えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・雑感:『ロマンシングサガ2 リベンジオブセブン』所感

2025年01月11日 | コラム
 知人から「遊んでほしい」と言われ、年末年始の緊張感の解消のために新しくゲーム機ごと今更のゲームを買った。今振り返れば他のことに使った方が良さそうな金だが、その時は気持ちの余裕もなく、手持ちのゲームは遊び尽くしてしまったので興味本位で手を出した。難易度は「オリジナル」を選択した。

 本作は1993年に発売されたスーパーファミコンの『ロマンシングサガ2』をフルリメイクした作品で、帝国の皇帝となり自身の技術を後継しながら凶悪な七体のボスモンスターを倒すのが目的だ。原作の基本システムを踏襲しつつ「アビリティ」や「連携」という新しい要素が追加されている。グラフィックは3Dとなり、ダンジョンの探索にはジャンプや視点の移動の要素が追加された。最初の難易度は「カジュアル」「ノーマル」「オリジナル」の三種類で、特定の条件を満たすと「ベリーハード」「ロマンシング」の難易度が追加される。ゲーム上の説明では「オリジナル」は原作の難易度を再現したものと書かれているが、先の新システムの導入により原作とは主に戦闘のバランスが大きく変化しているため、原作をプレイした知人からは実質「ノーマル」が本来の難易度に近いと聞いた。「オリジナル」を選んだのは興味本位だ。飽きてしまうかもしれないと感じたためだ。

 実際プレイした所、自分のプレイングが悪いとはいえ想像や言われているよりも自由度は低めだと感じた。まずチュートリアルが「オリジナル」の場合は非常に長く感じられる。本作ではドラクエなどの「とくぎ」に該当する「技」の習得が非常に重要な鍵となるが、習得した技を登録していつでも使えるようにできる施設の開放にはボス戦を最低三回こなさなければならない。さらに使えるユニットを増やす為には追加でボスを一体倒さなければならないのだが、これがまたやたら手強い。まだゲームのお作法に慣れていない私は早速難易度の洗礼を浴びて実質初代皇帝を戦死させてしまった。当然ながら覚えた技は泡と消え、仲間は激しく傷つき、ほぼ一からの再スタートとなってしまった。

『俺の屍を超えてゆけ』は似たような状況になっても地道に稼げばいくらでも取り返しは利くが、本作は戦闘回数を重ねれば重ねるほど敵が強くなるので、安易な再スタートは詰みのもととなりかねない。かといって戦死を重ねてもユニットの補充に限界があるため、何度かリトライを繰り返して次の皇帝で撃破した。こんな調子でボス戦はほぼ毎回死んで覚えることが多い上、地方によって敵の強さが変わるため、気まぐれに各地を探索した結果大惨事に陥ったことは枚挙に暇が無い。またイベントも制限時間が設けられているため、これも安易にいろいろなイベントをクリアしてしまうと肝心のイベントを取り逃してしまうこともある。それを踏まえると攻略ルートはかなりきっちり考えなければならない上、「オリジナル」の場合は敵の強さの振れ幅が極端なので、安牌を取ろうとすると必然的にルートが絞られてしまう。そしてミスは許されない。

 どんなゲームでも効率を求めれば最適解の末にルートは固定されざるを得ないが、取りあえず自分の場合は『風来のシレン』や『俺の屍を超えてゆけ』のように、失敗からの挽回や立て直しを楽しんできたフシがあるため、全てを成功させなければいけない『ロマンシングサガ2』とは若干相性が悪いのかもしれない。ゲームは一切悪くはない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・天まで走れ

2025年01月01日 | コラム
 年明け前に駐車場へ滑り込んだ。角の街灯の下でダウンジャケットに身を包んだ四人連れがにこにこ笑いながらタバコを吹かしているのを見て弟が眉を顰めた。「路上喫煙禁止だって知らねえのかよ」「さあどうだろうね。知らないんじゃないのかな」「んなわけねえだろ」車の窓は閉じていた。彼等が何を待っていたのかはわからない。近くの焼き肉屋はまだ光が灯っていたが、終業は二十三時だった。とうに過ぎている。今年も空から星の光が突き刺すように輝いていた。深夜の頂点の今時分が好きだった。かつては境内で火を焚き、一年それぞれの家庭を守って役目を果たしたお札や破魔矢を空へ帰していった。それが無くなってこれからもう五年になるというのに、参拝の列へ並ぶとふっと境内の暗みに眼を向けてしまう。火が焚かれて木々がはぜる音の幻が聞こえる。思い出の中から反響する音は頭の中にこだまして殷々と眠りかけの頭を揺り起こす。新年が訪れるまであと二〇分ほどだった。除夜の鐘が響く。気にせずごんごんと鳴らしてほしい。音が列に沿って煩悩を吹き上げていく。それを迎え入れる空は雲一つ無く開かれている。この時間だけは唯一忙しない年末年始の中で沈黙と落ち着きを感じる時間だ。本殿が開きご神体が御簾の影から姿を覗かせている。神職が祝詞をあげて同じ灰色のダウンジャケットを着た四人の壮年の男が頭を下げている。いつの間にか年が明けた。ハッピーニューイヤーと列のあちこちから声が聞こえる。ふと振り返ると列は随分と伸びて鳥居の外まで続き、蛇のようにもぞもぞと前へ詰めようと蠢いていた。明るい拝殿へ飲み込まれるように人の列が動き出した。「何をお祈りしようかな」「今年もいい年であるように、とか、他に何かあるかな」とすぐ後ろの女性二人が高く声を上げている。私と弟はとりとめのないパソコン新調の話をしながら前へ進み、参拝を済ませて社務所へと向かっていった。

 本年が無事迎えられましたことをまずは感謝いたします。去年の今頃何が起きたか、何が起きてしまったか、一年過ぎてもまだ記憶に新しく残るのではないでしょうか。「それでも」と私たちは書かざるを得ません。死ぬまで生きることしかできません。年を取ると共にそれがいかに苦しみに満ちた道であるかを知る人も居れば、苦しみを知らずに楽しめる人、苦しみを知りながらも楽しみを足りる人、生き方はそう定められてはいないのかもしれません。
 徒然と書きましたが本年もこのような調子で改めてお願い申し上げます。そろそろ二十年選手が見えて参りましたが、プラットフォームがなくならない限りはここで書くと言うことは止めないでいようと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・毎年の終わり

2024年12月31日 | コラム
 今年もひるねが長かった。会社と同じ時刻に起きて、気分がずんと落ち込んだ鬱を言い訳にしようと考え二度寝して二度寝を止め、着替えて準備していた掃除道具を手に取る。脚立を上り下りして作業。背が届かないのでどうしても脚立との共同作業となる。運動不足の身体にはどんどんと堪える。バケツに溜めたぬるま湯はあっという間に冷えるが、去年の寒さに比べれば全然ましであった。今年は通年の平均最高気温を更新したらしい。確かに朝も突き刺さるような寒さとは無縁で、通勤の通り道の公園の土を踏んでも霜柱の高さは低く、風も冷たくはない。髪が邪魔だった。

 弟がガレージで車を洗っていたので、この掃除が終われば一番大変な
玄関掃除を手伝ってもらえるだろうかと薄ら期待していたが、最後の掃除に移る頃には車ごと姿を消していた。昼頃には戻ってきていたがどこへ行ったのかを訊ねるのも面倒になるほど疲れていた。玄関掃除は一人でやりたくない理由は、玄関扉を大きく開けなければならず、昨今の時勢柄少しでも眼を離したら誰かが入ってきそうなのがただ恐ろしく、人がもう一人居てくれれば安心になるのだが、肝心の労働力は消えてしまった。仕方ないので、少しでも休んだらもうそのまま動かなくなりそうであったので、左半身をきしませながら玄関の土間にあるものを外へ出していった。今年は出かける人はおらず文句も無かった。デッキブラシでこすっても取れない汚れが増えていく。自分の人生と同じように増えた取れない汚れをこすって水を流すとまあまあ見栄えはましになった。泥靴の靴跡が往復する。あまりにもホースの水圧が低いのでホースは全て出してしまった。途中で酷く折れて水圧が減っていたようで、ホースを全て出してしまうとまともな水圧に戻り、水圧でだいたいを掃除して水洗いを終え、あとは腰を溜めてデッキブラシにもたれかかるように力を込めてこするだけだった。雑巾で玄関のドアを拭き終えるとやっとこさ掃除が終わる。たった三時間だが左半身がひび割れたように疲れていた。毎日はできない。毎年一度だから何とか責任感でできるだけだ。いつまでも続けなければならない。いつまで続けられるだろうか。歳を重ねていく。私たちは老人になりつつある。

 休んでいると弟が帰ってきた。母と姿を間違えて声をかけると野太い声が返ってきたので身をはね起こすと、昨日母が仕込んでいた唐揚げ用の肉を冷蔵庫から取り出そうと難儀していた。「おかえり」「ただいま」これくらいの距離が年齢の適切なのだと思う。

 本年も一年お付き合いいただきましてありがとうございました。こちらでは時事について書くことは慎んでおりましたが、毎月のように国や世界が変わりかねないニュースが飛び交うとても忙しない年であったと思います。来年もまた早々にアメリカ大統領の交代という大きな転換が訪れますが、国に絶望せず個人に埋没しすぎず、己を尽くすことが人にできることではないかと思わされた次第でした。
 とうとう二十年近くここに居座っておりますが、また来年も年を積み重ねるため、何卒よろしくお願い申し上げます。よいお年をお迎えください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・ゲームセンターへ

2024年12月28日 | コラム
 放出台だった。会社の近くのゲームセンターは殆どが一回200円であったことを踏まえると一回100円の台は当然ながら放出台と見るべきで、かといって以前随分前の景品を2000円きっかりの確立機で掴まされた覚えもあり、放出台といえどもクレーンゲームの筐体の設定は店側の良心にかかっている。繁華街のゲームセンターだった。隣ではのび太とスネ夫を足して二で割らないような小柄な男に、ジャイアンを小粒にしたような男が「次失敗したら殺すぞ」と脅しをかけていた。若い二人連れだった。「こつがあるんだよ。おまえは全然できねえな」と筐体の横から景品を覗き見ながらも指示はせず、どこにアームを入れるか考えているようだった。隣で私は引きずられるようにゲームを遊んでいた。珍しくきちんと動く橋渡しの台で、景品は今年頭に流行ったアニメの主人公だった。知人が好きなので取っても無駄にならない。隣ではジャイアンとのび太が両替をするか店員を呼ぶか迷っていた。QRコードを読み込めば店員が来ることを教えたが、ジャイアンは短気にも私が来る前に助言を受けた店員を探しに筐体の光が眩しい店内へと消えていった所だった。
「そんな便利な機能があるんですね」
「すぐ来てくれますよ」
 ジャイアンが戻ってきたので私はゲームに戻る。起き上がりこぼしのように安定しない景品だった。店員を呼んでもきりがない。しばらくゲームから遠ざかっていた事もあり、ゆっくり遊びたかったが如何せん一回が重なればそれなりに高い。気がつけば四千円ほどすっていた。のび太はジャイアンの手助けで無事景品を手に入れ、ジャイアンは続けざまに店員を呼んで新しい景品を置かせると「1000円で取るから」とゲームに挑み始めた。私はまだ取れなかった。
 またジャイアンが両替に行くとのび太は筐体の前に回って動かし方を考え始めた。
「上手い方なんですね」
「はい、うまいです。ほんと・・・」
「私なんか下手すぎて殺されるかも知れませんね」
「いやあ、ほんとにうまいので、僕も殺されそうです」
 のび太は見かけによらず物怖じしないのか、マスクをかけたワンレングスが静電気で派手に散らかっている様態の女から声をかけられても平然と返事をした。ジャイアンが戻ってきたので口をつぐむ。彼は確かにうまかったが、結局2000円ほど巻き上げられて「すぐ転売するぞ」と捨て台詞を吐いて去っていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・明日の話

2024年12月14日 | コラム
 何をしに遠くへ行くのだと訊ねられた時の答えは相手に応じて変えている。そう親しくもない人には「遊びに」と応じ、ついでにお勧めの店や場所を教えてもらう。親しい人には「会いたい人に会いに」と伝える。納得してもらえることもあればしてもらえないこともある。相手にも私にも与えられた時間は平等でスタート地点が異なるだけだ。その日一日の時間の割り当てを私の為に少し割いてもらう。そのためには何かしらの代償を払うことは礼儀として当然ではないだろうか。実際それを売り物にするしょうばいも紀元前から存在している。私はその場所に取っては一過性のお客様なので、喋ってもよい。好きなことを適度に(これが難しい)話してもよい。ただし口に出して声に乗せて喋るので取り返しはきかない。人によっては打ち消せない。そこまで疑り深い人とは向こうの方から離れていくので遭遇したことは幸いにない。家族以外の人に会う時に抜ける息は年年増えるばかりだ。どれだけ身体の中に呼吸をため込んでいたのかと呆れるほど外へ出た私は喋る。どもりながら喋る。喋ることが無くなっても相手の時間をねだるほど喋りたがる。今日も忙しい相手を捕まえて三〇分もらった。いただいた。

 メールやSNSなど文章を使うほうが楽ではあるのだが、書けば書くほど身体の中に余計な物が溜まっていく感覚を覚えることもある。それは相手に対してではなく、自分自身で文章を推敲するために繰り返している最中自分に向けられる視点が放り投げる夾雑物だ。伝えるための文章は伝わらなければならない。伝わりたいことを絞って伝わるように書く。当然のように求められる能力だが難しいと思う。伝えたいことと伝えなければならないことの分量に生じる差を自覚するには慣れと賢さと、それから親切な相手が必要だ。

 今のところまだそれを指摘してくれる相手はいる。できる限り無くしたくないと思う。忘れられないように顔を見せに、どう見られるかは構わずに会いに行くそれはおそらくストーカーの心理に近いのかもしれない。昔はもう少しマシな言葉があったはずだが、今は古びてしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・さよならを教わる

2024年11月23日 | コラム
 恩師が亡くなってふた月を経て同窓生と集まった。年齢こそ皆近いが年次は微妙に異なり、冷静に数えると私が一番上だった。先日の氷雨に打たれてひいた風邪が治りきらないと幹事に伝えると、日付が変わる直前に「レンタル会議室を押さえました」と手早い仕事が返ってきた。ありがたかった。皆姿は若々しく変わらない。変わったのは私くらいだ。それでも、変わらないと思っている彼等の隣へ若いときの写真を並べると、姿形以上に重ねた年月と経験が被さっていることが分かる。その雰囲気だけは成長していないだろう私は変わらないと思う。もっと卑屈になっているか、もっと鬱々としているか、いずれにしても私は私の重要な部分を変える努力を怠っているのだろうと皆と並びながら常に引け目に思い続けている。
 恩師といえども私の場合は遠目から眺めて思い入れを強めていた程度で、皆のように先生へ直談判したり、食事に誘って頂いたり、人生の行く先を心配されるほど近くで喋ったことはなかった。無かったと思いたいのかもしれない。友人たちの間に自分がいて良いものか、変わりすぎた自分の姿を誰も触れないし攻撃しない、かといって気にしてはいるがそれを隠しているといったこともなく、自分だけが疑い深くて厭になる。独りだけ来なかった。彼は手紙だけを渡していた。訃報直後に書かれたその文章は意図的に句点をなくした詩のように激したリズムが流れていた。悲しさや悔しさや動揺、狼狽、表情は見せたくないが感情を共有したいといういいとこ取りのずるい彼らしいやり方だった。
 今日私はさよならをした。側で流れている言葉たちがさよならを告げていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

:奥底から天上へ 『九日~Nine Sols~』

2024年11月09日 | コラム
 世間がロマンシングサガ2をプレイしている中でこつこつと『九日~Nine Sols~』を遊んでいる。最近のパッチで対応言語が増え、本作が世界中に広がりつつあることは素直に喜ばしい。けれども日本では相変わらずプレイヤーは少ないことを勿体なく思う。アドベンチャーゲームからアクションゲームへの方針転換のための気遣いを行き届かせる一方で、習熟すればするほど装備品による細かなアクションの変化を楽しめるようになる。たとえば「速落玉」という装飾品をセットすると空中で下キーを押して素早く着地できるようになる。装飾品はセットできる数に限りがあるので、アクションを増やして行動の選択肢を増やすか、既にあるアクションを強化するかの戦略が重要となる。何に使うのか分からなかったり使いづらい装飾品でも相手を選べば途端に大化けするものもある。そして便利な装飾品ほど手に入れやすい。この辺りもアクション初心者が諦めないように作られている心遣いを覚える。一番最初に手に入れられる「金縛り玉」には誰もがお世話になるだろう。効果は「お札を貼った敵の動きを一瞬止める」という強力なもので、敵から連続攻撃を受ける頻度を減らすことが出来る。またアクションに不慣れなうちは飛び道具の弾き判定を緩める「跳返し玉」も有効だ。とりあえず装備しておけばざっくりした操作でも事故を減らせるのはありがたい上に、拠点でいつでも購入することができる。困ったら拠点を覗けば種類は限られるが使いやすい打開アイテムが売られているので、序盤は拠点のアイテムを集めるようにプレイすると遊びやすいかもしれない。勿論道中をくまなく探索したり、特定の場所に出現する商人が売るアイテムの購入を目指してもよい。ただしやられると集めたお金はパアになるので注意は必要だが、これもお金を集めやすくなるアイテムを装備して敵を倒せばレベルアップも兼ねられて一石二鳥となる。けれども戦っても上げられるのはスキルの種類のみなので、最大体力を増やすにはまた別の方法が必要となる。ついでに本作には防御力を上げるという甘えはないので、どんなに強化しても食らうダメージは変わらない。「弾き」に成功すればダメージを受けることはないためだ。やはりこの辺りもバランス感覚の良さを覚える。周回を重ねて終わりが見えるほどに次はどのようなルートでクリアしようか、何を使おうかで頭がいっぱいになる。気がつくと冒険を中断してやり直している。ラスボスの顔を拝んだ回数がそんなに無いことに気付いたのはついこの頃のことだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・祭りの秋

2024年10月26日 | コラム
 神保町の古本祭りを訪れなくなって久しい。通販で本を買うようになり、その本が山と化し、読書は一向に進まずと自分の性格を弁えないまま本だけが積み重なっていく。詰ん読もまた「知らないことがあることを身の回りに物理的に置く」という精神鍛錬の効果があるらしいが、むしろ精神を圧迫する。春頃、久しぶりに訪れるとタンゴ喫茶『ミロンガ』は路地から表通りに店を変え、以前の沈黙は擲たれて若者の大声の合間を縫い辛うじてタンゴが聞き取れるといった具合に店は若返っていた。向かいの『ぶらじる』にも休日の影響で大勢の人が列を作っており、夜に独りで小さなボウルほどの大きさのコーヒーゼリーを頂いた記憶がどんどんと遠ざかる。感傷的な理由を書いたが本を増やしたくないの一点張りで古本祭りから足を遠ざけている。晴れたら行こう気が向いたら行こうとほったらかして居る間も祭りは続いており、山車やお囃子こそ聞こえないが乾いた古本の埃っぽい香ばしさ漂う露天は今も人が歩き続けている。路地の奥にあった宅配便のサービスは今でも健在だろうか。それほどまでに本は買いたくはないが、ふとした出会いを求めて歩く店は並木道のように街へ馴染んでいて、ビル影に本の日焼けを守ってもらいながら送るページにはその瞬間の買い物の楽しみが生じている。
 今年は三の酉なので酉の市も五日、十七日、二十九日の三日間開かれる。そちらは本式の祭りで神社によっては手拍子に混じりお囃子が流れる夜の風情が好もしい。本の香りは一切しないが本に書かれる文化は生きている。訪れないうちに見世物小屋は代替わりして唯一の興行者も店を畳んだらしい。らしいというのは去年中に入れなかったためだ。彼等にとっても私にとっても一年は平等に過ぎていく。けれども私に取っては見世物小屋の時間は十一時半を過ぎても開かない天幕の前でまごついていた時間で止まっており、あのテントの中に流れていた時間は知らない。かつては市が開いてから終わるまで休むことなく演目を続けていた体力勝負の文化もなくなった。それはそれで良いことだ。夜、祖母らしき老女に手を引かれながら女の子が眼を見開いて釘付けになっていた舞台があればいい。あればいいが、去年の出し物は河童だった。今年の出し物には蛇食いや火吹き女が出るだろうか、と思いながら祭りに行く予定を組む時間こそが歳を取るにつれて醍醐味になりつつあるのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

:待ち望まれて 『九日~Nine Sols~』

2024年10月12日 | コラム
 来月十一月二六日にコンシューマー三種で『九日~Nine Sols~』の発売が決定した。喜ばしい。やっとこのゲームを周囲にプレイしてもらいやすくなった。本作の魅力については徒然の日記で語ったとおり、「いかにして「複雑なアクションゲームを遊ぶ楽しみ」をアドベンチャーゲームのユーザーに知ってもらうか」を中核に据えた親切な作りと、赤燭遊戯社の得意とする複雑な世界観と深い人物の描き込みの二本柱である。ストーリー作りとゲーム的な探索に応じて開示される情報量の加減の巧さは代表作『返校』と『還願』で鍛えられており、『返校』はスマートフォンでも遊ぶことが出来るため『九日~Nine Sols~』の前に赤燭遊戯社の雰囲気を知るため遊んでおくのも良いと思う。一九六〇年代の国民党による台湾への言論統制時代という歴史へ堂々と切り込む潔さと、題材に対する真摯な態度が当時高く評価され幅広くメディア展開も行われた『返校』は社会現象を起こすほどの影響を及ぼしたが、『九日~Nine Sols~』もその系譜は引き継いでいる。話を整理して少し考えるとどうもこれは現実のある社会問題を間接的に風刺しているのではないかと邪推するのは既にこの会社の魅力に私が取り込まれている証拠だろう。

 まったくの2Dアクションゲームの新作として、特に遊びやすいSwitchに来てくれたことがありがたい。PVを見ると一部の演出が修正されているものの細かい部分なのでストーリーの中核部分は修正されていないと信じたいが、それが修正されていても話の根幹が変わらなければ『九日~Nine Sols~』が私たちに与えてくれる面白さの質に変わりは無いだろう。アニメーションは私の並みのPCでも問題なく動き、微細な判定を要するアクションも違和感を覚えることなく進める事ができた。ゲーム専用機器ならばもっと繊細に、もっと緊密にアクションを凝縮して楽しむことができるのが少々羨ましいかもしれない。

 問題はストーリーを語る言葉の方で、しばらく遊んでいないうちにアップデートが行われ物語の根幹を成す「道/大道」という単語が一律で日本語版は「タオ」という単語に置き換わってしまったことは衝撃だった。道教の思想を世界観の根底に敷いているためにこの単語は最も繊細で重要な鍵を握る言葉なのだが、「道」だけでは道教の知識が無い人には単なる個人の思想に見えてしまいかねないので修正はやむなしかもしれないが、そこは「大道」などの単語で補足しても良かったのではないかと思う。また併せて装備の名前が例えば「尋敵刃」が「影討ちの刃」といった調子に変わってしまったことも少々残念だった。キャラクターの台詞もアップデートの度に微妙な追加や改変が施されており、注意深くなるのは仕方ないとはいえ日本語の場合は「わからなくても漢字のニュアンスで文脈を掴む」ことがやりやすいので、漢語を無闇に日本語の文法に置かなくても良かったように思う。だがそれを感じ取れるのは日本語ネイティブの感性にかかっているので難しいところだろう。来月末から一気にこの世界が日本へ広がることを切に願いたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

:約束の日の後

2024年09月28日 | コラム
 イヤリングを買う約束をして一週間の間に二本報を聞いた。動けなくなっていた。今も雨の重みと体調の都合もあって身体の動きは鈍重であり眠りたくて仕方が無い。眠りの中へ逃げ込みたいというよりはしがみつくように眠りを欲している。眠りに飢えている。それで一日文字通り寝込んでいた日があった。その次の日が約束の日で、あの店員の夏晴れのような笑顔に向き合わなければならなかった。事情を話す気にはなれなかった。外へ出なければ延々とまずいままだと悟り、私は出かけた。眠りの中を泳いでいるかのように現実は希薄だった。店員はいつもどおりの笑顔で、アクセサリーが売れるということもあってより嬉しそうに笑顔を輝かせながら私を迎えた。私も昨日そんな報を聞いたことも忘れて彼女のリードするままにお喋りを楽しんだ。楽しんだと思うが何を喋ったかは記憶から抜けている。疲れたという感覚は薄かった。母からは「そのチェーン、Tシャツには重すぎるね」とぼそりと言われたが、つけていくことを引き留めて外すまで出さないという過去の意地からは解放されていたのでふらりと出て行くことができたチェーンにイヤリングを合わせるとしっくり顔に収まった気がした。
 イヤリングを買って外に出る。晴れていた。会社の規則の休みは連休で潰れ明日からは何事もなかったかのように働かなければならない。誰でもそうだ。弟の会社はそうではないらしいが、私は有給休暇を使わなければならなくなった。また茫洋とした空気に取り囲まれて歩く。電車に乗る。最寄りの少し手前で下りてデパートに寄った。買わなければならないものがあった。
 インターネットで検索し、電話でも取り扱いを確認した店は黒一色の服を向かって右手に、華やかなパーティードレスを左手に置いていた。私は店に入ると小柄な店員へ自分のサイズに見合った黒い服を選ぶように頼み、試着に時間をかけて一時間ほど後に服を手にして店を出た。イヤリングの入った手提げが何故か余計に重かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする