前回は攻略情報を予め知っても十分楽しめるゲームのことを書いた。しかし一方で攻略を知るとゲームの面白さが激減してしまうゲームも存在する。PS2『ICO』(2001年・ソニーコンピュータエンターテイメント)がそうだ。
小説家の宮部みゆきが小説化したことでも著名なゲームである『ICO』は、イコという角の生えた少年を操作して閉じ込められた城から脱出するゲームだ。イコには同行者の少女がおり、彼女と共に城から脱出することがゲームの目的である。
プレイヤーが能動的に可能な操作は少ない。簡潔に記せばイコを移動させる、ジャンプさせる、棒を振り回す、物を調べる、視点を動かす、そして少女を呼び寄せて手をつなぐことだ。少女を操作することはできない。また、少女はイコよりも行動に制限がある。たとえば吊り下げられた鎖に掴まる、壁のわずかな凹凸に手をかけてよじ登ることなどができないため、それらの行為が可能なイコを操作してプレイヤーは少女と共に進むことができる道を見つけなければならない。なぜならば少女が隣にいなければ動かない仕掛けも随所に施されており、プレイヤーに少女を連れてゆくことを義務付けているためだ。
先を急いで少女を置き去りにしまうと、どこからともなく現れた黒い「影」がやってきて少女を連れ去ってしまう。少女が連れ去られてしまうとゲームオーバーだ。敵役である「影」達はイコが少女と共にいてもやってくる。少女を狙う「影」を追い払い、彼女を守ることも必要だ。プレイヤーはとにかく彼女の手を引いて、共に城の中を歩いてゆく。
『ICO』の特徴は仕掛けについてのヒントが殆どないことだ。たとえばアクションゲームの『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998年 任天堂)では「ナビィ」という妖精が常に主人公の傍におり、注目すべき仕掛けがあると仕掛けの近くまで飛び、光ることでプレイヤーへ視覚的にギミックの存在を教えてくれる。しかし『ICO』では同行者の少女が身振り手振りで仕掛けの方向を曖昧に示唆してくれるものの、謎解きの解答や彼女が指し示しているものが何かを判断する手段はプレイヤーの目に任せられている。仕掛けの仕組みは理解して(或いは覚えて)しまえばすぐに解けるものばかりで、一度目は三時間かかった到達点も仕組みを知っていれば一時間もせずに到達することができる。筆者の場合「窓枠に手をかけて登る」という発想に辿り着くまで城を三時間近く少女の手を引いて彷徨った覚えがある。
この「発想に辿り着く」過程が『ICO』の最大の醍醐味だ。城の隅々を眺め廻し、置かれているものを片端から調べ、少女の見つめている先に視点を移し、正当解を導き出してゆく過程で、城の構造を知りイコの操作の限界を知りながらプレイヤーは少しずつ彼と彼女を終点まで導いてゆく。仕掛けは正当解以外の方法で解くことはできない。そのため試行錯誤の余地は情報が無い場合のみに限られている。それ故に先に仕掛けの解き方を知ってしまうと城の中を彷徨うという過程が省かれてしまう。イコが閉じ込められた城で行けない所は無いと言ってもよいだろう。迷いに迷った先でプレイヤーは発見をする。
ただ終点へ到着するだけならばとても簡素なゲームに見えてしまうが、周囲を見回して初めて『ICO』の城の広さや構造がわかってくる。その過程を省いて進めてしまうことは大変にもったいなく、またプレイヤー自身が自分の楽しみを最初から奪ってしまう事にもつながる。謎解きの方法を多数用意する代わりに『ICO』がプレイヤーへ与えるのは、ひとえに発見の楽しみ、初めて訪れた場所をおっかなびっくり探索してゆく楽しみなのだ。
小説家の宮部みゆきが小説化したことでも著名なゲームである『ICO』は、イコという角の生えた少年を操作して閉じ込められた城から脱出するゲームだ。イコには同行者の少女がおり、彼女と共に城から脱出することがゲームの目的である。
プレイヤーが能動的に可能な操作は少ない。簡潔に記せばイコを移動させる、ジャンプさせる、棒を振り回す、物を調べる、視点を動かす、そして少女を呼び寄せて手をつなぐことだ。少女を操作することはできない。また、少女はイコよりも行動に制限がある。たとえば吊り下げられた鎖に掴まる、壁のわずかな凹凸に手をかけてよじ登ることなどができないため、それらの行為が可能なイコを操作してプレイヤーは少女と共に進むことができる道を見つけなければならない。なぜならば少女が隣にいなければ動かない仕掛けも随所に施されており、プレイヤーに少女を連れてゆくことを義務付けているためだ。
先を急いで少女を置き去りにしまうと、どこからともなく現れた黒い「影」がやってきて少女を連れ去ってしまう。少女が連れ去られてしまうとゲームオーバーだ。敵役である「影」達はイコが少女と共にいてもやってくる。少女を狙う「影」を追い払い、彼女を守ることも必要だ。プレイヤーはとにかく彼女の手を引いて、共に城の中を歩いてゆく。
『ICO』の特徴は仕掛けについてのヒントが殆どないことだ。たとえばアクションゲームの『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998年 任天堂)では「ナビィ」という妖精が常に主人公の傍におり、注目すべき仕掛けがあると仕掛けの近くまで飛び、光ることでプレイヤーへ視覚的にギミックの存在を教えてくれる。しかし『ICO』では同行者の少女が身振り手振りで仕掛けの方向を曖昧に示唆してくれるものの、謎解きの解答や彼女が指し示しているものが何かを判断する手段はプレイヤーの目に任せられている。仕掛けの仕組みは理解して(或いは覚えて)しまえばすぐに解けるものばかりで、一度目は三時間かかった到達点も仕組みを知っていれば一時間もせずに到達することができる。筆者の場合「窓枠に手をかけて登る」という発想に辿り着くまで城を三時間近く少女の手を引いて彷徨った覚えがある。
この「発想に辿り着く」過程が『ICO』の最大の醍醐味だ。城の隅々を眺め廻し、置かれているものを片端から調べ、少女の見つめている先に視点を移し、正当解を導き出してゆく過程で、城の構造を知りイコの操作の限界を知りながらプレイヤーは少しずつ彼と彼女を終点まで導いてゆく。仕掛けは正当解以外の方法で解くことはできない。そのため試行錯誤の余地は情報が無い場合のみに限られている。それ故に先に仕掛けの解き方を知ってしまうと城の中を彷徨うという過程が省かれてしまう。イコが閉じ込められた城で行けない所は無いと言ってもよいだろう。迷いに迷った先でプレイヤーは発見をする。
ただ終点へ到着するだけならばとても簡素なゲームに見えてしまうが、周囲を見回して初めて『ICO』の城の広さや構造がわかってくる。その過程を省いて進めてしまうことは大変にもったいなく、またプレイヤー自身が自分の楽しみを最初から奪ってしまう事にもつながる。謎解きの方法を多数用意する代わりに『ICO』がプレイヤーへ与えるのは、ひとえに発見の楽しみ、初めて訪れた場所をおっかなびっくり探索してゆく楽しみなのだ。