八か月ほどで日本全国、変化に耐えきれない、と言うにはあまりにも拙速で酷な現実に街のあちこちが潰され、人手が戻る日を虎視眈々と狙うご新規様の得体は知れず、「保つ」「続ける」ことの純粋な難しさが突きつけられている。四月の緊急事態宣言により一時的に止まった人出がそう簡単に戻るわけはなく、冬の乾燥に乗じて病魔はさらに勢いを増し、年末年始の人出をもう一度きつく締めたことであきらめを悟った東京都内のあちこちには空白が生じている。入れ替わる時はいつか来るのだと高みから見下ろし、かつて街を作っていた店たちの跡地は新しい新しい錦の御旗でまったく飾りつけられようとしている。新しくなることは良いことらしい。新しい年を迎えられることはありがたい。それを迎えられないことはありがたくはない。矢鱈めったらな変化の押しつけに街が悲鳴を上げている。
病気感染の合間をかいくぐって出かけた先は、自分の狭い行動範囲ですら行きつけの店が喫茶をやめてしまったり営業時間を変えたり、メニューを減らしたりと生き延びるための工夫が何とか功を奏して青息吐息の状態だった。それから夏場を経た頃から重体の病人が恢復の兆しを見せ始めたかのように人通りがぽつぽつと戻り街は息を取り戻そうとした矢先の冬、感染者は増加して都道府県の知事たちは我先に会見を開いてもう一度街の首を絞めた。今は耐えるときですと号令をかけるだけで肝心の救済策は国に放り投げ、国が間違えば批判するだけの繰り返しの報道から逃れるためにだいたいの人はインターネットで内閣府や都道府県の公式ホームページへ行く。小さな画面へ向かい合っている間に街はまた息を止めたかのような沈黙に落ち込んだ。
歩けば歩くほど月を跨ぎその街が涙を流しているような街を歩いた。勤務先から命じられて通勤も無くなる今日、電車で遠くに出かけることは大きな贅沢と化したが、それだけ(特に東京は)繁華街に出かける人も回数も大幅に減った中で、観光客のために調整されていなくともあっさりとドーナツ化する都内には大きな穴が空いている。目に見えるシャッター街だけではなく、そのシャッターが開いていたころに通い詰めていた人々の思いごと大きな穴があちこちに空いている。
それでも、何度でも言われているがそれでも、人の体は生きるように作られている以上、毎日を目に焼き付けながら誰にでも平等に訪れるその日までを生きるように走らなければならない。ただ、走り続けられなくなるほど傷ついた人、街、失った場所に対して、差し伸べられる手を今は願い求め、その跡地を引き継ぐ人々にせめて街というものを意識してその土地に生きようとする志を求めるのみである。
本年は地球が沈黙したかのような厄災が訪れました。数年、あるいは数十年かかるであろうと言われていた変化が圧縮された八か月により街も人も強制的な順応を求められ、大鉈を振るわれたかのように明暗が分かれました。誠実に生きていても暗闇に叩き落とされる。終わりなき夜に突き落とされることが身近になりつつある中だからこそ、そこに陥った人を責めることなく、自分だけに引きこもることなく、視野だけは広く保ちたいものです。
年々言葉という伝達する道具の役割は増えたような減ったような、書く人は増えても読む人は減っているという奇妙な話も耳にいたします。今年は特に個人の発信媒体としてブログと言う形式もまだまだ現役であることを見せつけましたものの、書き手過多の時代にことばはどのように生き残るか。そうしたところを陋巷にて思い巡らせつつ、今年のまとめといたします。本年も一年、ありがとうございました。来年は苦しんだ人にこそ、より希望の光が多く差しますことを願っています。
病気感染の合間をかいくぐって出かけた先は、自分の狭い行動範囲ですら行きつけの店が喫茶をやめてしまったり営業時間を変えたり、メニューを減らしたりと生き延びるための工夫が何とか功を奏して青息吐息の状態だった。それから夏場を経た頃から重体の病人が恢復の兆しを見せ始めたかのように人通りがぽつぽつと戻り街は息を取り戻そうとした矢先の冬、感染者は増加して都道府県の知事たちは我先に会見を開いてもう一度街の首を絞めた。今は耐えるときですと号令をかけるだけで肝心の救済策は国に放り投げ、国が間違えば批判するだけの繰り返しの報道から逃れるためにだいたいの人はインターネットで内閣府や都道府県の公式ホームページへ行く。小さな画面へ向かい合っている間に街はまた息を止めたかのような沈黙に落ち込んだ。
歩けば歩くほど月を跨ぎその街が涙を流しているような街を歩いた。勤務先から命じられて通勤も無くなる今日、電車で遠くに出かけることは大きな贅沢と化したが、それだけ(特に東京は)繁華街に出かける人も回数も大幅に減った中で、観光客のために調整されていなくともあっさりとドーナツ化する都内には大きな穴が空いている。目に見えるシャッター街だけではなく、そのシャッターが開いていたころに通い詰めていた人々の思いごと大きな穴があちこちに空いている。
それでも、何度でも言われているがそれでも、人の体は生きるように作られている以上、毎日を目に焼き付けながら誰にでも平等に訪れるその日までを生きるように走らなければならない。ただ、走り続けられなくなるほど傷ついた人、街、失った場所に対して、差し伸べられる手を今は願い求め、その跡地を引き継ぐ人々にせめて街というものを意識してその土地に生きようとする志を求めるのみである。
本年は地球が沈黙したかのような厄災が訪れました。数年、あるいは数十年かかるであろうと言われていた変化が圧縮された八か月により街も人も強制的な順応を求められ、大鉈を振るわれたかのように明暗が分かれました。誠実に生きていても暗闇に叩き落とされる。終わりなき夜に突き落とされることが身近になりつつある中だからこそ、そこに陥った人を責めることなく、自分だけに引きこもることなく、視野だけは広く保ちたいものです。
年々言葉という伝達する道具の役割は増えたような減ったような、書く人は増えても読む人は減っているという奇妙な話も耳にいたします。今年は特に個人の発信媒体としてブログと言う形式もまだまだ現役であることを見せつけましたものの、書き手過多の時代にことばはどのように生き残るか。そうしたところを陋巷にて思い巡らせつつ、今年のまとめといたします。本年も一年、ありがとうございました。来年は苦しんだ人にこそ、より希望の光が多く差しますことを願っています。