久しぶりに行きつけの古本屋にいくと、
お風呂屋さんの番台のようなレジの前に、
大量の「三国志」(横山光輝)の単行本が積み重なっていました。
こうした本は売れてゆくのに、たぶんオヤジの趣味なのでしょう、
レジの左側の本棚を上から下まで占める、澁澤龍彦の本たちは、
もう6、7年近く通っている間に、増えてゆくばかりなのです。
:平凡社ライブラリー「サルの目 ヒトの目」河井雅夫著
二年ほど前に亡くなった河井隼夫のお兄さんです。
文化人類学者で、サルの生態学を専門に調査している方だそうです。
やっぱり長兄だけあって、隼夫さんよりもかっちりした、でもリズムのよい
日本語の、学者さんらしい言葉の使い方です。
「サルの目 ヒトの目」は、サルの社会の仕組みを丁寧に語りながら、
そこから見出したステップを、ヒトの進歩の過程と比較して結びつける、
学術書よりのエッセイです。
サル、とはいえ、ここで主に語られるサルはチンパンジー、ゴリラの類人猿達です。
いずれも、人類の進化のプロセスを辿るための資料として、
その暮らしぶりや社会が重要視されています。
そして、河井さん描く、ゲラダヒヒという、エチオピアに住む
サルの行動がほほえましいです。
河井雅夫さんは、1973年から74年まで、一年かけてエチオピアに住み、この
ヒヒの仲間の群れを観察しました。
『朝、断崖で寝ていたゲラダヒヒたちは、崖を登って上の草原に出てくる。
それを待ち受けて、私は彼らの仲間に入れてもらう。
そして、彼らが歩けば歩き、停まれば停り、休息する時は休息して、
彼らの生活のリズムの通りに動く。』
彼らはオス一頭とメス数頭の、「ユニット」という小グループが集まり、
さらにその小グループがいくつか集まって「バンド」という大グループを
形成しています。
この大グループの中では特定のリーダーがいません。
つまり順位がありません。(ユニットにはあります)
そして、大グループも小グループも、なわばりを持ちません。
これはどういうことかというと、群のメンバーがとっても自由だと
いうことなのです。
出るのも自由、入るのも自由。
チンパンジーなどの類人猿、ニホンザルなど普通のサルたちも、
こうしたシステムを持ちません。
現在地球上での絶対数が多いサルの大半は、なわばりを持ち順位があります。
太古から現代へと続いてきた種のシステムの大半がこれを採用している、
つまりなわばりと順位制は種にとってとても効率的なシステムなのです。
でも、効率的なシステムをとらなかったゲラダヒヒも今に残っている。
数こそ少ないですが、エチオピアの高所を選んだ彼らの天敵はいません。
そうしたところで育った社会性を、たぶん、河井さんはいとおしみ、
穏やかなサルたちは河井さんの中に深く残ったのだと思います。
ゲラダヒヒを文章に落とし込む、動きの語彙よりも生活のシステムを淡々と
解説してゆく過程がとても熱っぽくて暖かいのです。
最後に、平凡社ライブラリー版には、かつて単行本の装丁を担当した
安野光雅があとがきを書いています。
このあとがきが、またよいのです。
「ゲラダヒヒ」を「ゲダラヒヒ」の方が言いやすいからとこれで突き通し、
とどめのまとめのせいで、ある東洋文庫を読む気にならされました。
違う書評してますよね、安野画伯。
*一部のヒトへ
ちなみに、今回のゲラダヒヒの話を引用した
『「なわばり」の無い世界――ゲラダヒヒの高原にて』
の章の初出は、1975年1月の「諸君!」(文芸春秋)です。
どっとはらい。
お風呂屋さんの番台のようなレジの前に、
大量の「三国志」(横山光輝)の単行本が積み重なっていました。
こうした本は売れてゆくのに、たぶんオヤジの趣味なのでしょう、
レジの左側の本棚を上から下まで占める、澁澤龍彦の本たちは、
もう6、7年近く通っている間に、増えてゆくばかりなのです。
:平凡社ライブラリー「サルの目 ヒトの目」河井雅夫著
二年ほど前に亡くなった河井隼夫のお兄さんです。
文化人類学者で、サルの生態学を専門に調査している方だそうです。
やっぱり長兄だけあって、隼夫さんよりもかっちりした、でもリズムのよい
日本語の、学者さんらしい言葉の使い方です。
「サルの目 ヒトの目」は、サルの社会の仕組みを丁寧に語りながら、
そこから見出したステップを、ヒトの進歩の過程と比較して結びつける、
学術書よりのエッセイです。
サル、とはいえ、ここで主に語られるサルはチンパンジー、ゴリラの類人猿達です。
いずれも、人類の進化のプロセスを辿るための資料として、
その暮らしぶりや社会が重要視されています。
そして、河井さん描く、ゲラダヒヒという、エチオピアに住む
サルの行動がほほえましいです。
河井雅夫さんは、1973年から74年まで、一年かけてエチオピアに住み、この
ヒヒの仲間の群れを観察しました。
『朝、断崖で寝ていたゲラダヒヒたちは、崖を登って上の草原に出てくる。
それを待ち受けて、私は彼らの仲間に入れてもらう。
そして、彼らが歩けば歩き、停まれば停り、休息する時は休息して、
彼らの生活のリズムの通りに動く。』
彼らはオス一頭とメス数頭の、「ユニット」という小グループが集まり、
さらにその小グループがいくつか集まって「バンド」という大グループを
形成しています。
この大グループの中では特定のリーダーがいません。
つまり順位がありません。(ユニットにはあります)
そして、大グループも小グループも、なわばりを持ちません。
これはどういうことかというと、群のメンバーがとっても自由だと
いうことなのです。
出るのも自由、入るのも自由。
チンパンジーなどの類人猿、ニホンザルなど普通のサルたちも、
こうしたシステムを持ちません。
現在地球上での絶対数が多いサルの大半は、なわばりを持ち順位があります。
太古から現代へと続いてきた種のシステムの大半がこれを採用している、
つまりなわばりと順位制は種にとってとても効率的なシステムなのです。
でも、効率的なシステムをとらなかったゲラダヒヒも今に残っている。
数こそ少ないですが、エチオピアの高所を選んだ彼らの天敵はいません。
そうしたところで育った社会性を、たぶん、河井さんはいとおしみ、
穏やかなサルたちは河井さんの中に深く残ったのだと思います。
ゲラダヒヒを文章に落とし込む、動きの語彙よりも生活のシステムを淡々と
解説してゆく過程がとても熱っぽくて暖かいのです。
最後に、平凡社ライブラリー版には、かつて単行本の装丁を担当した
安野光雅があとがきを書いています。
このあとがきが、またよいのです。
「ゲラダヒヒ」を「ゲダラヒヒ」の方が言いやすいからとこれで突き通し、
とどめのまとめのせいで、ある東洋文庫を読む気にならされました。
違う書評してますよね、安野画伯。
*一部のヒトへ
ちなみに、今回のゲラダヒヒの話を引用した
『「なわばり」の無い世界――ゲラダヒヒの高原にて』
の章の初出は、1975年1月の「諸君!」(文芸春秋)です。
どっとはらい。