを育て、空高く跳ねるコイキングを育ててゆく。だが、コイキングには成長限界があり、一定のレベルに達するとそれ以上育つことはできず引退してしまう。けれども一匹のコイキングを限界まで育てきるとプレイヤーのブリーダーの腕が上がり、次に育てるコイキングたちの成長限界を上げることが出来る。それを繰り返して何匹もコイキングの代を重ねてブリーダーを育て上げ、コイキングの能力をただひたすらに高めて各大会のライバルを蹴落としてゆくのだ。ちなみに引退したコイキングたちは他の生け簀で平和に暮らしているので、気が向くとプレイヤーが現在育てているコイキングの水槽へ様子を見に来てくれる。後輩を見守る先輩の心境なのだろう。
アプリケーションとしては俗に言う「スタミナ式」で、コイキングを効率よく育てて早くゲームを進めるためにプレイヤーは課金することとなる。ただ、課金のみで入手できるアイテムなどは無いので、課金をしたくないプレイヤーは時間を掛けてのんびりと「一日一時間」ペースで進めればよし、早く進めたければ課金をすればよし、と、プレイヤーを焦らさないように出来ている。水槽の中をうろうろしているコイキングを眺めたりつついたりエサをやっているだけでもあっさり時間が潰れるものの、プレイヤーがゲームに干渉できる要素は限られているため止めやすい。丸書いてちょん、の目をした無表情なコイキングと液晶越しに見つめ合っているとこちらも無心になれるかもしれない。地上の大会で空高く跳ねている彼等はおそらく逞しい。
とまれプレイヤーの出来ることが「選択」と「水槽内のコイキングの移動」のみに限られているので、細かい操作に悩まされること無くコイキングを無心で愛でて遊ぶ。それ以上でも以下でもない簡潔なところが、ゲームとして「遊ぶ」感覚の限界を攻めているようで何とはなしに好もしく思う。
ゲームのお話は至って簡潔で、『ポケットモンスター』の世界ではゲームボーイの頃から最弱の名をほしいままにしたポケモン「コイキング」版の『俺の屍を越えてゆけ』だ。コイキングの得意技「はねる」の高さを競うという鯉マニアの集う町で、プレイヤーはコイキングを育てるブリーダーとなり数多のコイキングたちを育て、空高く跳ねるコイキングを育ててゆく。だが、コイキングには成長限界があり、一定のレベルに達するとそれ以上育つことはできず引退してしまう。けれども一匹のコイキングを限界まで育てきるとプレイヤーのブリーダーの腕が上がり、次に育てるコイキングたちの成長限界を上げることが出来る。それを繰り返して何匹もコイキングの代を重ねてブリーダーを育て上げ、コイキングの能力をただひたすらに高めて各大会のライバルを蹴落としてゆくのだ。ちなみに引退したコイキングたちは他の生け簀で平和に暮らしているので、気が向くとプレイヤーが現在育てているコイキングの水槽へ様子を見に来てくれる。後輩を見守る先輩の心境なのだろう。
アプリケーションとしては俗に言う「スタミナ式」で、コイキングを効率よく育てて早くゲームを進めるためにプレイヤーは課金することとなる。ただ、課金のみで入手できるアイテムなどは無いので、課金をしたくないプレイヤーは時間を掛けてのんびりと「一日一時間」ペースで進めればよし、早く進めたければ課金をすればよし、と、プレイヤーを焦らさないように出来ている。水槽の中をうろうろしているコイキングを眺めたりつついたりエサをやっているだけでもあっさり時間が潰れるものの、プレイヤーがゲームに干渉できる要素は限られているため止めやすい。丸書いてちょん、の目をした無表情なコイキングと液晶越しに見つめ合っているとこちらも無心になれるかもしれない。地上の大会で空高く跳ねている彼等はおそらく逞しい。
とまれプレイヤーの出来ることが「選択」と「水槽内のコイキングの移動」のみに限られているので、細かい操作に悩まされること無くコイキングを無心で愛でて遊ぶ。それ以上でも以下でもない簡潔なところが、ゲームとして「遊ぶ」感覚の限界を攻めているようで何とはなしに好もしく思う。