えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・祭りの秋

2024年10月26日 | コラム
 神保町の古本祭りを訪れなくなって久しい。通販で本を買うようになり、その本が山と化し、読書は一向に進まずと自分の性格を弁えないまま本だけが積み重なっていく。詰ん読もまた「知らないことがあることを身の回りに物理的に置く」という精神鍛錬の効果があるらしいが、むしろ精神を圧迫する。春頃、久しぶりに訪れるとタンゴ喫茶『ミロンガ』は路地から表通りに店を変え、以前の沈黙は擲たれて若者の大声の合間を縫い辛うじてタンゴが聞き取れるといった具合に店は若返っていた。向かいの『ぶらじる』にも休日の影響で大勢の人が列を作っており、夜に独りで小さなボウルほどの大きさのコーヒーゼリーを頂いた記憶がどんどんと遠ざかる。感傷的な理由を書いたが本を増やしたくないの一点張りで古本祭りから足を遠ざけている。晴れたら行こう気が向いたら行こうとほったらかして居る間も祭りは続いており、山車やお囃子こそ聞こえないが乾いた古本の埃っぽい香ばしさ漂う露天は今も人が歩き続けている。路地の奥にあった宅配便のサービスは今でも健在だろうか。それほどまでに本は買いたくはないが、ふとした出会いを求めて歩く店は並木道のように街へ馴染んでいて、ビル影に本の日焼けを守ってもらいながら送るページにはその瞬間の買い物の楽しみが生じている。
 今年は三の酉なので酉の市も五日、十七日、二十九日の三日間開かれる。そちらは本式の祭りで神社によっては手拍子に混じりお囃子が流れる夜の風情が好もしい。本の香りは一切しないが本に書かれる文化は生きている。訪れないうちに見世物小屋は代替わりして唯一の興行者も店を畳んだらしい。らしいというのは去年中に入れなかったためだ。彼等にとっても私にとっても一年は平等に過ぎていく。けれども私に取っては見世物小屋の時間は十一時半を過ぎても開かない天幕の前でまごついていた時間で止まっており、あのテントの中に流れていた時間は知らない。かつては市が開いてから終わるまで休むことなく演目を続けていた体力勝負の文化もなくなった。それはそれで良いことだ。夜、祖母らしき老女に手を引かれながら女の子が眼を見開いて釘付けになっていた舞台があればいい。あればいいが、去年の出し物は河童だった。今年の出し物には蛇食いや火吹き女が出るだろうか、と思いながら祭りに行く予定を組む時間こそが歳を取るにつれて醍醐味になりつつあるのかもしれない。
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:待ち望まれて 『九日~Nine Sols~』

2024年10月12日 | コラム
 来月十一月二六日にコンシューマー三種で『九日~Nine Sols~』の発売が決定した。喜ばしい。やっとこのゲームを周囲にプレイしてもらいやすくなった。本作の魅力については徒然の日記で語ったとおり、「いかにして「複雑なアクションゲームを遊ぶ楽しみ」をアドベンチャーゲームのユーザーに知ってもらうか」を中核に据えた親切な作りと、赤燭遊戯社の得意とする複雑な世界観と深い人物の描き込みの二本柱である。ストーリー作りとゲーム的な探索に応じて開示される情報量の加減の巧さは代表作『返校』と『還願』で鍛えられており、『返校』はスマートフォンでも遊ぶことが出来るため『九日~Nine Sols~』の前に赤燭遊戯社の雰囲気を知るため遊んでおくのも良いと思う。一九六〇年代の国民党による台湾への言論統制時代という歴史へ堂々と切り込む潔さと、題材に対する真摯な態度が当時高く評価され幅広くメディア展開も行われた『返校』は社会現象を起こすほどの影響を及ぼしたが、『九日~Nine Sols~』もその系譜は引き継いでいる。話を整理して少し考えるとどうもこれは現実のある社会問題を間接的に風刺しているのではないかと邪推するのは既にこの会社の魅力に私が取り込まれている証拠だろう。

 まったくの2Dアクションゲームの新作として、特に遊びやすいSwitchに来てくれたことがありがたい。PVを見ると一部の演出が修正されているものの細かい部分なのでストーリーの中核部分は修正されていないと信じたいが、それが修正されていても話の根幹が変わらなければ『九日~Nine Sols~』が私たちに与えてくれる面白さの質に変わりは無いだろう。アニメーションは私の並みのPCでも問題なく動き、微細な判定を要するアクションも違和感を覚えることなく進める事ができた。ゲーム専用機器ならばもっと繊細に、もっと緊密にアクションを凝縮して楽しむことができるのが少々羨ましいかもしれない。

 問題はストーリーを語る言葉の方で、しばらく遊んでいないうちにアップデートが行われ物語の根幹を成す「道/大道」という単語が一律で日本語版は「タオ」という単語に置き換わってしまったことは衝撃だった。道教の思想を世界観の根底に敷いているためにこの単語は最も繊細で重要な鍵を握る言葉なのだが、「道」だけでは道教の知識が無い人には単なる個人の思想に見えてしまいかねないので修正はやむなしかもしれないが、そこは「大道」などの単語で補足しても良かったのではないかと思う。また併せて装備の名前が例えば「尋敵刃」が「影討ちの刃」といった調子に変わってしまったことも少々残念だった。キャラクターの台詞もアップデートの度に微妙な追加や改変が施されており、注意深くなるのは仕方ないとはいえ日本語の場合は「わからなくても漢字のニュアンスで文脈を掴む」ことがやりやすいので、漢語を無闇に日本語の文法に置かなくても良かったように思う。だがそれを感じ取れるのは日本語ネイティブの感性にかかっているので難しいところだろう。来月末から一気にこの世界が日本へ広がることを切に願いたい。
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