:「リクガメの憂鬱」 バーリン・クリンケンボルグ 草思社 2008年
:「呉船録・攬轡録・驂鸞録」 范成大 東洋文庫 2001年
一つは長江を下って、もうひとつは家の庭から空を見上げて、今あるそのものだけに想いを馳せている二冊を読んでいる。
セルボーンというイギリスの片田舎に住む亀は、とある博物学者のつつましやかな書簡によって世界の、こんな日本の片田舎で、きっと彼が死んでから200年以上経った今、その存在を知ることができるほど足跡をしっかりと残されることになった。
「セルボーン博物誌」からは著者ギルバート・ホワイトの姿も、亀も、アンテナを張り巡らせていなければその姿はこぼれてしまう。他の多くの書簡からもホワイトと亀の姿を取り出して組み立てて見せたのは作者の編集者と言う仕事がよくよく役立っていて、ろうそくの代わりに灯心草を使うところなどはにやりとさせられる。
ただ亀がちょっと文句を言いすぎだなあと思う。文句と捉えてしまうのはたぶん作者なりの冗談を聞かせた部分なのだろうけれど、こうしたことばはメレンゲのようなもので、硬すぎても柔らかすぎてもしっくりと行かない。焼いたときにさっくりとした歯ざわりを味わうためのメレンゲ作りは意外に重労働なのだ。
范成大という1000年近く前の男は、仕事で赴く任地の旅に苦しむ影を見せず、日々の情景を一つずつ愛し、起こったことを受け止めて文字に日々落とし続けていった。その文体はのちに日本に渡り、詩は宋時代の随一として愛された文人だった。今その詩集を日本語の訳つきで手に入れるのは思ったよりむつかしい。でも、詩より愛されたのはその日記のことばだった。
小川環樹氏の訳から一文をひく。
「ここに至って回顧西望すれば、もはや遥かのかなた一つの点ともみえぬくらいになり、ただ蒼煙落日、雲は平らに限りなく、高きにのぼって遠きを懐う嘆あるのみである。」
「さまざまの難儀なめ」を途中ひと言で済ませて駆け出すように見上げた空の、蒼と赤が複雑に入り混じり変化してゆく落日の雲に彼のついたため息は、すべて疲れたものをさらりと吐き出して、あとはただ来た道のりと平坦な大地を包み込む空に心をゆだねるだけである。
これはもうぜひとも、漢文で読まなければならないと思い先日ついに古書を購入した。寛政時代の本はダンボールより軽い。ページの中の白いところだけを器用に食べた虫食いの跡とセピア色を通り越して茶渋色のよれた紙に関わらず、墨の線は黒々と残っていて文字に欠けたところは無い。180歳年上の彼に使われているフォントは細いくせに芯が太く頼れる耳だ。小川先生の訳を頼りに漢字の流れを秋の夜長、解き明かしてゆきたい。
どちらも水の流れのように、時間を独特に辿る本だ。