えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・十一月の雪

2016年11月26日 | コラム
 雪が交差しながら降っている。時々みぞれになりながらもひっきりなしに、東京中の列車を止めながら降り続いていた。雪が降ると朝、私はベランダに出て写真を撮る。見比べると一月に撮った景色とあまり変わらない景色だった。目の前をボタン雪が音もたてずにベランダの手すりに積もった雪へ落ちた。

 傘をささずに歩く人もいる。帽子かフードを目深にかぶり、足早にどこかへ歩いてゆく。人通りはないに等しい。あとひと月遅かったらかえって繁盛していただろうに、と、幼児を済ませて帰りを急ぎながら思った。いつも冬至をずっと過ぎてから予告して訪れる雪の不意打ちを食らった十一月の終わり、テレビは交通機関と雪の降り具合を放送している。

 外へ出てここ一週間の冷気で色づいたいちょうとけやきの並木が雪の間にいた。足を止めて携帯電話で写真を撮る人もいる。葉の一枚にふっさりと被さる雪があるだけで、色がより晴れやかに葉を光らせるようだった。『クレヨン王国のパトロール隊長』で大切な役目を務めるのもこんな雪だったのだろう。

 主人公の少年はある願いをかなえてもらうために美食家の神様をもてなさなければならなくなった。貧しい少年は大人の味覚を知らない。彼は一計を弄し、神様を秋の山へ案内した。紅葉で埋まる山道にくたびれた神様に少年は頂上でおにぎりを振舞う。その時、見計らったかのように空から雪が舞い降りる。その光景と疲れた体にしみるおにぎりの味に神様は満足を覚え、少年の願いをかなえた。

 今、窓から見える外には常緑樹ばかりで『クレヨン王国のパトロール隊長』の赤と白のハッとする瞬間が贅沢にも思える。雪はあるところでは雨に変わりあるところでは雪のまま空から落ち、窓辺に寄りかかる体には窓枠から手足を伝って冷えがやってくる。私は窓から体を離して暖かい部屋へ戻った。
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・見世物小屋のこと

2016年11月12日 | 雑記
「あ、セブンイレブンだ」
 新宿花園神社の混雑を抜けた彼女の発した第一声には奇妙な安堵の響きがあった。
「明日も明後日もやの明後日もありません、今日限り本日限りの見世物でございます……」
 距離にすれば十メートルほどだろうがもっと遠いところで叫ばれているようなバンダイの呼び声を後に私は彼女の手を引いてビルの並ぶ街へ戻った。
 初めて見世物小屋に入ったのは大学生の頃だったと記憶している。友人がしきりに「へび女」の物珍しさと彼女が引退することを力説していたので連れ立ち新宿へ行った。

 毎年酉の市に合わせて境内へやってくる見世物小屋の近くに行くと先ず口上がさらさらと耳に届く。合間に演目の変わり目の合図の銅鑼が鳴り、入り口の周囲には人が熊手を持ったまま勇み足を踏んでいる。「さあさあどうぞ」と、そんな人々を牛舎へ追い込むように男が客を入口へ追い込む。流れに乗って幕をくぐると既に演目が始まっている。立ち見だ。地べたから舞台に対して斜めに滑り止めのついた板を立てかけ、前に入れない(近寄りたくない)客は板の上に立って太夫たちの芸を見る。演目が進むにつれてだんだんと人に流され、気づくと演目を観終わるころ出口についている。「お代は見てのお帰り」の口上の言葉にたがわず観客は出口へ向かう。出口には二人の小母さんが座っており手前の小母さんに千円を渡し奥の小母さんから二百円のお釣りを受け取って出た。外では相変わらず口上が肉声で続いている。ぼうっとした気分でその場に立っていた。その場に今度は私が案内として友達を連れている。

 かつて訪れたときは薄暗かった小屋はこうこうと明るく、「樺太から来た野人」なる三人組が舞台で足を踏み鳴らして叫んでいた。それに負けじとマイクを握った銀色のボディースーツを着た女が野人たちに次々といろいろなことを命じる。「いろいろなこと」は、次の二の酉に見ていただくとして割愛するがその日の演目は「樺太から来た野人」「鼻の芸人」「中国の達人 串刺し!?」「やもり女」の四つだった。演目に決まった時間はなくぐるぐると決まった順番に沿って太夫たちは小屋が閉まるまで芸を続ける。なので客はすべての演目を観るまで小屋にいて構わない。もちろん、途中で出て行ってもよい。トリの「やもり女」は記憶違いでなければ昔「へび女」の後を継いで薄暗くあおざめた舞台に上がっていた美人だと思う。やはりこれも詳述すると楽しみが減るのでもどかしいが、彼女の芸は演目のいかがわしさに加えて艶めかしい。「へび女」の時は髪を下し着物を少し崩して着ており、芸は体を張った、一歩ずれるとわざとらしい笑いにつながるものだが彼女はそれを何食わぬ顔で色っぽくしてのける。始まりから終わりまで叫ぶのは客のほうで、彼女は一言も口を利かず司会の声に合わせて「やもり女」の肉感的な芸を見せた。今はやもり女と化したへび女のしぐさに唸る私の隣で同行者は見事に言葉を失って固まっていた。

 その彼女が見世物小屋を出て発した「セブンイレブン」は、祭りの騒々しさといかがわしさを圧縮した空気から自分の知る普段に戻るための一言だったのかもしれない。神社の雑踏から離れるにつれ舌が回りだした彼女を観ながらそんなことを思った。
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