・涙をこぼさぬフラッパー
劇場に溶け込むようにねっとりと光るネオンが輝いた。と同時に、ピンクと白の格子模様のシルクハットと燕尾服の男が腕を振り上げるのを合図に幕が引き上げられる。「キャンディー・ドール」と早口に繰り返しながら太もももあらわな女たちが足を振り上げ踊りだした。舞台が輝き始める。CDで吉田日出子がゆうゆうと歌っていたその曲は喧噪のように声を張り上げる女達のものであった、それを知った最初の瞬間だった。
2010年に再演された『上海バンスキング』の後を追いかけるように再演された『もっと泣いてよフラッパー』は、殆どの主要メンバーをそのままに演じた『バンスキング』と対照的に、殆どのキャストを一新していた。吉田日出子の演じたトランク・ジルを松たか子、小日向文世の演じたコミ帝国皇太子を片岡亀蔵、ギャングの親分アスピリンを松尾スズキ……。バトンタッチされた彼らを串田和美がクラリネットを取って狂言回しのバウバウ小僧を演じ、率いる。
幕の上がった舞台の奥には二階建てのセットが両脇に組まれ、楽器が置かれている。幾つかの席はからっぽだ。それは出番の済んだ役者たちが上がるための席で、誰を演じていようとひとたび出番が終われば、衣装のまま席に座ってセッションに参加する。演奏はみんな男ばかりで、女たちは歌い踊る。演じられるシーンはめまぐるしく変わり、派手なクラブから公園、地下道、モーテル、果てはあの世と行き着くところまで行ってしまう。時間の流れと共に進む物語には、舞台に描かれなかった様々が奥底に見え隠れする。
松たか子が登場した。第一声。目配り。抑揚。そこにはジルを演じる吉田日出子を演じる松たか子がいた。気のせいだ気のせいだと言い聞かせながら舞台をじっと見つめても、ハスッパなことばの抑揚が吉田日出子である。確かに脚本の台詞をことばのままに読んでいるとジルは彼女そのままをモデルに作った女なのかも知れないものの、松たか子がどんな身振りをとろうと口を開けば吉田日出子が現れてしまうのには何か不思議な違和感を覚えた。
歌はさすがに違っていてほっとした。最後の最後、「部屋に帰ってお茶を飲もう」を顔をあげて伸びやかに歌う彼女にやっと「松たか子の演じるジル」が見えた。
ただ、観ていて落ち着いたのはやはりCDではわからない場面、吉田日出子本人を思わせない場面だった。鈴木蘭々演じる良家の娘フラポーと松尾スズキのアスピリンの出会いや、大森博はじめ自由劇場出身のギャングたちが並んで歌うコーラスの上手さだった。もしジルが『上海バンスキング』の主人公まどかのように出ずっぱりなら見る側は吉田日出子の影をひしひしと感じて息苦しく感じたと思う。まどかは成長し、ジルは変化する。ところどころジルにも見せ場はあるのだけれど、なし崩しに深い仲となったチャーリーからもらったシガレットケースで火を灯し、煙草を吸う場面は客をしんみりさせすぎた。そして最後に男に去られた女たちが歌う「もっと泣いてよフラッパー」。お天気サラと青い煙のキリーは叫んでもいい。彼女たちは初めて、真剣に愛したものを失ってしまったから。だが、ジルには叫んでほしくなかった。彼女は衝撃を受けないフラッパーだから。ゆうゆうと男をまたいで去ってゆくなりたてのフラッパーだから。それを吉田日出子でもなく、松たか子でもなく、ジルという一人の人間を観られなかったことが心に残る。
劇場に溶け込むようにねっとりと光るネオンが輝いた。と同時に、ピンクと白の格子模様のシルクハットと燕尾服の男が腕を振り上げるのを合図に幕が引き上げられる。「キャンディー・ドール」と早口に繰り返しながら太もももあらわな女たちが足を振り上げ踊りだした。舞台が輝き始める。CDで吉田日出子がゆうゆうと歌っていたその曲は喧噪のように声を張り上げる女達のものであった、それを知った最初の瞬間だった。
2010年に再演された『上海バンスキング』の後を追いかけるように再演された『もっと泣いてよフラッパー』は、殆どの主要メンバーをそのままに演じた『バンスキング』と対照的に、殆どのキャストを一新していた。吉田日出子の演じたトランク・ジルを松たか子、小日向文世の演じたコミ帝国皇太子を片岡亀蔵、ギャングの親分アスピリンを松尾スズキ……。バトンタッチされた彼らを串田和美がクラリネットを取って狂言回しのバウバウ小僧を演じ、率いる。
幕の上がった舞台の奥には二階建てのセットが両脇に組まれ、楽器が置かれている。幾つかの席はからっぽだ。それは出番の済んだ役者たちが上がるための席で、誰を演じていようとひとたび出番が終われば、衣装のまま席に座ってセッションに参加する。演奏はみんな男ばかりで、女たちは歌い踊る。演じられるシーンはめまぐるしく変わり、派手なクラブから公園、地下道、モーテル、果てはあの世と行き着くところまで行ってしまう。時間の流れと共に進む物語には、舞台に描かれなかった様々が奥底に見え隠れする。
松たか子が登場した。第一声。目配り。抑揚。そこにはジルを演じる吉田日出子を演じる松たか子がいた。気のせいだ気のせいだと言い聞かせながら舞台をじっと見つめても、ハスッパなことばの抑揚が吉田日出子である。確かに脚本の台詞をことばのままに読んでいるとジルは彼女そのままをモデルに作った女なのかも知れないものの、松たか子がどんな身振りをとろうと口を開けば吉田日出子が現れてしまうのには何か不思議な違和感を覚えた。
歌はさすがに違っていてほっとした。最後の最後、「部屋に帰ってお茶を飲もう」を顔をあげて伸びやかに歌う彼女にやっと「松たか子の演じるジル」が見えた。
ただ、観ていて落ち着いたのはやはりCDではわからない場面、吉田日出子本人を思わせない場面だった。鈴木蘭々演じる良家の娘フラポーと松尾スズキのアスピリンの出会いや、大森博はじめ自由劇場出身のギャングたちが並んで歌うコーラスの上手さだった。もしジルが『上海バンスキング』の主人公まどかのように出ずっぱりなら見る側は吉田日出子の影をひしひしと感じて息苦しく感じたと思う。まどかは成長し、ジルは変化する。ところどころジルにも見せ場はあるのだけれど、なし崩しに深い仲となったチャーリーからもらったシガレットケースで火を灯し、煙草を吸う場面は客をしんみりさせすぎた。そして最後に男に去られた女たちが歌う「もっと泣いてよフラッパー」。お天気サラと青い煙のキリーは叫んでもいい。彼女たちは初めて、真剣に愛したものを失ってしまったから。だが、ジルには叫んでほしくなかった。彼女は衝撃を受けないフラッパーだから。ゆうゆうと男をまたいで去ってゆくなりたてのフラッパーだから。それを吉田日出子でもなく、松たか子でもなく、ジルという一人の人間を観られなかったことが心に残る。